ロシア留学日記
ロシア国立グリンカ音楽院を卒業した日本人留学生の記録。
1年目(1997年8月〜)
2年目(1998年8月〜)
3年目(1999年8月〜)
4年目(2000年7月〜)
5年目(2001年9月〜)
5年目(2001年9月〜)
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【はじめに】
留学も5年目に突入。授業料のお金をどのように日本からロシ
ア国内に持ち込むかという問題が生じ、税関の金額の問題もロ
シアに住む年数が長くなれば長くなるほどややこしくなるので
、私がお金を取りに日本に帰ることになった。某航空会社との
行き違いミスで7月29日の便に乗れず、8月3日に日本に上陸し
た。ハバロフスクー新潟便が大幅に遅れて、3日の夕方5時に新
潟空港に着き、入国検査を通過、トランクを受け取り、一目散
にチケットカウンターへ走って、乗り継ぎの5時半すぎの新潟
―大阪便に辛うじて滑り込み(!)、間に合ったという感じだ
った。日本では運転免許の更新やアミデ(高校の同窓生のテニ
スサークル)の集まりに顔を出したりしていたら、あっという
間に10日が経ってしまった。そして、8月13日、また泣く泣く
(もう少し日本にいたい気持ちとノボシビルスクが恋しい気持
ちと半々だった)ノボシビルスクに戻ってきた。
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8月14日
8月3日にハバロフスクを発つ時、問題になったヴァイオリンの
問題を速やかに解決するために、言われた通りロシア国家文化
庁の文化的貴重品を保護している部署へ赴いた。ついでに、ヴ
ァイオリンのパスポートも作ることにした。いろいろお金も時
間もかかって面倒だったが、やっておかないと後でまた怒られ
る羽目になるのでいわれた通りにやった。
8月16日
音楽院の大学院生で団伊玖磨さんの研究をしているオクサーナ
と翻訳作業をした。彼女の指導教官はマリーナ先生で、マリー
ナ先生が国際交流基金の研修留学で手に入れてきた団伊玖磨氏
のオペラのあらすじ、神奈川市で開催された「DAN YEAR 2000
」の各演奏会のブックレット、紀尾井ホール(東京)の現代音
楽演奏会のブックレット「日本の作曲21世紀の歩み」などを翻
訳した。この後、オクサーナは10数回私の元に通って来て、翻
訳作業は地道に続いた。翻訳料は取るつもりはなかったが、「
少ないですが…」と言って、オクサーナはいつも100ルーブル
(約3ドル)を置いていった。ロシア人にしてみたら、安く
はないが、これ以上は無理だろうなぁという金額。私もけちで
はないので、黙って貰えるだけ貰っておくことにした。オクサ
ーナとの翻訳バイトの後、デニスの子供イーゴリ君の誕生日パ
ーティーに行った。デニスは最近新しいアパートを買って、す
ごくいい暮らしをしている、と思った。
8月17日
グボーズディフ先生のダーチャに行った。泊りがけで20日まで
いた。今回のダーチャでの一番の思い出は“キノコ狩り”だっ
た。朝6時に起きて、顔以外は隠れるように衣服を着込んで、
完全武装をし、大きなバケツを持って、用意してくれたリュッ
クサックを持って、ゴム長靴を履いて、先生の友人=劇場でア
ルトを弾いている人(名前は忘れてしまった)と二人でキノコ
狩りに出かけた。朝もやの森の中を歩くこと2時間、私達はキ
ノコがたくさん出る場所にたどり着いた。道中生えている色々
なキノコを拾いながら、キノコの種類というものを勉強した。
「白キノコ」「白樺キノコ」「毒キノコ」など。白キノコが食
感も良く、いわゆる日本でいうマッタケ級のキノコと言われて
いるらしい。私達は始終寄ってくるハエや蚊を小枝で払いなが
ら、キノコを集めた。1時間もするとバケツ一杯になり、重量
が感じられた。最後の最後で、私は白キノコを見つけた。「ラ
ッキーだったね」と言われた。でも、そんな所で運を使っても
仕方がないんだな…。蚊やハエは私達につきまとい、本当に追
い払うのに苦労した。小屋に帰って来て、鏡を見た私はショッ
クで、気が動転した。顔面20箇所刺されて、顔が赤らんで、ふ
くらんでいた。「刺された跡が顔に残ったらお嫁に行けない!」
とわめいてしまった。先生の奥さんは、「だから行かせたくな
かったのよ」と言い、息子のボリスは私とはなるべく目を合わ
せないようにしていた。そんなにひどく腫れ上がっていたよう
だ。(2,3日したら、ましになった。よかった〜。ホッ!)
8月20日
町に戻ってきた。電車で1時間40分の所なので、行ったり来た
りが面倒くさいが、自然の中で熟眠という快感はなかなか手放
せない。先生の奥さんは、「町で用事を済ませたら、またダー
チャに戻っておいでよ」と言ってくれた。
8月24日
札幌大学の1つ上の先輩の前田ゾーヤさん(ロシア名がある)
の所に泊りに行った。彼女は1年前からノボシビルスク大学の
語学留学生として来ていて、コンピューター関係の会社“ノボ
ソフト”で翻訳の仕事をしていた。他の日本人同士の会話の中
に彼女のことが出て来て、ノボシビルスクにいるということは
知っていたのだが、なかなか連絡が取れず、今日までずるずる
来てしまった。久しぶりの再会で、バス停の前で、私達は抱き
合って喜んだ。大学の寮も広々としていて、快適だった。ご飯
を食べて、お酒を飲んで、いろいろ語り合った。楽しい一時だ
った。
8月25-26日
電車で先生の別荘に行った。泊まってきた。隣の小屋に住むク
セーニャがロシア式サウナ風呂(バーニャ)に入らせてくれた
。体をきれいに洗い、月桂樹の枝の束で細くしたい所をバシバ
シたたく。みずしぶきが跳び、蒸気も立つ。血の循環にとても
効果がある。バーニャの後はぐっすり眠れる。この世で何が一
番幸せかというと、途切れない快い眠りだろう。これほど切実
に私を幸せにしてくれるものはない。それと、ヴァイオリン&
音楽かな〜。
8月27日
先月詐欺に遭って、生活費の工面に困ってしまって、韓国系ロ
シア人の金城さんという人に何か仕事がないかと尋ねた所、ノ
ボシビルスク国立鉄道大学に今年、日本語コースが設けられる
ので、講師をしないかというおいしい話が舞い込んできた。し
かし、残念ながら、この話は結局“没”になった。8月の終わ
りで、9月から新しい年が始まる。人事異動もこの時期にある
。今年はびっくりするようなことが一杯起こった。まず、オペ
ラ.バレエ劇場のイグージン劇場長が脱税で逮捕(?)され、
新しい劇場長が赴任した。ノボシビルスク国立鉄道大学でも学
長が変わったらしい。上の人が変わると、体制や計画がガラリ
と変わる。そんな人事異動の為に、私は舞い込んできた仕事を
逃してしまった。ついていない…。その代わりに、プライベー
トで日本語を教え始めた。デニス(30歳)というビジネスマン
だが、14年間ほぼ独学で日本語を勉強してきたという。勉強す
る環境が整っていなかった中でも、日本語と日本に対する興味
と関心を失わず、続けて頑張ってきた事に対して、私は脱帽。
すごい!と思った。デニスの前世は日本人だったかもしれない
なー。
8月29日
毎日バイトに精を出す。日本語のプライベートレッスンと翻訳
作業(日→露)。その合間に練習していた。追われる事なく、
時間がゆっくりすぎていく。新学期は始まるとそんな訳にはい
かないだろう。
8月30日
バイト。
8月31日
皮ジャンを買いに行った。丁度、バーゲンで安くなっていたの
で、スラバという男の子と一緒に行った。トルコ製だが、襟と
中の人工毛皮が取り外せるタイプのものがサイズもピッタリで
、合った。5000ルーブル(約150ドル)。夏休み必死でバイ
トして貯めたお金で買った。私は実は浪費家で、使う時はパー
っと使ってしまう性質。バイトを頑張った御褒美と思えばいい
か…。
9月1日
新学期が始まった。土曜日だったので、レッスンはなく、私は
家で練習した。
9月3日
楽譜を借りに音楽院の図書館へ行った。音楽院のヴァイオリン
の先生で、下宿先のナターシャママの知り合いのゲオルギー・
ガーリエビッチという先生がいる。ゲオルギー先生の奥さんが
お見合いを薦めてくれた。奥さんの友人の息子で、彼は、現在
モスクワに住んでいる。早速そのグレブという青年から電話が
あった。新しい出会い発見。るんるん!「モスクワに遊びにお
いでー」だって。秋に音楽祭「日本の心」の出張演奏でモスク
ワに行くから、会いましょう〜ということで話はついた。
9月4日
初レッスンがあった。ブラームスのヴァイオリン協奏曲を弾い
た。音程も悪いし、音も割れているしと厳しく突っ込まれ、自
分の出している音をあまりコントロールできていないと叱られ
た。例によってシュラディックには戻されなかったが、ゆっく
り急圧をコントロールしながら音階を何度も練習させられた。
やはり、先生の耳はすごい。楽器をやっていて、大事な事は、
耳を肥やすという事だろうな。
9月6日
音楽院に大阪から留学研修生が来るので、招待状を作ってもら
ったり、指導教官になるカッツ先生に話をするために会ったり
して、音楽院を走り回っていた。忙しいー。
9月10日
去年までノボシビルスク工科大学で日本語教師をやっていた岩
崎泉さんから手紙を受け取った。『異国の地でその国の人々に
混じって同じ土壌でやっていくのは、ものすごい努力を要する
ことだと思う。留学が比較的お気軽にできる今、異国へ行くこ
とだけで満足してしまい、多少言葉を学んだだけで世界を見た
ような気になっている人が多い中、その言語を使って、更にも
っと専門的なことを自分のものにしようと、真摯な態度で留学
に臨んでいる直子ちゃんや未央ちゃん(未央ちゃんは既に就職
しているね)みたいな人に出会うと、“自分ももっとしっかり
しなくちゃ”という気になります』何かすごく励まされて、嬉
しかった…。とても印象深い手紙だったので、書き留めておこ
うと思う。
9月11日
何も変わらない日常。練習した後、デニスと日本語の勉強中に
あのテロ事件は起こった。ニューヨークで大惨事が起こり、私
達はテレビに釘付け状態だった。映画を見ているような感じで
、何が起こったのかよく把握できなかった。寝る時、明日の朝
、ノボシビルスクにも飛行機が墜落するのではないかとか、第3
時世界大戦が起こるとまで言われ、そんなことになって日本に
帰れなくて抑留なんてことになったらどうしようと考えてしま
って、怖くて眠れなかった。恐ろしいの一言に尽きる。
9月12日
レッスンがあった。昨日は、テロの事件が頭を過ぎり、よく眠
れなかった。テレビニュースでは、ニューヨークとペンタゴン
のテロ事件が交互に報道されていた。寝ぼけた顔をしてレッス
ンに行ったら、先生も眠たそうだった。心の優しい先生だから
、先生もきっと昨日のニューヨークのことで眠れなかったんだ
ろうな、と察した。家では、テレビで毎時間ニュースを見られ
るおばあちゃんが、一番の情報通になって、順番に帰ってくる
私達にいろいろ教えてくれた。アメリカは報復措置を考えてい
るようだった。“目には目を”では世界に平和は訪れない。プ
ーチン大統領は犠牲となった罪のないアメリカの市民に哀悼の
意を表し、「私達はあなたたちと一緒(にテロに向かっていく
)」とテレビ演説で言った。じ〜んと胸にきた。
9月13日
レッスンがあり、オーケストラの練習が3時間あり、大変な一
日だったが、私の誕生日だったので、誕生日会をすることにし
た。夏休みに再会した前田さんと韓国系ロシア人のターニャの
二人だけを招待し、御馳走を食べた。でも、授業の合間に、急
いで料理をしたため、あまりよい出来ではなかった。それに、
毎年この時期、たくさんの人が亡くなっている。テロや爆撃で
。「9月13日の金曜日」という映画があるが、この日は何か呪
われているような気がしないでもない。呪われた日に生まれた
私は、呪われた人生を送るのだろうか。考えすぎでしょうか。
9月14日
学科で教育実習という科目がある。先生の門下生を一人与えら
れ、レッスンの準備の手伝いをしなければならない。マーシャ
は、私と教育実習で練習し始めて、もう早1年が経っていた。
始めた頃は、まだ幼い小学6年生の女の子だったが、見る見る
うちに背が伸びて、大きくなった。胸もふっくらしてきて、ロ
シアの女の子はやはり大人になるのが早いと思った。マーシャ
はグボーズディフ先生に習って3年目。真面目にコツコツやる
ので、竹の子のようにすくすく伸びていた。でも、まだ子供だ
からなのか、練習の仕方は結構テキトウで、私はピアノをたた
きながら、「音程、音程」と繰り返し注意していた。
9月19日
音楽院は9月1日から新学期。今日は、新学期明け最初の演奏会
があった。1年生のピアニストでとても上手なタチアナ・チェ
ルニーチカという女の子がソロコンサートを行った。日本では
演奏会をする、となるととても多額のお金が必要だが、ロシア
では結構簡単にソロの演奏会ができる。ホールが空いてさえい
れば、どうぞ御自由に、といった感じ。ホール代も要らないし
、ポスターやビラ、プログラムもあまり刷らないから、お金が
かからない。というより、そんな事にお金をかけない主義だし
、第一、そんなお金はない。私が観察したかぎりでは、9月10
月の演奏会はあまりいいものはない。夏休み明けだから。こっ
ちの人は、夏期休暇をしっかり取る。音楽家も例外ではなく、
演奏会で脂が乗ってくるのは、年明けの2月や3月頃。その頃に
なると、素晴らしい演奏会がたくさん聞けるわけ。
9月22日
ロシアの大学教育は5年制だ。4年生を終えた時点で、日本の大
学と同様、学士号が授与される。この日、音楽院で、音楽芸術
学士号授与式が行われた。私は、前日まで、リハーサルや自分
が授与式に出席しなければならないことを知らなくて、昨日は
たまたまリハーサルの時間帯に音楽院内にいて、同級生達がぞ
ろぞろ青いマントを羽織って、大ホールの方へ行くので、興味
半分でついて行ったら、あんたも早く青いマントを着て、並び
なさいと言われ、急いで衣装室でマントを借り(どれも大きく
てブカブカ)、舞台の最後列に座った。去年、一緒に音楽史や
哲学、美学の試験の難関を通り抜けた皆が誇らしげに座ってい
た。私達の学年は粒ぞろいで、「この学年が低下しつつある音
楽院のレベルを維持できた最後の学年」とまで言われていた。
日本でも学力の低下が見られるが、ロシアでも同じ事が言える
ようだ。弦楽器の学生はみんなノボシビルスクフィルか劇場か
室内楽オケで弾いていた。弾いていないのは、私ぐらいだった
。入場行進や学長挨拶があり、いよいよ証書の授与。グリンカ
の「ルスランとリュドミラ」が鳴り響く中、成績上位者から順
に呼ばれて行った。私は3番目に呼ばれて、びっくりしてしま
った。心の準備ができていなかったが、会場の激励拍手も一時
的に大きくなり、感極まり、嬉し涙が出そうだった。授与式の
後は、皆で写真を撮り、その後、ピアニストの女の子達に混じ
って、“アイリッシュバー”に飲みに行った。こんな事は一生
に一度しかないだろうと思っていたが、本当にそのとおり。あ
の9人のメンバーで飲むのは、あれが最初で最後だった。楽し
い思い出になった。
9月23日
ノボシビルスク工科大学の新任日本語講師の新田さんに初めて
会った。大和撫子のイメージがあり、静かな落ち着いた人だな
ぁと思ったが、本職はコンピューターのプログラマーという何
でもできるスーパーウーマンで、後に、私のサイトのページを
作ってくれることになる。ノボシビルスクで出会った初めての
タイプの日本人、いや、今まで出会った人の中でも新田さんの
ような人=専門はプログラマーだけど日本語教師という人は初
めてだった。ただでも少ないノボシビルスク在住日本人(多く
て10人程度だった)、お友達が増えて、嬉しかった。
9月24日
オーケストラの練習があった。オーケストラの練習時間はいつ
も休憩を挟んで3時間だった。毎回3時間もオケの練習で時間を
とられるのは、ちょっと負担だった。指揮者は音楽院の大学院
生のカッツ先生の門下生で、マルクという36歳の青年だが、練
習の仕方がいまいちで疲れる。ただ弾いているだけのリハーサ
ルで、上手になるようなリハーサルの仕方ではなかった。本番
もこのまま行くのだろうなぁと、気にはなっていた。
9月27日
ノボシビルスクで合気道の教室がある。私の古い友達のビクト
ルがノボシビルスク合気道協会の会長をしている。私は、ちょ
っと合気道をやってみたくなって、練習に顔を出した。ビクト
ル先生は2段を持っており、披露する技は格好よくいつも決ま
っていた。ノボシビルスク市には合気道をやっている人は全部
で600人以上いるそうだ。初級から上級者までレベルはいろい
ろ。市内の体育館や大学の施設で稽古練習を行っている。会費
は、1ヶ月300ルーブル(約1000円)ぐらい。社会人や学生など
いろんな人がいた。女の子も結構いて、びっくりした。ロシア
にいて、合気道教室に来て、ロシア人に合気道を教えてもらう
なんて、不思議な感じだった。でも、それも面白いかもしれな
いと思った。通うかどうかで迷ったが、結局、通わないことに
した。稽古の際に、腕を握ったり、ひねったりするので、もし
ものことがあって、ヴァイオリンの練習に支障が出たら困るし
、今、私がロシアにいるのは、ヴァイオリンが上手に弾けるよ
うになって、音楽院をきちんと卒業するためなのだから合気道
は余計なことかもしれないと思った。
10月1日
大阪から音楽院に研修生が来るので、ホームスティ先を見つけ
、空港まで迎えに行く準備をしていた。しかし、薮から棒とは
このことで、ハバロフスクで山火事が起こり、強風の為、その
煙が町の方に蔓延して、全航空便が欠航ということになってし
まった。幸い新潟空港でそのことを告げられた新庄さんは、渡
露を1週間遅らせることにしたが、本当にこの世の中、何があ
るかわからない。特にロシアでは…。
10月2日
カルテットの初合わせがあった。新メンバーで、まずは、お手
柔らかに…といいたい所だが、2年生のチェロのジーマが音程
・リズムなどで足を引っ張り、先が思いやられる〜といった感
じだった。チェリストがいなくて、2年生の若手を引っ張って
きた訳だが、ビクトル先生の人選ミスというか、仕方ないとい
うか…。
10月8日
5月から妊娠休暇に入った友人オリガの後を引き継いで、市内
の168番小学校の音楽コースでヴァイオリンを教えていた。以
前は4人いたらしいが、今はファリーダのみ残っていた。ヴァ
イオリンはやはり難しい楽器なので、なかなか続かないようだ
。最後まで残ったファリーダも私から見ると、聴音も音楽性も
乏しくて、なんでヴァイオリンを弾いているのだろう、かわい
そうに…、と思ってしまうくらいだった。でも、ヴァイオリン
は本人の意思でやっていて、いい意味では頑張りやさんだが、
悪い意味ではとても負けず嫌いで頑固な子だった。彼女は左手
の4の指を使うのを嫌い、いつも注意するのだが、結局は、開
放弦ばかり使っていた。彼女は別にプロのヴァイオリニストに
なる訳ではないので、「まあいいか〜」と思い、私は強制しな
かった。しかし、自分の子だったらひっぱたいてでも直したか
もしれない。どうしても他人の子には甘くなってしまう。とい
う訳で、ファリーダがまた、私の元にレッスンに通ってくるこ
とになった。少し背が伸びて、顔色もよかったが、相変わらず
ガリガリで、暗かった。なかなか笑わない子で、話し掛けると
いつも答えるのだが、無感情・無愛想だった。休み明けなので
、練習曲とボーイングの復習をした。ファリーダは、30分もし
たら、集中力が持たず、疲れてしまう。無理をさせず、子供に
合わせてやっていくことが原則。「今日はこれで辞めようか?
」「うん」―次のレッスンの日時を決めて、ファリーダはママ
と一緒に帰っていった。夜、先週ハバロフスクの山火事でノボ
シビルスク入りができなかった新庄さんが無事にノボシビルス
クに着いた。私達(ホームステイ先のベーラさん家族)は彼女
を空港まで迎えにいった。テロなどで飛行機に乗るのがとても
怖い時期で、心配もあったが、無事に着いてなによりだった。
10月9日
モスクワで、今月末に、第3回日本音楽フェスティバル「日本
の心」があって、私達は出張出演することになっていた。私は
、一曲だけ、寺原伸夫の「ロマンス」を弾く予定だった。団伊
玖磨先生が生きていらっしゃったら、この秋、演奏会で団氏の
ピアノとヴァイオリンのファンタジーをロシア国内初演という
大役を担っていたのだが、氏の突然の逝去によりこの演奏会の
話は没ってしまった。ピアニストの問題もあって、「ロマンス
」1曲だけで、少ないのだが、仕方ないという感じだったが、
今日からマリーナという伴奏者とリハーサルを始めた。この日
本音楽フェスティバルに出るにあたり、ホストのモスクワ音楽
院日本音楽文化センターからはモスクワでのホテル代と食事代
が出ることになっていたが、モスクワまでの移動費は自分達で
スポンサーを見つけなければならなかった。飛行機はとても高
くつくので、シベリア鉄道で行くことにした。モスクワで演奏
なんてめったにないチャンスだから、自費でもいいから行きた
いと思ったので、汽車代2600ルーブル(約90ドル)を用意し
た。
10月10日
下宿先の娘のアーニャが卵巣腫瘍の手術をして、今日、退院し
てきた。彼女がいない間は、私が家のことやおばあちゃんの世
話をしていた。私はいつのまにか一緒に暮す中で、家族の一員
になっていた。ヴァイオリンのレッスンの方は順調で、ブラー
ムスのヴァイオリン協奏曲を弾いていた。練習番号ごとに分け
て、音程や音色の練習に時間を費やしていた。夜は劇場に「椿
姫」を観に行った。音楽院の学生は学生証を見せれば、いつも
関係者入り口から無料で通してくれる。これはとても嬉しい特
典だった。私は、「椿姫」はいつも最後まで観ないことにして
いる。なぜかというと、まずオペラは全般的に3時間以上と、
時間がかかりすぎてしまう(ヴァイオリンの練習をしないとい
けないし…)。第2に、やっとアルフレッドが自分の非に気づ
き、ビオレッタの所に謝りに来るのだが、ビオレッタは死期を
迎えていた。この悲劇の結末が悲しすぎるからだった。オペラ
というファンタジーの世界だから、悲劇でもいいのだが、今の
私にはこの悲劇は心理的に重過ぎるし、練習時間が30分でも惜
しかった。
10月11日
朝、ファリーダのレッスンをして、室内楽のグリーグのソナタ3
番をピアニストのアイーダと合わせた。夕方5時からカッツ先
生の指揮のレッスンがあって、新庄さんの付き添い通訳で出席
した。レッスンは3時間。3人から4人の人がレッスンを受ける
。他の人のレッスンも聞く。ピアノは2台で、そのピアノとピ
アノの間に立ち、指揮をする。先生は、少し離れた正面の肘掛
け椅子に座っていろいろコメントをしている。レッスン風景は
、こんな感じだが、新庄さんもこの日レッスンを受けた。腕に
力が入りすぎで、カッツ先生曰く「指揮で殺人をやっているよ
うだ」った。ヴァイオリンでもピアノでもそう。日本から来る
人の一番の注意点は、力が入りすぎていること。私もここへ来
た当時はそうだった。その腕の力を抜いて、正しい奏法に直す
までに、1年かかった。新庄さんも1年かけて、このいわゆる“
脱力”を勉強していくのかな〜。
10月13日
夜、フィルハーモニーの定期演奏会に行った。指揮者はシェフ
チュックというサンクト・ペテルブルグから引き抜かれた若手
の指揮者だった。カッツ先生の後継者と陰で言われている。黒
い髪で、爆発したような髪型に特徴がある。ストラビンスキー
の「春の祭典」を聞いた。
10月14日
新庄さんと一緒に、劇場にオペラ「イーゴリ公」を観に行った
。一緒にコンサートやオペラを観に行ける友達ができて、嬉し
い今日この頃。日本語でいろいろ感想などを言い合って、ノボ
シビルスクでよい音楽友達を得た。
10月15日
朝から、グボーズディフ先生のレッスンを受け、とんぼ返りで
自宅に戻り、ファリーダのレッスンをして、午後から室内楽の
レッスンがあった。その後、モスクワ演奏旅行のチケットを渡
されたが、都合の為、変更することにして、カッサに行った。
夕方5時から新庄さんの指揮のレッスンの通訳に付き添って、
終わって、9時から11時までヴァイオリンの練習をした。いろ
いろ忙しくて、目が回りそう…。
10月16日
練習番号に分けて、ブラームスのヴァイオリン協奏曲の練習を
コツコツやっているが、なかなか自分のものにならない。音程
と音楽の作り方。この忍耐の要る積み上げの段階。しんどいし
、もううんざり。このプロセスを“努力”というのだろうな〜
。努力なしに成功は有り得ないか…。夕方にモスクワからグレ
ブが電話をくれた。これといって何も浮いたことのない練習漬
けの日常生活の中で、時々かかるこの男性からの電話にドキド
キしたりして、私も単純で、男に弱く、ナイーブだなと苦笑し
た。
10月18日
ファリーダのレッスンをして、自分の練習をして、昼過ぎから
音楽院でモスクワに日本の歌を歌いに行く声楽学部のの学生達
の発音チェックをした。新田さんと新庄さんも手伝っってくれ
た。ロシア人にとって、日本語の“L”の発音と“SHI” の発
音が難しいようだった。ロシア語にはない音だから余計に違和
感がある発音らしく、それでもリーリャ、アイグーリ、レーナ
の3人は一生懸命に直そうとしていた。リーリャは声が一番き
れいだったけれど、日本語の発音は一番下手だった。日本人に
似た顔付きのアイグーリは日本の歌を長年歌っている大学院生
だが、ちょっと一癖ある発音で、“ちりめんビブラート”がか
かっていた。音楽院の3年生のまだ若い20歳のレーナが一番上
手な日本語で歌っていた。一つ一つの音がはっきり聞き取れ、
日本人の歌手が歌っているかのような印象を受けた。 夕方か
ら、新庄さんの指揮のレッスンに付き合った。
10月19日
早朝、大ホールで「ロマンス」の練習をした。グボーズディフ
先生に「音が割れている」と怒られた。先生は、重箱の底を突
付くように、いろいろ注文をつけてくる。「もういい加減やめ
てよ〜」と言いたい気分。上には上があって、先生は「演奏家
にはこれぐらいでいいや〜という天井=妥協はないのだ!」と
いつも言っていた。いつも精進し、音と感性を磨いていくこと
。これは、演奏家の一生の使命、そして運命なのだ。あ〜、で
も疲れるよ〜、毎日毎日。
10月20日
ヴァイオリンの練習をして、写真の焼き増しなどの雑用を済ま
せ、コンタクトを買いに行った。モスクワで演奏会があって、
眼鏡は汗をかくとすぐ下がってくるので、やはりコンタクトが
便利だった。500ルーブルちょっとで買えた。ロシアでは、ボ
シュロムや外資系のコンタクトがあり、店員さんのアドバイス
で、私の眼球の形に合うコンタクトを選んだ。ちなみに、使い
捨てコンタクトは、まだあまり出回っていないようだった。
10月22日
ファリーダのレッスンをして、自分もレッスンを受けてきた。
夕方、5時からシベリア北海道センターで、モスクワのフェス
ティバル「日本の心」でやる2回あるうちの1回目のコンサート
のプログラムの演奏会をした。アンドレイのドムラはやはり音
楽的にも技術的にも文句無しに上手だった。声楽の女の子達も
問題の“LA”と“SHI”の発音を家で練習して、だいぶ良くな
っていた。そんなにレベルは高くはないのだが、頑張っている
な〜と心が温かくなるような演奏を皆する。それでも、琴奏者
や他の演奏者にはそれぞれの問題点があり、モスクワの演奏会
までにどれだけ良くしていけるか、それが私達の焦眉の課題だ
った。
10月23日
音楽院の大ホールで昨日の演奏会に引き続き、2回目のプログ
ラムでの演奏会があった。といっても、重複している曲などが
あって、どちらかというと演奏者の為の“場慣れ”的演奏会だ
った。今日は、私も出演した。1部のとりをつとめ、リハーサ
ルよりもずっとうまく弾けたと自分では思う。「ロマンス」は
何回も弾いているし、そんなに難しい曲ではないので、楽しん
で弾けた。
10月24日
皆、モスクワに今日発ったが、私はとても大事な時だから、も
う少しブラームスの協奏曲のレッスンを受けていくために、演
奏会ギリギリにモスクワ入りすることにした。その御陰で、グ
ボーズディフ先生のレッスンを受けるだけでなく、カルテット
のリハーサルも2回でき、室内楽のレッスンにも行けた。
10月27日
2日半分の食料を買い込み、16時40分のノボシビルスク発のシ
ベリア鉄道でモスクワに発った。一人だったが、一等車で、相
席になった3人はとてもいい人達だったので、安心して旅がで
きた。ウォークマンのイヤホンを忘れたので、道中何もするこ
とがなくて、寝てばかりいた。一人だったので、不安もあって
、決して「自分は日本人だ」ということを口に出さなかった。
10月29日
2日半の汽車のたびを終えて、モスクワに着いた。マリーナ先
生と長髪のヤンという男性が駅まで迎えに来てくれた。私達は
、トベルスコイ通りのミンスクというホテルに泊まった。ワー
リャというピアニストと同室だったが、彼女の実姉がモスクワ
に住んでいて、外泊しに行ったりしていたので、ほとんど一人
のようなものだった。早速例のグレブとも連絡を取って、会う
ことにした。
10月30日
モスクワで私達の第1回目の演奏会が“建築家の家”大ホール
であった。日本音楽フェスティバルは、毎年9月から12月にか
けて行われる。毎日という訳ではないが、日本やその他の地方
から演奏家や音楽研究者が集まって、その都度、演奏会を始め
、シンポジウム・ゼミナールが開催されている。私はこの日、
出番がなかったので、客席に座って、ビデオ係りをした。グレ
ブも来たが、第1印象もあまりたいしたことがなく、話してみ
ると全然面白くなくて、がっかりしてしまった。ノボシビルス
ク勢の演奏はとてもよかった。演奏会が終わった後、私はグレ
ブの家に招待されて、グレブの両親と顔を合わせた。ママはタ
シュケントの音楽高校のピアノ科を卒業した人で、話が合った
。パパもハンサムで、とても良く気のつく人だった。しかし、
当のグレブとは会話が合わず、偏食が激しく、この出会いから
は何も生まれないと感じた。“白馬の王子様”を思い浮かべて
いた私はまたしても、夢を見終わった。グレブは車で私をホテ
ルまで送り届けてくれた。まだモスクワに2,3日いるのだが、
次の約束はせず、私達は別れた。
10月31日
“作曲家の家”の大ホールで演奏会があった。昼過ぎから舞台
で皆順番にリハーサルをした。私は伴奏付きで2回通して弾い
たが、マリーナ先生は「直子、練習したのかしら?音程が悪い
けど…。」と厳しい突っ込みをした。「ドッキ〜ン!」空き部
屋を借りて、ゆっくり一つ一つの音をビブラート抜きで音程を
確認しながら練習した。本番は夜7時から始まった。私は3番手
で演奏した。舞台慣れしていないので、変に緊張してしまった
。自分としてはイマイチな演奏だったかなーと思ったが、モス
クワ側の人達は「よかったよ」と言ってくれた。でも、一曲だ
けって少ないよなーというのが本音だったと思う。
11月1日
モスクワで自由行動の日だった。朝、モスクワ音楽院内にある
日本音楽文化センターの事務室にアンドレイと行った。そこで
お茶を飲みながら雑談をして少し時間を潰して、昼過ぎから楽
譜屋に行った。その後、ニコラヤムスカヤ通りの日本大使館情
報センターに行って、新しい参事官の川端さんに会った。日本
大使館のこの情報センターは、1週間後れになるが、日本の新
聞が読める。2ヶ月ぶりに日本の新聞をじっくり読めて、幸せ
だった。その後、ホテルに帰って、夕食をとり、チェックアウ
ト。センターが用意してくれたマイクロバスで、皆と一緒にモ
スクワのカザン駅に向かった。帰りは皆一緒。たまたまアイグ
ーリの誕生日だったので、マリーナ先生以外の若い人達が集ま
って、誕生日を祝うと称し、夜な夜なワインを飲んで雑談に花
を咲かせた。
11月4日
やっとノボシビルスクに着いた。2日半の汽車の旅はとても疲
れた。家に帰っても、揺れている感じがして、しばらく汽車酔
いに悩まされた。今回の演奏旅行では例のアンドレイも一緒だ
った。もうすぐで1年経つが、アンドレイを見ると去年のこと
を思い出してしまって、何だか嫌な気分だった。私達の間には
大きな壁ができてしまっていた。(→4年目12月9日参照)
11月5日
新田さんに連絡を取ったら、ロシア人の子供の家庭教師のアル
バイトをしないかと持ち掛けられて、「やってみたい」と返答
した。そして、私は新田さんにコンピューターの使い方と日本
語教師の資格を取るにはどうしたらいいか教えてもらうことに
なった。後者の方は、調べてもらったが、結局、試験を受けて
受かるにはすごい労力が必要で、ヴァイオリンと両立するのは
実質的に無理ということが判明した。朝からファリーダのレッ
スンをして、夕方4時から新庄さんの指揮のレッスンの通訳で
付き添った。2日間汽車の中で練習できていないので、ブラー
ムスの音程がめちゃくちゃ甘くなって、もう一度一から出直し
だった。
11月6日
マリーナさんがハンディービデオを貸してくれたので、レッス
ンを録音した。いつもウォークマンで録音していたが、録画し
て、自分の演奏を客観的に見てみて、自分の奏法がロシアに来
てから随分変わったことに気づいた。自分では下手だ下手だと
思っていたが、なかなか様になっている場面もあって、ロシア
に来て努力した甲斐があったかな、と安心してしまった。が、
油断は禁物というが、安心してしまうと、どうも練習に身が入
らない。だめだな〜。
11月7日
ビデオに撮った効果はあまり上がらず、逆に腕が硬直してしま
い、レッスンで怒られてしまった。ブラームスのコンチェルト
は奥が深く、音程も定まらず、弾けている所と弾けていない所
のムラがあった。モスクワ演奏旅行の後で、もう一度一からや
り直すつもりで展開部・カデンツィア・コーダを細かく見てい
った。
11月9日
朝から練習をして、昼御飯を食べて、新田さんの所にコンピュ
ーターの勉強に行った。新田さんは日本語教師でノボシビルス
クに来られたが、実は本職がコンピューターのプログラマー。
ワードとエクセルの初歩を習った。コンピューターは便利で賢
く、私はとても気に入ってすぐにはまってしまった。何とか手
に入れたい所だったが、予算の方が追いつかない。どうせ買う
なら箱型の大きなサイズよりノートブックがいいし…。う〜ん
、この年になって、コンピューターさえ自分で買えないなんて
、情けないやら恥ずかしいやら。アルバイトをしても、ロシア
の給料事体が50ドル程度ととても低いので高い買い物は絶対
無理。ロシアで生活するのはとても大変なことだと思った。
11月10日
レッスンが朝9時半に入っていたので、8時から音楽院で練習し
た。午後3時半から日本語のアルバイトをした。教育大出身の
ロシア人の日本語教師のレーナ・スヴェタ達が留学で身につけ
た日本語のレベルを維持し、発音の練習をしたいということで
、持ち掛けられた話だった。皆私のいい友達なので、お金を貰
って教えるというのに少し抵抗を感じたが、私も練習時間が削
られる訳だから、お金はありがたく頂くことにした。しかし、
私達は“友達”だったので、何かというと「お茶しよう」と言
って、ブレイクタイムが入ってしまい、本当に勉強になってい
るのかは???だった。語学のレッスン、特に発音については
、カセットに授業を録音して、家で復習するのが近道だと思う
。
11月11日
新田さんの所でコンピューターの勉強をした後、アカデムガラ
ドクの東北大学駐在研究所の北風嵐教授に会いに行った。北風
先生は自炊もあまりせず、不規則な生活を送っているようだっ
た。定年前の男がロシアで一人暮らし。北風先生は「米を買っ
ても石が交ざっている」「ジャガイモもバケツで売っているが
そんなにも要らない」とロシアでの生活観の違い・不便さをぼ
やいていた。私はもう4年以上ロシアに住んでいるので、そん
な事は当たりまえと割り切って暮しているが、日本の便利さに
慣れた初めてロシアに来る日本人はこんなことにびっくりする
んだーと思った。
11月14日
10時からヴァイオリンのレッスンがあった。ブラームスのコン
チェルトの調子は良くなっていた。新田さんの所で日本語教授
法の勉強をして、その後、子供のアルバイトをした。ワセリー
サ5歳、デニス6歳、スラビアーナ6歳の3人のグループで、親は
日本語を教えてくれというが、子供たちがあまりにも小さいの
で、初めの30分は私がヴァイオリンで日本の歌を弾いて、その
歌にあった絵を描かせるお絵描きの授業、後半の30分はいろは
カルタを使って、ひらがなを覚える日本語の授業。子供の記憶
力はとても良く、スラビアーナはすぐひらがなを覚えてしまっ
た。スラビアーナに比べると、デニスは少し覚える力がまだ伸
びていないと思った。ワセリーサは書いたり読んだりという勉
強に全然向いていない性格で、絵は一番上手に書くが、ひらが
なは「あ」行を覚えるのが精一杯だった。子供たちは皆それぞ
れ違う。一人一人の子供の能力と個性に合わせてやっていこう
と思った。
11月16日
父の誕生日だった。「遠くの肉親より近くの他人」と言うが、
私はすっかりパパの誕生日のことを忘れていていた(薄情な娘
だよな〜)。夜11時に練習を終えて、電話を入れ忘れたことを
思い出した。時差の関係もあって、もう遅かったので、次の日
に電話を入れることにした。ごめんなさい、パパ。でも、お誕
生日おめでとう。60歳だね!定年退職まで後少し、頑張ってね
ー!私も頑張るよ。
11月20日
10時30分からファリーダのレッスンをして、音楽院で室内楽と
カルテットの授業を受けた。カルテットはいろいろ問題があっ
た。4人のレベルと足並みがどうしても揃わなかった。新庄さ
んがロシア語の勉強に通っていたが、午後3時から勉強して、7
時からデニスの日本語のプライベートのアルバイトをした。ア
ルバイトばかり入って、練習の方がちょっとやばいかな…。で
も、ノボシビルスクでも物価が上がって生活が大変だから、少
しでもお金を稼ぎたいと言う気持ちがあった。語学は私の趣味
だから、日本語やロシア語のプライベートレッスンは結構、息
抜き&気分転換になっていた。
11月28日
もう荷物をまとめて、帰りたい。先生に怒られてばっかり…。
12月1日
試験でブラームスの協奏曲を弾いた。とてもいい曲で、ピアノ
と合わせて弾くたびに大きな満足感を味わっていた。そして、
大学院の為の奨学金を申し込むために録音テープが必要だった
ので、フィルハーモニーで録音した。すごく疲れてしまって、
楽しむどころか、このときばかりは、ブラームスが苦痛になっ
た。ちょっとでも弾き損なったら、やり直し。この繰り返しで
、5時から延々と10時まで録音した。ピアニストの人も、録音
に付き合ってくれたサーシャ(元同門生)のお父さんも、文句
ひとつ言わず最後までがんばって付き合ってくれた。感謝しま
す。
12月13日
前田みゆきちゃんが正月の休みを利用して、スイス方面へ旅行
に行く間、コンピューター関係の会社ノボソフトで翻訳のアル
バイトをすることになった。日本とも取引をしているので、日
本マーケティングの担当者がいるが、メールの作成の際に、間
違いを直すのが私の仕事だった。デニスというまだ若いノボシ
ビルスク大学の日本語専攻学科を卒業した人と一緒に組んで仕
事をした。よくよく聞いてみたら、かつてノボシビルスク大学
で日本語を教えていらっしゃった千葉さんの教え子だそうだ。
何かの縁だな〜。それと、日本語やロシア語の世界というのも
狭いものだわ。デニスの日本語は面白くて、「〜でずが」とな
まっていて、東北の方言のようにも聞こえるときがあった。そ
れに「可能があります」という面白い間違いをしていて、日本
語は難しい言語だなと改めて思った。ノボソフトは食事も出て
、オフィスも廊下以外はきれいで、快適だった。アカデムゴロ
ドクにあるので、通うのが遠いが、できたら就職してもいいか
なー、と思わせるようないい雰囲気があった。
12月14日
練習はしているが、なんだか気が抜けている12月。室内楽のビ
クトル先生は「室内楽のフェスティバルで自分が演奏するから
、レッスンは1ヶ月お休み〜」なんてことをしてしまうし、専
門のグボーズディフ先生は「レッスンに通って来い」とやいや
い言わないので、ちょっと足が遠のいていた。弦楽四重奏のほ
うもメンバーの息が合わなくて、単位は欲しいけど、このメン
バーじゃいいところまでいかないよね〜といういやなムードが
漂っていて、本当にストレスの原因となっていた。音楽は楽し
くできるメンバーのチームワークが大事なのに・・・。自己主
張のやりあいだけでは、何も進歩しない。あー、頭が痛い。夕
方からノボソフトへ行った。気分転換、気分転換。
12月15日
毎年恒例の英語劇があった。英語のナターシャ・クラフチェン
コ先生の1・2年生の学生達が、この時期、いつも英語劇を催す
。ロシアなまりの英語で聞き取りにくい学生も何人かいるのだ
が、シナリオが面白くて、いつも笑える。今回は、『決して女
性を信じないで!!!』という題の演劇だった。学生達は皆、
演技力があって、会場は爆笑の嵐だった。
12月18日
午前中は家で練習して、12時ごろから室内楽のあわせをやった
。グリーグのソナタ3番をやっていて、そんなにたいした曲で
はないのだが、ピアニストのアイーダが全然練習しないから、
進歩なしの状態。室内楽の合わせの後、ノボソフトへ行った。
ノボソフトに通うのは大変だが、ひとつ楽しみができた。コン
ピューターを使えるので、メールができることだった。早速ホ
ットメールの無料サービスを利用して、高校のときの友達にメ
ールを送ってみた。そうすると、私のメールアドレスが友人の
間で広まり、友達からたくさんメールが入るようになった。寒
いシベリアで、このメールを読むときが、唯一心の温まる瞬間
だった。なによりもノボシビルスク〜日本とこんなに離れてい
るのに、手紙のやり取りが数秒間の間にできるなんて・・・、
本当に今のパソコンは進化したよな〜と感心してしまった。こ
んな便利なものを今まで使おうとしなかった私自身の無知さに
もあきれたが、もっと早くメールのやり取りができるようにな
ってればよかったのに、と後悔半分の直子だった。デニスが「
直子さーん」と呼ぶまで、私はメールにかじりついていた。仕
事しに行ってるのか、メールしに行ってるのか・・・。
12月19日
9時からヴァイオリンのレッスンを受けて、午前中は練習した
。1時半から新田さんのところでコンピューターの勉強をして
、そのあとシベリア国際関係大学の日本料理コンクールの審査
員に招待されていたので、新庄さんと一緒に行った。「ビギモ
ント」という聞いたことのあるディスコの横に大学があって、
第1印象はくだけた大学だな、ということだった。しかし、国
際関係学部だけなので、敷地は狭く、建物の中に図書館も講堂
も教室も全部すっぽり入ってしまうぐらいの小規模な大学だっ
た。私たちは、日本語クラブの待つ3階の会議室に案内された
。会議室に入ると、「わぁ〜」と驚き・感嘆の声があがり、こ
れは初めて日本人を見たときの驚きなのか、ただ若者たちが囃
して、盛り上げているだけなのか、いまいちよくわからなかっ
たが、みんな若くて、かわいいなぁと思ってしまった。上級生
はそれぞれ日本食についてのレポートや質問を日本語で考えて
きていて、それを発表してくれた。私たちは、質問に答えたり
して、お話を楽しんだ。その後、学長もこられて、試食会。カ
ニのてんぷらやおにぎり、チラシ寿司ロシア風のようなものが
あって、どれもおいしかった。学生たちが今日のためになけな
しの小遣いを出し合い、材料を買って、用意してくれたのかと
思ったら、涙が出てきそうだった。私たちだけで食べるのは申
し訳ないと思ってしまった。審査結果を発表して、5チーム全
部に「アイデア賞」「日本食に似てるで賞」「ユニークで賞」
などキーワードを入れて賞をあげた。賞状の授与のあと、お腹
のすいた学生たちは「待ってました」とばかりに、試食にあり
ついた。日本語の先生のタマーラさんは発音で大きな欠点があ
るが、文法は大の得意。おっちょこちょいの性格だが、こうい
った日本クラブの会を組織したり、学生の日本語の習得のため
にいろいろ世話をしてくださっている。私たちにお土産にノボ
シビルスク名物の「プチーチエマラコ」をくれた。楽しい夕べ
だった。
12月27日
朝、練習して、昼過ぎからノボソフトに通ってアルバイトの日
々。今日は、仕事の後、「学者の家」というホールで、ビクト
ル・トレチャコフの演奏会があったので、聞きに行った。オー
ケストラとブラームスのヴァイオリン協奏曲を共演した。私も
今弾いている曲なので、とても興味を持って聞いた。結構お年
も召していて、現役でずっと演奏活動を続けられてすごいなぁ
と感心した。裏話だが、6番目の奥さんという人と一緒に今回
ノボシビルスクに来たようだ。これぐらいの人となると、恋沙
汰も人一倍い多いんだろう・・・。トレチャコフ氏自身はもう
老けて、カッコいいとは言えないが、若い奥さんは若くて美人
さんだった。こういうことは、よくあることなんだろうけど、
私にはなんだか理解できない。傍から見たら、父親と娘のよう
にも見えなくはないんだもん。まぁ。いろんな恋の形があるっ
ていうことか〜。
12月28日
朝の間に練習。そして、4時からカッツ先生の指揮のレッスン
の通訳に出て、その後、「カプーストニック」という年末学芸
祭があった。要するに、この一年であったことを面白おかしく
セッティングした演劇で振り返って、みんなで楽しむという趣
旨。今年の注目のカードは、「音楽院の寮で火災発生」「イン
トロクイズのピアノ弾き」「鍵室のおばさんの性格分析」「カ
ッツ先生のアーフタクトの競売」など。演劇をする人たちも音
楽院の学生で、先生の物まねはもちろん、学長までもじってか
らかうから、これは一見の価値がある。言葉が分かれば、とて
も面白い行事だ。この「カプーストニック」の後、ノボソフト
でも忘年会があったので、行った。こちらは一人200ルーブル
の会費制だった。ノボソフトの4階建ての建物が全部開放され
て、バーやカラオケ、ディスコなどいろんな会場が設けられて
、すごい人だった。カップルで来ている人が多かった。デニス
も彼女のアリーナと一緒に来ていた。デニスは自分のデスクの
コンピューターの画面上に彼女の小さいころの写真を入れてい
る。あまりにもそっくりなので、私はびっくりした。新田さん
も日本語の授業の後、遅れて来た。私たちはこの時点で、パー
トナーの彼氏が不足していたが、うじうじせず、一緒に飲んで
、食べて、歌を歌って、楽しんだ。夜は前田みゆきちゃんの寮
に泊まった。忘年会か・・・。行く年来る年。時間がたつのは
早く、また一年が終わるんだー。
12月31日
大晦日。今年は、下宿先の家族とは別々で、私は新田さんと新
年を迎えることにした。久しぶりに日本食・日本語の世界。遠
く離れても、心は日本人(!)また違った意味で、いい感じで
、私はわくわくしていた。新田さんは私の知らない世界にいる
人だから、話すと非常に面白いし、勉強になるので、私は新田
さんとうだうだとおしゃべりすることが好きだった。わーい、
楽しくなりそうっ!!!行ってきます。
2002年1月1日
新田さんの所で新しい年を迎えた。朝起きると、新田さんはす
でにコンピューターに向かってサイトの作業をしていた。私も
翻訳作業を手伝った。「ジャパニーズは良く働く!」と二人で
苦笑した。新年早々だが、サイトのビジネス欄に載せるために
、“ベレスタ”を扱っているリューダさんの所に行くことにし
た。リューダさんたちは、思いがけない私達の訪門を喜んでく
れて、たまたま居合わせたイラストライターのリューバさんと
も知り合いになった。白樺細工の小箱や装飾品や石細工をデジ
カメで撮って、情報収集。私達は、新年早々、有意義な時間を
過ごした。よく働くジャパニーズ!!
1月2日
日本語を勉強しているナターシャが、新田さんと新庄さんと私
を昼食に招待してくれた。ナターシャは、医者で、旦那さんと
は死に別れ、大学入試をひかえている息子と二人暮らし。とて
も美味しい料理をご馳走してくれた。人参とニンニクとチーズ
を細かくすってマヨネーズあえしたサラダやウクライナ風ピラ
フ、手作りのケーキを食べた。私達は、写真を見たり、ナター
シャが最近買った日本の俳句の本を見たり、とても楽しい会話
が弾んだ。
1月3日
午朝中ヴァイオリンの練習をして、午後3時から新田さんのと
ころで音楽院のサイト作りをした。大変だけど、面白いので、
私は、密かにはまっていた。
1月4日
午前中練習をして、昼から以前教育大学の仕事を斡旋してくれ
たレーナのところに遊びに行った。レーナは、合気道(2段)
をやっているビクトルと結婚し、もうすでに一児の母である。
ダーシャは2歳になったばかり。ピカチュウーのスリッパをプ
レゼントした。そして、ダーシャと一緒に遊んだ。子供はかわ
いい。レーナは「一日中子供と家にいると息がつまりそうで、
早く働きに出たい」と言っていた。夕方から、アカデムガラド
クにある東北大学研究所駐在員の高倉さんの家で、徳田ゆかさん
と新田さんと私の4人で懇親会を催す。
夕食後、ロシア人の特徴を論じたり、それぞれ自分のことを話
したり…、話が盛り上がり、ビールを買い足しに行って、延々
と翌日の3時まで話し込んだ。
1月5日
毎年この時期、音楽院にブロン先生が来る。案内掲示が出てい
たので、朝アカデムガラドクから直接音楽院の方に出向いた。
今回、ブロン先生は、日本人弟子の木嶋真優ちゃんを連れて来
た。先生は私の顔を見るなり、「昨日はどこに泊まった?」と
聞いてきた。「内緒…」と意味ありげに言うと、「飲んで気晴
らししていたのだろう」と見透かされていた…。昨晩、先生は
真優ちゃんのレッスンの通訳を私に頼みたかったらしく、グボ
ーズディフ先生を通して、私を探し回ったようだ。あいにく直
子は、家に戻ってこなかった…。グボーズディフ先生は横で聞
きながら、不機嫌な顔をしていた。不機嫌な時は口を利かない
。私の父とそっくりだ。
1月6日
木嶋真優ちゃんのソロの演奏会があった。演目は、モーツァル
トのソナタ、ショーソンのポエム、ラベルのツィガンヌ、ヴァ
クスマンのカルメン、リムスキー=コルサコフの金鶏、パガニ
ーニのラ・カンパネロなど。演奏会の後、ブロン先生には「金
鶏が、焼き鳥になった」と突っ込まれていたが、私は、真優ち
ゃんは15歳の若さで、しっかり弾けていて、すごいなぁと思っ
た。
1月7日
ロシアのクリスマス。午前中、真優ちゃんと動物園に行った。
音楽院が車を出してくれた。一時間弱動物園内を歩いて、いろ
んな動物を見て楽しんだ。日本の動物園にはいて当たり前のキ
リンやゾウのような動物がいなかった。ひぐまやアムールタイ
ガー、キタキツネやおおかみがいた。夜、音楽院でブロン先生
の演奏会があった。演奏会の前に、ブロン先生が“国民的芸能
家”としてロシア国家に認められたので、その表彰式があった
。演奏会では、チャイコフスキーの六重奏“フィレンツェの思
い出”とブラームスのトリオが演奏された。フィレンツェは、4
楽章のフーガがうまく行かなかった。ずれて、止まりはしなか
ったけど、かなり怪しかった。聞いている方が緊張した。サル
も木から落ちるが、あってはならぬことである。毎年聞くたび
にブロン先生の演奏レベルが低下していくように感じられるの
は気のせいだろうか…。
1月8日
ブロン先生のマスターコースがあった。先生は、生徒に弾いて
みせる時、息を飲むほど上手に弾く。しかし、自分の本番では
言っていることと矛盾した弾き方をし、とても驚かされる。ブ
ロン先生の国際ヴァイオリンフェスティバルの演奏会は、連日
行われ、今日が最終日。音楽院の弦楽器のアンサンブルで幕を
閉じた。
1月9日
2時から教育実習のマーシャに稽古をつけ、3時から室内楽の合
わせをし、6時からカルテットのリハーサルがあった。普段の
生活に戻った。
1月10日
1時15分から室内楽のレッスンを受け、その後、折れた予備の
弓の修理ができたそうなので、支払いに行く。修理士は、フィ
ルハーモニーのコントラバス奏者のヴラジックさん。なかなか
いい腕前で、評判がいい。1000ルーブル(約30ドル)で取り決
めたのに、何を勘違いしたか800ルーブルと言う。欲のない人
だ、と思いながら、「お釣はいらない」と言って、1000ルーブ
ル紙幣を渡した。弓が折れて、その補習修理が30ドルなんて安
いものだ。大概、外国人だと高い料金を取るのだが、中にはヴ
ラジックさんのような親切な人もいる。
1月11日
昼間、カメラを持って、ノボシビルスク市の中心街にある美術
館や博物館の観光名所の写真を撮って歩く。すっかりサイトの
情報収集にはまっている私であった。
1月12日
朝8時から音楽院で練習したあと、子供の家庭教師のアルバイ
ト に行く。「冬が来る前に」や「ゆきやこんこん」や「お正
月」など冬に関する曲をヴァイオリンで弾いて、子供たちは音
楽を聴きながら、楽しくお絵描きをした。その後、新田さんの
所でサイトの作業を少しして、デニスの家に遊びに行った。美
人の奥さんのナターシャさんと4歳になるイーゴリと一緒に過
ぎし日のクリスマスを祝った。
1月13日
練習する。夕方からカルテットのリハーサルがあった。ロシア
現代作曲家のボリス・チャイコフスキーの弦楽四重奏曲第5番
を弾いていたが、たいして難しい曲でもないのに、出来がイマ
イチ。原因は、チェロのジーマにあるのだろうか…。彼はまだ2
年生で、アンサンブルの経験が少なく、音楽的にはとても豊か
に弾くのに、音程が非常に怪しい。ユニゾンで弾いている所で
も半音ぐらいのずれが生じ、ビオラのマーシャはキレまくり。
ジーマとマーシャ、ああ言えばこう言うで、怒鳴り合いに終始
してしまう。音楽家はすぐカッとなったり、一癖ある人が多い
。難しいなぁ…。
1月14日
12時からカルテットのレッスンがあった。何事もないようにレ
ッスンが進んでいたが、終わりの方で例の短気なマーシャがキ
レてしまった。「難しい曲でもないのに、こんなに時間を費や
して、出来がイマイチなのは、アンサンブルが未熟なジーマに
問題があり、かなめの高音のヴァイオリンと低音のチェロが下
手くそだからだ」とマーシャがまくしたてる。私達は、開いた
口がふさがらなかった。ビクトル先生はマーシャに雷を落とし
、レッスンはつぶれてしまった。マーシャとは初めての組んだ
訳だが、こんな嫌な女だとは思ってもみなかった。嫌な気持ち
を抱えながら、私達は次のリハーサルの時間も決めずに、退散
した。どうなるのかなぁ…、やれやれ。
1月16日
ある壁紙修理工の会社から連絡が入り、単発で翻訳の仕事をす
ることになった。クライアントが日本の織物壁紙を注文し、貼
り付け作業で問題が生じ、日本語で書かれた取扱説明書を早急
にロシア語に翻訳して欲しいとのことだった。私はロシア語を
しゃべったり、読んだりするのは得意だが、書くほうは苦手で
、未だに、P(ロシア語読みではル)とL(日本人が苦手なエ
ル)の判別で苦労する。だから、私は日本語のテキストを口頭
でロシア語に訳していき、社員の人が書き留める、という二人
三脚でやった。アレグロのテンポで約3時間強、帰りに200ルー
ブル(約6,5ドル)もらった。2時のレッスンに間一髪で間に
合ったが、ウォーミングアップもできていない状態だったので
、少し気が重かった。怒られるかもしれないと思ったが、普通
にレッスンが終わってほっとした。
1月17日
例の暴言を吐いたアルト奏者のマーシャが「この前は言い過ぎ
たと反省している」ということを風のうわさに聞き、また元の
さやに収まることになった。カルテットの試験を明日に控え、
今日が最後のリハーサルだった。相変わらずユニゾンが決まら
ない。チェロのジーマは、ビロードのような音を出すが、音が
響きすぎて、音程が聞けていない。音程が悪いことを自覚でき
ていないから始末が悪い。マーシャはいつもと違って穏やかに
冷静にジーマに対応していた。
1月18日
2時にピアニストのアイーダと室内楽の合わせをし、5時からカ
ルテットの試験があった。ジーマは黒スーツに蝶ネクタイをし
ている。2ndヴァイオリンのサーシャが「カルテットの試験の
ため?」とジーマに聞く。「格好だけでも決めとかなきゃ…」
とジーマが答える。横で聞いていた私は、ズデっと転びそうに
なった。「ジーマったら、憎めないやつだなぁ…」私達以外に
も2組のカルテットの演奏があった。私達の演奏の結果は、4(
良)だった。理由は、上手に弾けていたけど、なぜかキンキン
して、聞いていて胸が痛くなるほどだったから。結果を知った
マーシャは、激昂し、また大騒ぎになった。「私はちゃんと完
璧に弾いたのに…原因はジーマだ」と言う。私は、マーシャに
疲れた。5(優)でも4(良)でも何でもいいから、一刻も早
くこのカルテットから開放されたいと思った。ストレス以外の
なにものでもなかった。そして、このカルテットは解散するこ
とになった...
1月21日
試験期間というのは心理的にしんどい。練習しなければいけな
いし、早く終わって休みになればいいのに、と願うばかりであ
る。12時からグボーズディフ先生のレッスン、13時半からビク
トル先生の室内楽のレッスンがあった。
1月25日
4時から前期最後の室内楽の試験があった。グリーグのソナタ
第3番を弾いた。譜面上は難しくないが、なかなか手強い曲で
ある。メロディーがきれいなので、私はいつも喜んで弾いてい
た。これで弾き収めかと思うとちょっと残念な気がした。室内
楽は5(優)で合格した。試験の後、音楽院の寮に住むターニ
ャの所に泊りに行った。この日は、“学生の日”で、歴史的に
模範的学生はタチアナだったので、“タチアナの日”とも呼ば
れる。一緒にワインを飲みながら食事をし、私が持ってきた北
野武の映画ビデオ「菊次郎」をロシア語吹き替えで見た。ター
ニャは韓国系二世だから、東洋の文化に親しみと理解を持って
いて、日本人の感情表現の仕方を敏感に捉え、「感情を顕わに
出しすぎないのがいい」と言っていた。ロシア人は正反対。“
感情を我慢せずに表現する”国民性を持つ。要するに、自分を
押さえることが嫌いなようだ。
1月26日
卒論を書き始めた。「音程について」書くことにし、参考文献
はもうだいぶ前に読んで、構想を頭の中で練っていた。カルテ
ットや室内楽の試験があって、なかなか着手できなかったが、
ようやく落ち着いて書き始めることができた。深夜になると頭
が冴えて、ペンが走り出す。そして、後期が始まるまで、夜な
夜な卒論を書き、朝寝という夜型の生活スタイルになってしま
った。
1月27日
オペラ「蝶々夫人」を観に行った。新田さんの予告通り、歌手
が皆着物を着て、がに股で立って歌っていた。靴を脱ぐ所で脱
がないし、お辞儀の仕方は大袈裟すぎて変だし、振り付けに関
しては色々気になる点があった。演出家のマルガリータ女史に
以前「蝶々夫人」の演出を観てアドバイスをして欲しい、と言
われたが、そのままになってしまっている。今までここで何十
回も公演があっただろうが、この振り付けでやっていたなんて
…。いやぁ、お粗末である。日本の生活文化を正しく理解でき
ていないと思われる、変に誇張されたお辞儀や動作には閉口し
てしまう。異文化を理解することは容易なことではないのだ。
2月1日
夕方から、日本に1年留学して現在教育大学の日本語の先生を
やっているスヴェタの所に行った。日本の賃貸マンションでは
ペットを飼うことが許されていないが、ロシアでそんな規則は
なく、多くのロシア人が家の中で犬や猫を飼っている。彼女の
家には、びっくりするほど大きな犬がいた。私は、自分で書い
た卒論の下書きを見せて、スヴェタに文法や言い回しを正しく
直してもらった。スヴェタは、大学に入る前に、音楽学校に通
っていたので、少しは音楽の知識がある。規定の枚数に達して
いなかったので、手伝ってもらって書き足し、なんとか15ペー
ジ分の下書き原稿が出来上がった。
2月2日
土曜日の11時からはいつも子供の家庭教師のアルバイト。私は
、ワセリーサ(6歳)、デニス(5歳半)、アーニャ(4歳)の3
人のわんぱくっ子の日本語の先生なのだが、子供たちはまだ小
さいのでロシア語もろくに書けず、日本語どころではない…。
故に実際には、日本の歌をヴァイオリンで弾く歌のお姉さんに
変身して、3人の子供の子守りをしている。早いうちに外国の
文化に触れさせたいというワセリーサのおばあさんの要望でや
り始めたが、結構楽しい。私は子供と相性が良いようだ。ワセ
リーサは、初めて会った時、とても行儀が悪く、言うことを聞
かず、おばあさんもお母さんも手を焼いていたが、最近少しず
つ態度が良くなって来た。絵を描くと、3人の中でワセリーサ
が一番上手に描き、そのことが彼女に満足感を与えているよう
だ。一筋縄ではいかないから、柄のついたカードを使って、あ
の手この手で子供の注意をひかなければいけないが、子供たち
はひらがなの“あ・か・さ・た”行まで覚えた。ウラー!
2月5日
冬休みだが、卒論に追われて、休みのような気がしない。3時
半からスヴェタが校正の為に家まで来てくれた。私達は原則的
に交換授業をしている。つまり、スヴェタが卒論の原稿を直し
てくれ、私がお礼にスヴェタの日本語の発音練習を手伝ってい
る。単純にアクセントで一回上がったらあとは必ず下がるロシ
ア語に比べると、日本語の発音は難しい。平板型(低→高音で
下がり目がない)や5拍以上の長い単語になると、耳慣れた“
ロシア人特有の発音”なるものが存在する。スヴェタは「1年
日本に住んでいたけど、発音は難しい」と言いつつ、身につけ
た日本語を忘れない様に維持しようと努力しているので、私は
そんな努力家のスヴェタをいつも応援している。
2月6日
“タチアナの日”(1月25日)に寮の泊まった時、音楽院のイ
タリア語の先生をやっているイーラと知り合いになった。彼女
は日本語の教科書を買って、勉強を始めようと思っていた所だ
と言う。私は時間があったらやろうと思って、日本からイタリ
ア語の教科書を持って来ていた。私は二つ返事でOKした。交換
授業をすることになった。今日は、第1回目の授業。日本語と
イタリア語と1時間ずつ交代でやった。イタリア語は、ロシア
語に比べると月とスッポン。簡単だ〜。
2月7日
テレビ(地方)に出演することになった。16日が東洋の暦では
旧正月なので、その特集番組を作るらしい。私は、言われるま
で“旧正月”のことなど知らなかった。日本語教師関係者に聞
いて、調べて、カンニングペーパーを用意して、スタジオ“ミ
ール”に行った。2月だから節分と建国記念日の話と旧正月の
現代人の認識を少し話した。アナウンサーに「馬年の女の子を
嫁にもらいたがらないというのは本当ですか?」と質問された
。「そんな事、初めて聞くんですけど…」本当なのでしょうか
?
2月8日
夕方からオペラ劇場の会場案内のアルバイトをする予定が没に
なって、早々に家に帰ってきた。何かを鑑賞したい気分だった
ので、夏に録画して日本から持ってきたビデオを見ることにし
た。久しぶりに「水戸黄門」を見た。しばらく日本のテレビ番
組とはご無沙汰で、黄門様も角さんも助けさんも私の知らない
俳優さんが演じていた。それはさておき、「水戸黄門」の内容
が、『銭宿で一夜を共にした男女が4年後の再会を約束する。
4年経って、女は男を探しに有り金をはたいて、越後の町に出
てくる。途中女は財布を無くし食事代が払えなくなって、黄門
一行に窮地を救われる。一緒に行動することになるが、女は精
神的に疲れ果て倒れる。男は旗本で、上から隠密の疑いのかか
った松尾芭蕉を捕まえるよう言い付かるが、芭蕉の人柄に触れ
て上の命令に背く。そんなどたばた劇の後、男と女は奇跡的な
再会を果たし、おなじみの御隠居の印篭と勧善懲悪、芭蕉の潔
白も証明され、男と女はめでたく夫婦となる。』というものだ
った。久しぶりに日本のテレビ番組を見て、しかも内容が恋愛
ものだったが故に、私の心は即座にセンチメンタルモードに切
り替わった。私にも恋焦がれた人がいたなぁ〜。今でも懐かし
く思い出す20代初めの恋。思い出すたびに、胸がキュンと痛
む。あの人は、今、どこで、何をしているのだろう? 心の中
がほのかに温かくなって、日本に帰ったら必ず会いに行こう、
と決心した。
2月10日
同級生のソプラノのリーリャは、4月から1年間、兵庫の武庫
川女子大学の声楽研究科に、奨学金を受けて、留学することが
決まっていた。1年前に宮原学部長及び益子教授が選抜の為に
ノボシビルスクに来られて、約10人の志願者の中からリーリャ
が選ばれた。リーリャは、日本に行く為に、皆より早く国家試
験を受けて、音楽院を卒業し、この日、ウラジボストックに発
った。私は、彼女を見送りにノボシビルスク鉄道駅に行った。
汽車は夕方6時発だった。私以外にも声楽学部の仲間が5,6
人いた。リーリャを乗せた汽車はゆっくり遠ざかっていった。
去っていく者より後に残された者の寂しさの方が大きいのかも
しれない。私が大阪を発つ時はいつも誰かが空港まで見送って
くれ、ここ2,3年私はいつも送られる側だったが、この日は
送る側にいた。日本を発つ時、新潟空港から「今から発つから
」と家に電話を入れると、母はいつも電話のむこうで泣いてい
た。帰り道、そんな事がふと頭をよぎった。
2月11日
またテレビの取材に駆り出された。東洋ではもうすぐ旧正月な
ので、その取材インタビューを撮りたいらしい。こちらとして
は、後期が始まったので、ブラブラ遊んでいられないし、ギャ
ラも何もでないから嫌だったが、どうしても…と頼まれて、し
ょうがないから家まで来てもらうことにした。外の景色のいい
所をバックにインタビュー撮影が行われた。また「馬年の女の
子を嫁にもらいたがらないというのは本当ですか?」という質
問をされた。「わからないよ〜」私は、この二回にわたるイン
タビューの放送を見損なって、どんな風に画像に映っていたの
か知らない。音楽院では「ニューテレビスター・ナオコ」と噂
になり、「テレビで見たわよ!」と廊下や階段で知らない先生
にまで声をかけられてしまった。この日は指揮科研修生の新庄
泉さんの誕生日だったので、“干し葡萄”(ロシア語ではイジ
ュムという)というケーキを買って、二人でお祝し、最近開店
したばかりの“サメにキスを”というバーに飲みに行った。海
底をイメージした内装で、サラダとイクラをつまみながら、ビ
ールを飲んだ。勘定を間違えられたので、文句を言って、訂正
してもらったが、なかなかいいバーだった。
2月12日
朝からファリーダのレッスンをした。彼女は聴音ができておら
ず、何の音を弾いているのかさっぱり聞き取れていない。さら
に、腕が硬直して、がちがちになって弾く癖がついてしまって
いる。厄介な弟子だ…。後期の試験の曲目に、カバレフスキー
の“ギャロップ”とウェーバーの“狩人の合唱”を与えた。昼
間自主練をして、夕方から劇場にダルゴムィスキーの「ルサル
カ」を観に行った。
2月13日
グボーズディフ先生のレッスンが始まった。バッハのソロソナ
タ2番からアンダンテ・アレグロとエルンストのファンタジー
「オテロ」を弾いた。アンダンテは、二声が折り重なり、上の
声はメゾフォルテ、下の声はピアニッシモで弾かなければなら
ず、これが簡単なようで難しい。年が明けてから、時間がある
時は、よく新田さんの所に行ってサイトに載せる情報の翻訳作
業をしていた。この日も、夕方の空き時間を使って、作業をし
た。
2月14日
バレンタインデーだが、チョコレートをあげる人がいなくて、
ちょっと寂しい…。下宿先の娘のアーニャは、彼氏のマクシム
にカードをプレゼントして、ラブラブムード満点で羨ましいか
ぎり…。4時からカッツ先生の指揮の授業があり、新庄さんの
通訳をした。新庄さんはチャイコフスキーの交響曲第4番の2楽
章をピアノ伴奏形式で指揮した。とてもきれいな楽章である。
カッツ先生は、「朝、ロシアの村で目覚めて小屋から出る。そ
したら、昇ってくる朝日がなんとも言えず美しく、その場でし
ばらくたたずむ。村人が目覚め、畑仕事や草刈りの労働の一日
が始まる。どこまでも続くロシアの田園風景。ゆっくり流れる
雲、風。牛が散歩し、小鳥が歌う。人々は働いて、日が暮れ、
夕陽が沈み、一日が終わる。この楽章では、そんなロシアの長
閑な田園生活を描き出さなければならない」と説明した。私は5
年前に撮ったロシアの村や牛やひまわりの写真を懐かしく思い
出しながら、音楽を聞いた。先生はいつも抽象的に言うので、
なかなか訳すのが難しいが、ロシアの村を見たことがない新庄
さんに、言葉通りの私の通訳がどこまで通じただろうか? ロ
シアの村は日本の地方の村とは違ったイメージを持ち、“百聞
は一見にしかず”で、実際に行ってみないとイメージがわかな
いだろう。“言われたこと”を理解する為には、相手の土俵を
把握することが不可欠なのだ。
2月15日
先日のテレビのインタビューを見て、私に興味を持った人がい
た。“バイト”という郵送関係会社の下請けの“アレグロフー
ド・プレイ”という会社の経理のおばさんだった。“アレグロ
フード”は文字通りのファーストフード店で、“アレグロプレ
イ”はいわば日本のゲームセンターである。社長のコンスタン
チンさんは、去年の夏、日本に行って、日本のゲームをナムコ
から仕入れてきた。ゲーム機に書いてある日本語の翻訳を頼ま
れた。通訳の人が出張中で、取扱説明書を訳せるひとがいない
らしい。ちなみに、この通訳の人と言うのは私の古い友人だっ
た。“世界は狭い”と思った。エンジニアのサーシャと翻訳作
業をした。帰りに“アレグロフード”に連れて行ってもらって
、タダでお腹一杯食べさせてもらった。
2月16日
体の調子が悪く、昼御飯の後、ソファーで寝そべっていたら、
マクシムが帰って来て、手紙を渡してくれた。手紙をもらうと
嬉しいのだが、送信者の名前を見て、びっくり仰天!一週間前
に水戸黄門を見て、懐かしく思い出したその本人からの手紙だ
った。ドキドキしながら、最後まで読んで、日付を見ると、彼
は私が水戸黄門を見た三日前にこの手紙を書いて投函していた
。1、2枚目は日常のことや近状に触れられていたが、3枚目は
「そろそろ身を固めないと、と思っているがなかなか出会いが
なく…云々で、日本に帰ってきたら連絡して下さい」で締めく
くられていた。意外な人から手紙をもらい、元気が出てきた。
何だか幸せな気持ちだった。ラブレターなのかどうかよく分か
らないけど、嬉しかった。
2月17日
体調不良はそのまま変化なし。だら〜、としていた。気分転換
に新田さんの所にサイト作業をしに行く。
2月18日
ファリーダのママから歯医者に行くのでレッスンを休む、と言
う電話連絡を受け、午前中に時間ができたので、郵便局に行っ
て、そのあと練習した。春が来たのか〜心が弾み、ウキウキし
て、周りの世界が明るくなったよう。
2月19日
カルテットの曲が決まった。ロシアの作曲家ミスコフスキーの
弦楽四重奏曲第5番を弾くことになった。さて、問題のメンバ
ーである。結局、ビオラのマーシャとは別れ、ジーマと私のコ
ンビはそのまま残った。ビオラは音楽院一の美女オーリャ、第2
ヴァイオリンは韓国人のジョアンがトラで弾いてくれることに
なった。だが、カルテットの道のりは険しい…。
2月21日
グボーズディフ先生に見せた卒論の下書きが戻ってきた。書き
直し、打ち直し、考え直しで、頭がおかしくなりそう…。
2月24日
久しぶりの日曜日。現在ノボシビルスク大学でロシア語を勉強
しながらノボソフトでアルバイトをしている前田みゆきちゃん
とスケートに行った。スケート靴を借りるのに40分ほど行列に
並び、「ロシアはどこでも順番待ちだねぇ〜」と大笑い。息抜
きをする時は、みゆきちゃんと、というのは、彼女が“遊びの
達人”であるからに他ならない。私は初心者で、ぐらぐらしな
がら恐る恐る滑り始めた。約1時間晴天を仰ぎながら、スケー
トを楽しんだ。途中、私を脅かそうとしたみゆきちゃんと“す
ってんころり”。宙に舞ってお尻から落ちた。この痛みは1週
間近くとれず、くしゃみをする度に、お尻が痛んだ。あと自分
で2,3回転んだので、膝なども打った。“傷だらけのヒーロー
”ではないけど“打撲だらけのナオコ”。スケートの後、“ア
レグロフード”で軽くビールを飲んで、先日いただいたタダ券
を使って“アレグロプレイ”でビリヤードやゲームをした。楽
しく遊んだ一日だった。
2月25日
朝グボーズディフ先生のレッスンがあり、その後、ファリーダ
のレッスンをして、夕方7時からカルテットのリハーサルがあ
った。
2月27日
午前中、グボーズディフ先生の奥さんとクロスカントリースキ
ーをしに近くの森へ行った。地下鉄とバスを乗り継いで約30分
。スキー板を借りて、着替えて、滑り出した。森の空気をたっ
ぷり吸い込みながら、右足と左足を交互に動す。そよそよと優
しく吹く風がなんとも心地よい。先生の奥さんに「シベリアに5
年も住んでスキーは初めて?!」と言われながら、久しぶりのス
キーを楽しんだ。スポーツをした後は、食事と昼寝。今年の2
月は、比較的暖かく、スポーツ日和だった。夕方からは? 勿
論、練習しました。
2月28日
朝レッスンがあり、午後は練習をした。新庄さんが日本に一時
帰国していたが、ノボシビルスクに戻ってきた。私の兄が貸し
てくれた古いコンピューターを持って来てくれた。二人で、夕
方頃、デニスの家に遊びに行った。
3月1日
“春の第1日目”。ぽかぽかしていとても春らしい良い天気だ
った。11時からファリーダにレッスンをして、そのあと自分の
練習。4時半から、“アレグロフード”の人から“お茶”に招
待されていた。社長のコンスタンチン氏が車で迎えが来てくれ
、例の会社へ行くと、通訳としてその会社で働いている私の友
達のスヴェタに再会することができた。経理のニーナさんの采
配で、大きなケーキが3種類、果物、お茶がゲームマシーンの
上に並べられ、皆で“春の第1日目”をお祝いした。いつもこ
の方達は至れり尽くせりで、気持ちいい。最後は、やはりゲー
ム遊びで締め。ゲーム好きの人たちの集まりなのだ…。
3月2日
9時からレッスンがあり、11時から子供たちの家庭教師に行っ
た。明日は、シベリア北海道センターで「ひなまつり」の催し
があり、毎年人形コンクールが行われるので、そのコンクール
に出す為の“紙のひな人形”を皆で作った。ワセリーサもアー
ニャもデニスも面白がってやった。白い頭首の紙に、折り紙の
着物を着せて、帯を締めて、顔を描いて、その人形を台紙に仲
良く並べて張った。やってみるまで何ができるかわからなかっ
たが、デニスのママのオーリャも手伝ってくれて、思いがけず
いい作品が出来た。
3月3日
シベリア北海道センターの「ひなまつり」に行った。人形コン
クールの個人の部、団体の部があって、私達日本人は審査員だ
った。デニスもワセリーサもアーニャも両親に連れられてセン
ターに来た。私の子供たちの作品は団体作品として審査された
が、参加作品一点で、一位になった。表彰式の時、賞状とプレ
ゼントをもらい、子供たちは恥ずかしいのか、良く分かってい
ないのか、もじもじしていた。まだ、小さいから人前に出るこ
とに慣れていないようだ。私は、新庄さんのピアノ伴奏で「浜
辺の歌」「春が来た」「川の流れのように」をヴァイオリンで
演奏した。ロシア人の人達は喜んで聞いてくれ、イラストライ
ターのリューバさんは「“春が来た”のメロディーが美しくて
、心にじ〜んときた」と言ってくれた。ひなまつりの行事の後
、センターの応接間で“お茶会”になり、その後、新田さんの
所に行き、二次会。この日、新田さんが撮ってくれた私の写真
を、サイトのページにはめ込み、私のトップページがようやく
出来上がった。意外とかわいく撮れた写真を見て、新田氏は「
詐欺だ」と言った。「何をおっしゃいますか?貴女が撮ったの
ですよ…」と反撃。このネタで3日ほど盛り上がった。
3月4日
私がフライパンを焦がしてしまって、下宿先のアーニャは不機
嫌。早速、格安の日用品店に行って、新しいフライパンを弁償
した。この事があってから、私はフライパンと電気コンロには
しばらく近寄らなかった。
3月6日
1時からレッスンがあった。新庄さんが日本からコンピュータ
ーを持って来てくれてから、日本の友人や家族とメール交換が
できるようになって、それが毎日の“楽しみ”となっていた。
3月7日
明日は、“国際夫人デー”。日本ではあまり知られていない祝
日である。午後から、カルテットと室内楽の合わせを予定して
いたが、音楽院は正午を過ぎた頃から、お祭りムードで、小ホ
ールがディスコ会場に変わっていった。 3時から緊急に学芸会
のような劇も用意され、盛り上がっていた。ノボシビルスク市
役所の方から“国際夫人デー”にちなんで金銭のプレゼント(
約1000ドル)があった。音楽院は“女”の宝庫だからだ。4時
からカッツ先生のレッスンがあり、新庄さんに付き添って通訳
をした。カッツ先生も明日が“女性の日”だから、ピアニスト
の人や出席していた女の子にお祝いにチョコレートをあげてい
た。女性にとっては、得な気持ちのいい祝日である。私は毎年
この時期にダウンしている。日頃の疲れがピークに達していた
ので、指揮の授業の後すぐ家に帰って、病気にならないように
休んだ。
3月8日
卒論のタイピングと練習。夕方からアーニャの結婚式の準備を
手伝った。下宿先の娘のアーニャは付き合っていたマクシムと
の間に子供ができて、できちゃった結婚をすることになった。
二日間料理をしないでいいように、三つのサラダを作り置きし
た。
3月9日
11時から子供の家庭教師のアルバイトをした後、アーニャの結
婚式に駆けつけた。ロシアの結婚式は“ザックス(結婚登録所
)”という所で行われる。指定された2時に、新郎新婦マクシ
ム&アーニャは礼装をして、町役場の結婚登録所に現われ、家
族.友達が見守る中、結婚合意の文書にサインをした。アーニ
ャは格別綺麗だった。その後、ホテル“ツェントラーリナヤ”
の1階の“ドゥルージブィ(友情)”というレストランで披露
宴があった。司会者が披露宴を取り仕切った。司会者はさすが
プロで、てきぱきとしていて、趣向を凝らしたゲームがたくさ
んあり、とても盛り上がった。飲んで、踊って、楽しんだ。こ
の披露宴はマクシムのパパの新郎新婦へのプレゼントだった。
私は、マクシムのパパが社交的で、優しく、とても楽しい人な
ので、気に入った。私はお腹いっぱいで、アルコールもまわっ
ていたので、帰ってすぐに寝た。マクシムの妹のマーシャや従
兄弟達は、家の応接間で朝方まで飲んでいた。若い時だったら
、徹夜しても全く平気だったのに、今は無理だ。年をとったな
ぁ、と思う。
3月10日
朝起きても、先日の楽しさが残っていた。台所には昨日の二次
会の汚れた食器やグラスも置きっぱなしだった。おばあちゃん
が朝起きて、ぶつぶつ言いながら洗い物をしていた。新郎新婦
の友人が出入りして、にぎやかだった。私は、それでも自分の
部屋で卒論と練習に励み、夕方からターニャのドイツ語&イー
ラのイタリア語と私の日本語の交換授業をした。イーラとター
ニャは絵のカードを使った日本語の勉強が面白くて面白くて仕
方がないようで、子供のようにはしゃいで喜ぶ。「たぬき」や
「うま」は大のお気に入りで、出てくると歓声が上がる。ター
ニャもイーラも明るくていい子だ。お箸が転んでも笑える年頃
なのか、私達はちょっとしたことでも良く笑った。
3月11日
朝10時半からファリーダのレッスンをした。“女性の日”の前
後は、教え子が色々なプレゼントをくれる。ファリーダもヴァ
イオリン柄のチョコレートの箱をプレゼントしてくれた。3月
になったが、春はまだまだ遠い。今年の冬の天候は少し異常で
、2月は春のように暖かかったが、3月は逆でとても寒い日が続
いた。
3月12日
室内楽でレオニード・ニコラエフというソビエトの作曲家のソ
ナタを、3年生のレーナと弾くことになった。この日、“女性
の日”のイベントで潰れて、お流れになっていた初練をした。
レーナは、個性的な美人で、とてもチャーミング、人当たりも
良い。
3月17日
イタリア語を教えてくれているイーラが音楽院の子供のコンサ
ートを仕切るというので見に行った。ロシアの演奏会では、司
会者のような人がいて、たいてい音楽理論学部の卒業生や先生
がやる。この日の演奏会は、ヨーロッパの文化と音楽というテ
ーマで、子供演奏楽団に合わせて、子供たちが各国の民族衣装
を着て、踊ったりした。一番面白かったのは、一番背の低い男
の子が踊りの最後にポーズを決めないと行けない所で、“ズデ
ッ”と滑ったことだった。子供のあどけなさに思わず会場は、
笑い…。楽しいコンサートだった。
3月19日
以前ノボシビルスク工科大学で日本語を教えていた岩崎泉さん
が遊びに来た。早速、未央ちゃんと三人で、オペラ劇場が見え
るお気に入りに喫茶店で会った。泉さんとは半年ぶり、未央ち
ゃんとも久しぶりに会って、四方山話であっという間に時間が
過ぎてしまった。
3月20日
朝レッスンがあり、午後からオリガさんの所に行った。彼女は
、女性には1ヶ月に1回月経があるが、それがどのように音楽
活動に影響を与えているか、という実験的研究を、脳波計測器
を使って、音楽院ではじめることになった。1ヶ月に3回脳波を
測定するために通わなければならない。面倒くさいが、今日が2
回目の測定だった。その後、カルテットのリハーサルをして、
劇場に「白鳥の湖」を観に行った。少し遅れて、3幕から観た
。未央ちゃんの旦那さんのビタリーが主役の王子様を踊ってい
た。未央ちゃんは隣で「自分が踊る時より緊張する」と言って
、ビタリーを見守っていた。ビタリーは跳躍も高いし、踊りに
品が出て来て、しばらく見ないうちに上手になったなぁと感心
した。「白鳥の湖」のハッピーエンド版を観たのは、今回がは
じめてだった。
3月22日
朝、レッスンがあり、ブラームスのコンチェルトを弾いた。久
しぶりで「何の指だったっけ」「何ポジションだったっけ」と
思い出しながら弾いた。指の筋肉には記憶力があり、指は自然
に勝手に動いていていくのだが、頭の意識の方がついていって
いなかった。夕方、劇場に現代バレエ「ユノナとアボシ」を観
に行った。泉さんの解説付きだった。はじめてであらすじが良
く分からなかったので、パンフレットを家で読むまで納得でき
ない所があった。このバレエは「なんで?」という疑問なしに
観なければいけない。愛し合った二人は離れ離れになる運命に
あり、別々の場所で死んで、天国で結ばれる。基本的には悲劇
である。最後に美しい“ハレルヤ”のメロディーが流れて、終
わり。泉さんはこの“ハレルヤ”を聞きたいが故に「ユノナと
アボシ」のカセットを買ったと言っていた。う〜ん、この“ハ
レルヤ”だけのために…。
3月24日
朝のうちに練習をして、3時から例の日本語とドイツ語の交換
授業をした。6時からバレエ「眠れる森の美女」を観に行った
。未央ちゃんは悪魔の手下の役で踊っていた。ビタリーも踊っ
ていた。
3月25日
午前中練習して、午後から室内楽の授業を受けた。泉さんがレ
ストランに招待してくれた。新田さんとデニス夫妻の5人で、
センター街の「トロイカ」という高級レストランへ行った。こ
の「トロイカ」というレストランに来たのは、札幌・ノボシビ
ルスク姉妹都市10周年の時以来だった。平日だからか、とても
空いていた。とてもボリュームがあり、美味しかったが、全部
食べきれなかった。清算の金額が思ったより高くて、きっと水
増し計算されたのだろう、と思った。大学の時モスクワで、外
国人だから食堂やカフェで本当に良くぼられたが、ノボシビル
スクでも“歴史は繰り返される”ようだ。しかも、一流レスト
ランで…。
3月26日
午前中練習をして、午後からカルテットのリハーサルをした。
カルテットは、なかなか問
題が多い。まずメンバーが揃わない。時間が合わない。音程が
合わない。最悪…。夕方、フィルハーモニーの演奏会を聞きに
行った。この日はカッツ先生の指揮で、シェドリンのカルメン
組曲とベートーベンの交響曲第7番が演奏された。何箇所か出
だしが揃わない所があった以外は、完璧だった。ベト7は聞き
なれているが、カッツ先生の曲の組み立て方・解釈は、天下一
品だと思った。ちなみに、先生は“シベリアの天才”といわれ
ている。
3月27日
午前中も午後も練習に精を出して、夕方から、泉さんと「カル
メン」を観に行った。一概に声楽家たちは太っている。ロシア
人も太っている。ロシア人の声楽家たちは、さらに太っている
。カルメンを歌ったタチアナさんは、細身の女の子の二人分く
らいの幅があった。泉さんは、「あんな太ったおばちゃんを3
人の男がとりあうなんて、変だ、変だ!」と言っていた。太っ
たカルメンもいるが、密かに太ったタチアナ(「エヴゲーニー
・オネーギン」)もいるのだ。両者とも目のやりどころがない
。ダイエット、しないのだろうか?
3月29日
1時15分からグボーズディフ先生のレッスンがあり、4時から
カルテットのリハーサルをした。ビオラのオーリャも2ndヴァ
イオリンのサーシャもいなかったので、チェロのジーマと二人
でゆっくり音程を合わせていった。ジーマが、もう少し上手け
ればなぁ…。6時半からフィルハーモニーで演奏会があったの
で聞きに行った。
3月30日
11時から子供の家庭教師のアルバイトをした。「ひなまつり」
以来、子供たちは私の授業が待ちどうしくて仕方がないようだ
。ワセリーサは、絵も上手に描けるようになったし、かわいい
やさしいおねえちゃんに変わった。彼女は落ち着いて、よく言
うことを聞くようになったし、ママのインナはもうそれだけで
満足のようだ。ワセリーサが以前、騒いであばれまくったのは
、きっと周囲からの愛情が足りなかったからだ、と私は観察し
ている。子供ができたら、小さいうちは寄り添って、愛情を注
いで、育てていかなければならないと思った。私は、彼らの所
で、疑似母親体験をさせてもらっている。
4月1日
奨学金が下りないことが判明した。大学院へ進学する夢は断た
れた。6月にディプロマを取得したら、ロシアを撤退する。し
かし、結婚や仕事のことを考えると、これでよかったのだ、と
思わずにはいられない。もうすぐ日本に帰れるのだ、と思うと
、とても嬉しかった。5年のロシア留学生活、長かったような
、短かったような…。
4月2日
朝目が覚めて、ベッドの上でごろごろしながら、前回そして前
々回のレッスンの録音テープを聞く。国家試験がもうすぐなの
に全然気合いが入らず、相変わらずのマイペースだから、本当
に今月中に弾けるのだろうか、と不安になっていた。しかし、
客観的に自分の演奏を聞いて、8割方できているし、今からラ
ストスパートをかければ大丈夫、と楽観的思考に切り替えると
、どこからかやる気が沸いてきた。透けるカーテン越しに窓の
外を見ると、500羽ぐらいの黒い鳥の群集が飛び回っていた。
不思議なことに、木立の周りを飛び回った末に、その鳥達は右
方向、オビ川の方に去っていった。4月なのに雪が降って、外
は真っ白。日本では桜が咲いて、花見の時期だが、シベリアの
春はまだ遠い。午前中久しぶりにファリーダにレッスンをして
、カルテットを練習した後、ペリメニを食べて、3時から音楽
院で行われたウェーバーのオペラ「魔弾の射手」を聞きに行っ
た。コンサート形式の演奏会で、一部のソリストを除いてはみ
んな学生だった。ついこの間まで弾いていたオケなので、懐か
しいと思ったが、世代交代のため、知らない学生が多かった。
ちょっとした失敗や楽器のソロなどがあると、「おお、やって
る、やってる!」と聞きに来た上級生達も顔を見合わせて、笑
って、楽しそう…。私も楽しんできた。
4月3日
午前中練習をして、11時からオリガさんの所に脳波を測りに行
った。3時からカルテットのリハーサルをして、アカデムガラ
ドクの“学者の家”大ホールでフィルハーモニーの演奏会があ
ったので聞きに行った。この日はカッツ先生のアシスタントの
アブラーモフ氏が指揮をした。前半は、音楽院の1年生のタチ
ヤナ・チェルニーチカがオーケストラとグリーグのピアノ協奏
曲を弾いた。とても上手だった。彼女ぐらいのピアニストだっ
たら、ヨーロッパで十分ソリストとしてやっていけるだろう。
テクニックも音質も申し分ない。後半はプロコフィエフの交響
曲5番だった。楽しい演奏会だった。
4月5日
10時からグボーズディフ先生のレッスンがあり、3時からカル
テットのリハーサルをした。夕方、劇場に行って、バレエ「ペ
トルーシュカ」の初演を観た。ロシアものは、本場で観るのが
一番だと思う。後半は、私の大好きな「シェーラザード」だっ
た。
4月10日
今朝ジョギングを始めた。私が住んでいる所は、ノボシビルス
ク市の中心街なので、なかなかいいジョギングコースがない。
ジョギングを始めた時間が午前9時。通りは出勤する人ばかり
。スポーツウェアを着て、スニーカーをはいて、走っている私
はバカ丸出し。だから、少し遠慮してマンションの裏側の小道
をコースに選んで一周した。15分ぐらい走って、軽く汗をかい
た。朝の風がとてもすがすがしかった。朝、体を動かすと食欲
も出てきて、マンナヤカーシャ(ロシア風おかゆ)とイクラの
サンドイッチをしっかり食べた。昼頃、レッスンがあり、その
後、オリガさんが働いている202号室に寄って、学生の脳波診
断の作業を手伝った。5時半から音楽院でカルテットのリハー
サルをし、6時からビクトル先生のカルテットのレッスンがあ
った。1楽章を弾いた。今日はビクトル先生が怒鳴らない。「
やっと直子が自分のパートを覚えた」と褒められた。いつも怒
鳴ってばかりいる先生だから、よけいに嬉しい。その後、オペ
ラ劇場の楽器修理技師の所に立ち寄った。魂柱(ヴァイオリン
の楽器の内部の丸い棒のこと)が少しずれていて、すぐに直し
てくれた。かなり年配の修理士は、脳卒中と心筋梗塞を2回ず
つ経験したことやラトビアに住んでいる娘と孫の話や、ヴァイ
オリンの修理以外にも、石の加工にも携わっている話をしてく
れた。
4月10日
家に帰って、新田さんがこの間作ってくれたモヤシ昆布炒めを
作りかけた時、昨日、偶然再会した中国人の医学留学生から電
話がかかってきた。ロシア語が下手だから、何を言っているの
かさっぱり分からない。今から車で中心街に行くから、どこか
に食べに行こうと誘っているのだと、判明。「祐子(新田さん
)も一緒か?」と聞くと、「ニエット(いいえ)」と答えた。
私も辞めておけばいいのに、「今日は気分がいいから、いいよ
」と返事をした。オペラ劇場のレーニン像の前で待っていたの
は、その中国人と血のつながった弟(会社のディレクターと言
っていた)の二人。私はてっきり明るく人当たりの良い奥さん
と一緒だと思っていた。彼は、自分の弟を私に紹介したいらし
い。そして、彼らはなぜかオペラ劇場の方に歩いていった。「
おかしいなぁ〜、レストランや食事が出来る所は反対方向なの
に…。」オペラ劇場の前の広い所に車が並んでいて、大きいト
ヨタのワゴン車までたどり着いた。「これが僕たちの車」とた
どたどしいロシア語で言う。こっちにしてみれば「それがどう
したの?」と言った具合だが、「乗ってどこかに行こう」と言
う。私はこれには納得しかねず、「近くにいいレストランバー
があるから歩いていこう」と強硬に提案。車の中にはもう二人
中国人の男がいた。彼らがいつのまにか車から出てきて私の後
ろに立っていた時は、すごくびっくりした。心臓の鼓動が急に
高まり、「こういうことだったのか」と事の次第を悟った。急
いで冷静になって、走って帰ろうかと思ったが、「私、この近
くにいいレストランを知っているから、行きましょう」と言っ
て、彼らを中心街の方へ引っ張って行った。道中、例の電話を
かけてきた中国人に、「何で男が4人で、女が私1人なの? お
かしいじゃない。私はてっきり奥さんも一緒と思っていたのに
…。それから誰かを紹介したい時は、事前に私に紹介したい人
がいるけど、会ってみたい?と聞くのが常識って言うものよ!
」とぶつぶつ文句を並べる。ロシア語が不自由な彼にどれだけ
理解できたかどうかは???だった。レストランに入って、男
達はビールを注文し、私にも薦めるのだが、私は「オレンジジ
ュース」の一点張り。その後、「乾杯」と日本語で言うと、彼
らは機嫌良くビールを飲み始めた。自分達で勝手に注文すれば
いいのに、私に注文しろとひつこく言う。私はジュースだけと
言って頑として動かなかった。結局、私達は、サラダ“オペラ
”を注文した。「オペラ劇場の丸屋根のように鶏肉サラダが盛
り付けられているから“オペラ”と名付けられている」と説明
すると、「なるほど」と彼らは感心していた。彼らは日頃、市
場で商売をしているようだ。例の医者の中国人には、「家の人
が心配するから10時になったら帰る」と前もって言っておいた
。「彼らが家まで送ると言い出したら、どうしよう。このレス
トランから出て、それをどう巻こうか」と考えながら、サラダ
を食べた。本当はとても美味しいサラダなのに全然美味しく感
じられなかった。そして、10時過ぎに勘定を済ませて、レスト
ランを出た。一かバチか、私は自分の家とは反対の方こうに歩
き出し、彼らを地下鉄の駅まで誘導した。「あなたたちはこの
階段を下って、向こう側の道路に出て。私はこっちだから。じ
ゃあね、おやすみ!」と言ったら、「楽しかった、おやすみ」
と言って、彼らは機嫌良くすんなり階段を下っていった。深く
深呼吸して、明るい車道を選んで、家に帰った。長い一日だっ
た。楽しく終わったから良かったものの、もしあの時、車に乗
って、何かあったら…と考えると大変恐ろしい。
全国の女性及び友人&姪&そしてまだ見ぬ娘へ:
「知らない人や知り合って間もない人の車に絶対乗っては行け
ない」
4月11日
朝ファリーダにレッスンをして、練習。新田さんが日本に行く
間、日本語の授業を担当することになった。担当のレーナさん
と会うことになっていた。私は、新田さんの住むホテル=寮に
行った。駐車場をちらっと覗くと、昨日の例の中国人のトヨタ
の車が止まっている。新田さんが住んでいる所には中国料理店
があり、中国人がたくさん住んでいるので、昨日の奴等と会い
ませんように…と祈りながら入って行った。レーナさんと打ち
合わせをした後、フィルハーモニーの演奏会をアカデムガラド
クに聞きに行こうと思っていたが、フィルハーモニーから出る
アカデムガラドク行きのバスに間に合わなかったので、オペラ
を聞きに行くことにした。この日は「トラビアータ(椿姫)」
で私の大好きな地元ソプラノ歌手ボンダレンコさんがビオレッ
タ役を演じていた。彼女はスタイルが抜群で、いかにもビオレ
ッタらしい外見なので舞台栄えがし、いつも安定した音程で、
音楽的で繊細に歌う。初めて聞いた時、なんてうまい人なのだ
ろう…と思った。それ以来、私は彼女のファンである。アルフ
レッドとアルフレッドのパパは、イマイチだったけど、久しぶ
りにボンダレンコさんの声が聞けて、満足だった。2幕まで聞
いて、帰宅。練習した。
4月12日
郵便局で楽譜や本などを日本に送った。5キロの包みを3個、
書留めで送った。包装してくれたおばさんが、去年同じ場所で
荷物を送った碧ちゃんや泉さんに付き添っていた私のことを覚
えてくれていて、「今年はあなたが帰る番?」と親切に対応し
てくれた。人の家に住むというのは、楽なことではない。特に
、年寄りと一緒っだとなにかと嫌なことが多い。昼食時に、下
宿先のおばあちゃんが「アーニャは昼御飯を作って、マクシム
は棚の整理をして、私は洗濯したから、あんたも何か家の事を
しなければならない。直子は、冷蔵庫をきれいに洗って」とあ
つかましい声で言う。こういう事を言う時のおばあちゃんの顔
は醜く、言い方も卑らしい。何かにつけて、あれしろ、これし
ろと指図している。私は、食事の後、洗い物をし、台所と廊下
の床を拭いた。冷蔵庫はもちろん聞き流し。冷蔵庫の中は一杯
で、スイッチを切って云々、とやっていると一日がかりの仕事
になる。少し練習して、フィルハーモニーの演奏会に行った。
マーラーの交響曲第9番の初演だった。トーマス・ザンテルリ
ングが指揮をした。初めてだからオケが合っていない所やヴァ
イオリンの前方と後方プルトがずれていた所もあったが、マー
ラーの9番はいい曲だと思った。聞いた事のない人はぜひ聞い
て欲しい。マーラーを聞いていると、おばあちゃんの事もどう
でも良くなり、とてもいい気分転換になった。音楽は、人の心
の浄化作用を持つ。
4月13日
朝起きると、外は真っ白だった。今年の冬はとても暖かかった
のに、春はなぜか寒い。土曜日だったので、11時から子供たち
の家庭教師のアルバイトがあった。出る前にぐずぐずしてしま
い、ワセリーサの家に着いたのが11時10分だった。家に入ると
デニスはすぐ顔を見せ、「こんにちは」と言ったのだが、ワセ
リーサはなかなか出てこない。出てきたかと思うと、時計を見
せ、「11時からなのに、時計はもう11時10分の所を指している
」と私を咎める。まいった、まいった…。子供は正直だ。いつ
ものように私が日本の歌を弾いて、子供は絵を描き、いろはカ
ルタで遊んだ。バイトの後、マリーナさんの所へ翻訳作業に行
った。マリーナさんは札幌に1週間行ってきたばかりで、この
日は、札幌で行われたセミナーで発表された武蔵野大学の宮本
先生のレジュメを翻訳した。テキスト自体はとても簡単だが、
いつも苦労するのは人名である。昔の人の名前はなかなか読み
にくい。翻訳作業の後、私達は、ノボシビルスク大学東洋学部40
周年記念パーティに招待されていたので、アカデムガラドクに
向かった。平安時代の演劇から始まり、現代の日本人の生活観
を表した “新幹線” という寸劇まで、とても面白い出し物が
たくさんあった。レストラン“太陽酒場”と“イエログリフ(
漢字)”がこの催しのスポンサーだったので、途中で日本直輸
入の美味しいお寿司を食べさせてもらえた。二部で、アンドレ
イは琴で「六段の調べ」を弾き、私は日本の歌のメドレーをヴ
ァイオリンで弾いた。 この日はそのままみゆきちゃんの所に
泊りに行った。ドアを開けると、新しい住人の子猫“カプース
タ(キャベツと言う意味)”ちゃんが迎えてくれて、びっくり
した。近くに捨てられていたらしい。遊びたい盛りのかわいい
性格の子猫で、お風呂やお手洗いのドアの側にへばりついて私
達を脅かそうと構えている姿は、非常に滑稽だった。小さな怪
獣ちゃん!
4月14日
朝、久しぶりにアカデムガラドクの側に住んでいるオーリャの
所に行った。去年の10月に生まれたアルチョームは、すくすく
と大きくなって、私の顔を見ると、にこっと微笑んでくれた。
オーリャの狭いアパートには、グリャーシャという馬鹿猫がい
て、3才になるのに未だに排泄の場所が定まらず、廊下や部屋
のあちこちでおしっこをするので、オーリャは難儀していた。
どうしようもない猫で、誰かにあげてしまえばいいのに、と思
うのだが、「こんな猫をもらった人がかわいそうだから」とオ
ーリャは言う。人が良すぎるとはこういうことだ。3時から近
くのホールで、オリガさんの娘のアーニャの演奏会があったの
で、聞きに行った。出来はいまいちだった。40分くらいの短い
演奏会だったが、アーニャは元グボーズディフ門下だったので
、先生も聞きに来ていた。そのあと、町に帰って、音楽院で練
習し、劇場にバレエ「スパルタクス」を観に行った。石田さん
と新田さんも観に来ていた。新田さんは、工科大学のホテルの
部屋に置いてあったお金が盗られたらしく、警察に言うべきか
どうか悩んでいた。私もこの盗難の手口には驚いたが、封が切
られていない1000ドルパックの封筒が開けられて、1000ドルが1
ドル札10枚にすりかえられて、また封がされてあった、という
のだ。990ドル盗まれたわけだ。額が大きいだけに、ショック
も大きい。去年の夏、私がひっかかった詐欺師の手口とよく似
ている。ホテルの関係者か顔見知りの犯行だろう…。私もちょ
くちょく出入りしていたから、顔見知りのうちの一人なのだが
、それで疑ったり疑われたりするのも気持ちのいいものではな
い。今までそんな事はなかったので、ちょっと残念…。
4月15日
10時半からファリーダにレッスンをして、12時45分からヴァイ
オリンのレッスンがあり、2時から室内楽のレッスンがあった
。午前中は忙しかった…。
4月16日
9時半に168番小学校へお給料をもらいに行った。ファリーダの
レッスン料である。去年の9月から今年の5月までの分をまとめ
てもらった。全部で2000ルーブル(約66ドル)だった。なんて
少ないお給料なのでしょう…。ロシアではお金が稼げませ〜ん
!12時半から卒業論文発表のリハーサルがあったが、全然準備
していなかったので、ボロボロだった。後で先生に怒られた。1
時からカルテットの合わせがあった。夕方6時から、私の教育
実習生のマーシャの演奏会があった。2年間教育実習という事
で、練習やレッスンの準備を手伝ってきたが、マーシャはとて
も上手になった。私は、グボーズディフ先生に頼まれて、この
演奏会の司会を務めた。私達は、本番前に楽屋で、歯医者の話
をしていて、歯医者はロシア語で“スタマトーロッグ”という
が、マーシャの苗字を言う時に、“ストラトーノビッチ”なの
に、“スタマトーノビッチ”と言ってしまった。失敗、失敗。
演奏会は45分ぐらいで終わった。7時から大ホールで弦楽学部
生の合同演奏会があった。これもまた楽しい演奏会だった。チ
ェロのジーマは悠々と悪い音程で歌っていた。彼は、自分の音
程を聞けていないのかなぁ…?聴音の力が弱いのかなぁ…?
4月18日
10時半からファリーダにレッスンをして、3時からイーラとイ
タリア語の勉強をした。5時からシベリア国際関係大学のマー
シャが勉強しに来た。彼女は、札幌でこの夏行われる環境汚染
に関する学生会議に参加するために、選抜試験を受けるそうだ
。私達は、そのテキストを用意した。この日の晩、新田さんが
日本に出張で発った。私は、新田さんが不在の間、日本語の授
業を受け持ち、彼女の所に一時住む事になっていたので、荷物
をまとめて引越した。
4月19日
朝10時半から早速3年生の授業をした。大学生のレーナと中学
生のバレンチン君が来た。新田さんが用意した課題のプリント
をじっくりやった。二人とも静かで、大人しい…。音楽院まで
地下鉄で通わなければならなくなったが、工科大学のホテルの
側は食料市場なので、とても便利だった。久しぶりの自炊には
まっていた。夕方4時からカルテットの合わせをやった。疲れ
て帰ってきたら、ホテルの人が鍵を渡してくれず、「ちょっと
話がある」と言って、ディレクターの所に呼ばれた。話を聞い
てみると、ディレクターは、新田さんがいない間、私がここに
住む事を聞いていない、と言い出した。「(語学センターの担
当者の)レーナに聞いてみて、彼女も聞いていないといったら
、ホテル代(1日190ルーブル)を払ってもらわなければならな
い」と言う。レーナが外出中でなかなかつかまらない。その間
、私は、ホテルのロビーで一時間強、待たされた。やっとレー
ナに連絡がついて、事は無事に収まった。やれやれ…。
4月20日
工科大学のホテルは静かで、とても気に入った。朝早く起きて
ヴァイオリンの練習をした。そのあと、子供のアルバイトをし
て、2時から日本語の授業を二コマした。1年生と4年生のクラ
スで、みんな癖のあるロシア語なまりの発音は抜けないが、良
くできていると思った。日本語の授業の後、音楽院へ超特急で
行って、室内楽の合わせをやった。分刻みの生活で、とても忙
しい。グボーズディフ先生は、弟子のマーシャと全ロシア・ヤ
ングヴァイオリンコンクールの為にペルメに発った。今日はヒ
ットラーの命日で、ネオナチによる外国人の大量殺戮が予告さ
れていたので、地下鉄や町の通りには見廻りの警察が多かった
。去年はモスクワで韓国人留学生が殺され、その他、何人も被
害に遭った外国人がいたようだ。嫌がらせにしては、ひどいし
、今年は何事もなかったから良かったものの、とても恐ろしい
…。
4月21日
交換授業を朝10時からやったあと、ヴァイオリンの練習をして
、2時ごろマリーナさんの所に翻訳作業に行った。8時ごろ帰っ
て、お風呂に入った後、練習をした。
4月22日
朝ファリーダにレッスンをして、その後、オリガさんの所で脳
波を測ってもらった。女の人は周期によって頭の働きが違うの
で、異なる段階で3回は測定しないと、分析できないらしい。2
時から室内楽のレッスンがあり、ニコラエフのソナタを弾いた
。とてもきれいな曲で、そんなに難しくはない。ビクトル先生
は、いつものように色々注文をつけてきた。室内楽が4時過ぎ
に終わって、一路家路へ向かった。軽く御飯を食べて、5時か
ら4年生の授業だった。“たぬき”や“ねこ”の小話のテキス
トを翻訳した。7時半に授業が終わった時は、クタクタに疲れ
ていた。二人分の仕事量で、ハードな日々が続いていた。
4月23日
朝ゆっくり朝御飯を食べて、練習した。1時から音楽院でカル
テットの合わせがあった。そのあと、買い物をして、昼御飯を
作って、満足!食べるとα値が上がるようだ…。4時から卒論
発表の原稿作成をスヴェタに手伝ってもらってやった。夜は、
ゆっくりお風呂に入って、練習した。お風呂に入った後、ぽか
ぽかした状態でヴァイオリンを弾くと、とても気持ちがいいし
、腕も硬直しないので、効果的だった。
4月24日
朝のうちに練習をして、1時から日本語の授業を1コマやって
、シベリア国際関係大学の日本語クラブの第2回討論会『ロシ
アと日本の学生生活』に出席した。タマーラさんのイニチアチ
ブで催された討論会だったが、アカデムガラドクから石田先生
やみゆきちゃんや大家君も来ていた。1時間半の討論の後、テ
ィータイムがあった。学生達と日本語で色々な話をした。その
後、急いで戻り、6時から1年生の授業をした。ハードな連日
の疲れが出てきて、バテバテだった。
4月25日
午前中、ファリーダのレッスンをして、1時間自分の練習をし
て、その後、マリーナさんと翻訳作業を2時間ほどした。3時
からイーラと日本語とイタリア語の交換授業をして、5時から
工科大学のホテルの教室で3年生の日本語の授業をした。ガー
リャとマーシャの二人だけだったが、基本的な単語や文法が覚
えられていなかった。“ざる勉強”(ざるに水を流したら、全
部水が落ちてしまう。そのような勉強の仕方)では、外国語は
身につかない。ましてや日本語を勉強するのにそんな勉強法で
は、先が見えている。途中で気分を切り換えて、童謡や歌をや
った。意外と楽しく乗って来て、彼らは満足して帰っていった
。疲れていたが、練習があまりできなかったので、晩御飯の後
、1時間だけ頑張って練習した。
4月26日
10時半から3年生の授業をして、1時から音楽院でカルテット
の合わせをやった。先週と変わらないタイムスケジュール。だ
が、私の疲労はピークに来ていた。3時過ぎに新庄さんとロシ
ア語の勉強をして、その後一緒にうちで御飯を食べた。新庄さ
んが持ってきたシャンパーン(アルコール入り)を全部飲んで
、お腹いっぱいになって、ほろ酔い気分〜。新庄さんを送り出
してから、ちょっと昼寝のつもりが、そのまま次の日の朝まで
寝てしまった。
4月27日
睡眠は健康の元。たくさん寝たら、元気が戻ってきた。先週の
スケジュールと同じ。子供のバイトの後、日本語の授業を2コ
マやって、音楽院で室内楽の合わせをやった。夜は、落ち着い
て練習した。働き出すと、なかなか練習の時間が取れない。仕
事の後は疲れてしまって、練習どころではないと言うのが正直
な所だ。
4月28日
2時からターニャとドイツ語と日本語の交換授業をして、6時
から劇場でバレエ「くるみ割人形」があると思っていったら、
勘違いで、プーランクの1幕オペラ「人間の声」を観たことに
なった。途中で寝てしまったのだが…変なオペラだった。
4月29日
新田さんが帰ってくる日だった。いつものように午前中ファリ
ーダのレッスンをし、オリガさんの所へ行き、脳波を測っても
らって、室内楽のレッスン。その後、速攻でホテルに帰って、
腹ごしらえ。5時から4年生の授業をした後、アカデムガラド
クに住むオリガさんの所に泊りに行った。
4月30日
オリガさんとノボシビルスク医学アカデミーに行った。そこで
、脳波の機械を使った療法の開発・研究が進められており、コ
ンピュータゲームを使った脈拍療法やトレーニングを実際に体
験する事ができた。このコンピューターゲームは画面をみなが
ら、呼吸を整え、リラックスする事を体得する目的で開発され
、販売されている。そんなに高くはないので、すぐ“欲しい!
”と思った。いらいらしている時や誰かに八つ当たりしたい時
は、静かにこのコンピューターゲームで遊ぶ。そうすれば、喧
嘩やもめごとは起こらない。実家にいる時は、母と喧嘩が絶え
ないから、私達の間に一台この脈拍セットが必ず必要だと思っ
た。
5月1日
オリガさんの所に連日泊まって、私の脳波の分析を観察してい
た。オリガさん曰く、私は周期の段階によって明らかに違う才
能が突出している。はじめの段階は、言語関係の才能が抜きん
でていて、半ばの段階は絵を描いたり、縫い物をしたり、創作
にたずさわるといいようだ。後半は音楽の才能が活性化してい
る。子供とはいつの時期でも相性が合い、教育者に向いている
そうだ。この分析は、“自分を知る”、そして、“自分をコン
トロールする”と言う意味で多いに役に立った。夕方、新田さ
んの所に遊びに行った。日本出張は、収穫があったようだ。そ
して、グボーズディフ先生もコンクールから帰ってきた。マー
シャは2位になった。1位が取れなくて、残念そうだったが、「
初めてのコンクールで2位になれたのだから、上出来だ!」と
言って、褒めてあげた。
5月2日
早速10時半からレッスンがあった。良くなったと褒めてくれた
。これから国家試験まで毎日レッスンをすると言われて、ちょ
っとブルーな気分だった。2時からマリーナさんと翻訳作業を
した。『山田耕筰著作全集』の第1巻の翻訳に取り掛かった。
山田耕筰は、当時の日本の音楽界の現状を厳しく著述しており
、若い音楽家達を鼓舞している。文面からも相当頭の良い人だ
ったのだろうなぁと感心してしまう。作曲家になるまでの道の
りを自伝的に描いた断章があって、とても面白かった。どうし
ても音楽の勉強がしたくて、上京して…という節は、人事のよ
うには思えず、心にじ〜んと打つものがあった。翻訳作業の後
、音楽院で2時間ほど練習して家に帰った。下宿先のナターシ
ャママがスイス人の友達アネッタと一緒にスイスから帰って来
た。その間、私は、アネッタに部屋を明け渡して、友達の家に
居候していた。住む所を変えると、倦怠期のロシア生活の良い
気分転換になった。
5月3日
1時からカルテットのレッスンがあった。私達は、ミスコフス
キーの弦楽四重奏曲5番の3,4楽章を弾いた。ビクトル先生
は、「君たち、本当に練習したのか?」と不機嫌になって、し
まいには雷が落ちた。私は第1ヴァイオリン奏者としての責任
の重さを厳しく言われた。ただ4人で合わせれば良いものでは
なく、効率よくリハーサルをする事を考え直させられた。自習
室に座って、スコアを開いて、合わせの練習メニューなるもの
を作成した。スコアで勉強すると、全然聞こえてこない音やメ
ロディーの発見(!)にびっくりし、“今までの練習法が甘か
った”と反省した。
5月4日
シベリア北海道センターで、シュコーラ(ロシア語では小.中
.高校を全部含めた意味)の第2回日本語スピーチコンテスト
が行われた。審査員は全員ノボシビルスクに住んでいる日本人
だった。テーマはさまざまで、ノボシビルスクの事やコンピュ
ーターや旅行、最近浮浪者に食べられた動物園のタンチョウ鶴
の話や身近なペットの猫の話などがあった。初級のレベルだが
、スピーチの内容は初級以上の語彙や文法が入っていて、テキ
ストを覚えられてない子供も結構いた。そもそも姉妹都市の交
流の一環で、札幌市から毎夏1ヶ月、学生の体験留学の人員枠
が与えられる。そこで、誰が札幌に行くかを決める為に、去年
から日本語スピーチコンテストが行われるようになった。今回
は、日本人審査員の審査の基準が不明確という問題が生じた。
それはさておき、ロシア人はプライドが高いのか、コンクール
では1位をとらないと気が済まない人が多い。先日の弟子のマ
ーシャにしても、今回のコンクールでも、私だったら、入賞で
きたらそれだけでとっても嬉しいと思うのに、こっちの人は皆
1位ねらい。それだけシビアな競争世界というわけだが、この
強かさ・負けず嫌いの性格はロシアの国民的な性質だろう…。
5月5日
連日シベリア北海道センターでは行事が続く。今日は端午の節
句で、「子供の日」の行事が行われた。恒例の“こいのぼりコ
ンクール”と“壁新聞コンクール”があり、家庭教師の子供、
ワセリーサ・デニス・アーニャの3人も紙を切りぬいて、色と
りどりの鯉を作った。3人の鯉たちは一枚の大きな土台の画用
紙に仲良く貼り付けられ、ユニークな鯉の世界が浮かび上がっ
た。石田さん、新田さん、笠原さん、スヴェタさん、館長のス
ピリドーノフ氏、そして私の6人で2つのコンクールを審査した
。“パイ生地の鯉”や“ガラス細工の鯉”や“折り紙の鯉”な
ど、色々な作品が出てきた。新田さんの思い付きで、カルタや
剣玉、コマ回し、だるま落しなどの日本の遊びを実際に体験す
る時間も確保された。子供たちは実際に剣玉で遊んでみたり、
カルタをしたりして、楽しそうだった。「子供の日」の行事の
後、私達はお茶をした。大ホールでは、剣道の地区大会が始ま
った。小さな子供から大人までいて、ウラジボストックやキー
メロフのようなほかの都市から来た参加者もいた。5時から新
庄さんと「ロマンス」のリハーサルをして、劇場に「くるみ割
人形」を観に行った。国家試験前なのに、全然練習しなかった
私って一体…。(“懺悔の巻”)
5月6日
朝10時過ぎに新庄さんと待ち合わせて、脳波を測ってくれるオ
リガさんの所へ一緒に行った。私はオリガさんの助手で、新庄
さんの頭部8箇所と耳2箇所に測定のための小さなイヤホンのよ
うなものをとりつけ、目を閉じたとき・開けたとき・音楽を聴
いているとき・問題を解いているとき・不快な音を聞いたとき
・・・の脳波の様子を測定するのを手伝った。やりだすといろ
いろなことがわかってきて楽しいので、ついつい長居してしま
う。14時から室内楽のレッスンがあって、ニコラエフのソナタ
を弾いた。ビクトル先生の室内楽のクラスでニコラエフを弾い
ているヴァイオリンが3人もいるから、私たちはお互いによく
授業の聴講をしていた。だから、この時間帯はいつも教室のソ
ファーに誰かが座って、楽譜を見ながら聴いていた。今日はバ
ルナウール出身で、子持ちの主婦&5年生のナターシャが聴き
に来ていた。ナターシャは落ち着いていて控えめで、とても感
じのいい人だったので、好感が持てた。
5月7日
10時45分からファリーダのレッスンをして、12時45分からは自
分のレッスンがあった。先生は、私のもう一人の弟子のマーシ
ャとペルメの全ロシア・ヴァイオリンコンクールに行っていた
が、昨日帰ってきた。もう、早速今日からレッスン。このあと
、カルテットのリハーサルをし、15時30分から卒論発表をした
。音程について、5分ぐらい、ロシア語で要旨を述べて、その
後質疑応答があった。「よく練習するにもかかわらず一向に音
程が良くならないのはどうしてか?」「効率よく音程を定める
練習方法は?」など、いろんな質問が飛び交った。練習しても
良くならないのは、“自分の音が良く聴けていない”ことに原
因があり、間違ったいい加減な音程で何時間練習しても、その
間違いが強化されるだけで、百害あって一利なし。効率よく音
程を定める手段として、自分の練習を録音して聴くこと、が挙
げられる。後は、開放弦や和音を使って、音程を確認して、音
のツボを磨く。試験官の先生はファゴットの先生だったので、
面白そうに私の答弁を聞いてくれた。卒論発表も無事に終わり
、5(優)の成績をもらった。
5月8日
11時からヴァイオリンのレッスンがあり、午後からシベリア国
際関係大学へ行った。シベリア国際関係大学で1ヶ月だけ集中
的に日本語の会話の授業をもつことになっていた。2年生と3年
生の90分×2クラスを担当した。みんなつい最近ノボシビルス
クのシベリア北海道センターで行われた日本語能力診断テスト
の初級のレベルに合格していたが、会話に慣れていなくて、文
章の構成や即答がまだ難しそうだった。私は、もう長くロシア
に住んでいるので、ロシア語で考えるようになったし、夢もロ
シア語で見たりするので、とっさの時には、ロシア語が出てき
てしまって、横でタマーラ先生に、「直子先生、日本語だーけ
で」とよく茶々を入れられた。「とにかく学生達と日本語で会
話をして欲しい」とのタマーラ先生からの切実なお願いだった
。
5月9日
戦勝記念日だった。4年前は、戦争に勝ったというこの祝日に
大変違和感を抱いていたが、もうそれも5回目。ロシアは勝戦
国だが、何万人という犠牲者を出し、長い抑圧された戦争状態
からの解放・犠牲者の追悼という意味では、諸手を挙げて喜ぶ
ような雰囲気の祝日ではない。私は、朝いつものように練習し
て、2時からマリーナ先生のところで食事をご馳走になり、山
田耕筰著作集の翻訳作業をした。その後、新庄さんと久しぶり
に会って、ビールを飲んだ。忙しい日々の谷間の「休息日」だ
った。
5月11日
明けても暮れても練習、練習。カルテットの分奏もやって、大
忙し。
5月12日
12時から音楽院の大ホールで、国家試験のプレテストがあった
。グボーズディフ先生には「辞めとけ」と言われたが、人前で
エルンストのオセロを弾いておきたかったので、弾かせてもら
った。とても長い曲で、最後の二つの和音を度忘れして、弾き
忘れるというへまをしでかし、冷や汗もの。国家試験の本番で
は、そんな失敗がないように、復習した。夕方からターニャと
イーラが来て、日本語とドイツ語の交換授業をした。
5月13日
10時45分にファリーダがレッスンに来た。もうそろそろ試験を
設定しなければならなくて、ファリーダも「狩人の合唱」と「
メヌエット」を頑張って練習していた。移弦や音程.リズムな
どいつも同じ所で注意していた。なかなか癖になって、直らな
いようだった。2時から室内楽のレッスンがあって、その後、
新庄さんのカッツ先生の指揮のレッスンに付き添って、夜は家
で自分の練習をした。
5月14日
音楽院では、「西洋.シベリア.東洋」という国際音楽フェス
ティバルが行われていて、その一環で、「日本の音楽」という
演奏会が設けられて、十八番の寺原伸夫の「ロマンス」を弾い
た。
5月15日
11時15分にグボーズディフ先生のレッスンが入り、その後、国
際関係大学で日本語の会話の授業をした。来週行われる日本語
スピーチコンテストに出る生徒の原稿をチェックした。ほかの
生徒にはカルタのカードを使って、発音の仕方を書き写しても
らった。学生の発音は習った先生の影響が大きく、しゃべり方
は一昼一夜ではどうにもならないもの。難しいなぁ。一回でで
きたら、誰も苦労しないだろうけど。。。
5月16日
10時45分からファリーダにお稽古をつけて、昼から、室内楽の
国家試験のプレテストを受けた。レーナとニコラエフのソナタ
を弾いた。このプレテストは、要するに試験官付き添いのリハ
ーサルで、本番であがってしまわないように、弾き慣れておく
という先生方の配慮からだった。室内楽の各クラスの先生が見
守る中で行われ、終わったら一言ずつコメントをもらった。「
最後の楽章はのって弾いていた。聞いていても楽しかったが、
始めの楽章をもう少し考えて、まとまりのあるものに仕上げた
らいい」とアドバイスをもらった。その後、カルテットのリハ
ーサルをした。4人なかなか揃わないのが悩みの種だった。
5月17日
11時15分からレッスンがあった。国家試験は23日になった。体
調のコンディションは最悪だった。でも、仕方ないか・・・。
あと、少し。
5月19日
「直子、元気を出せ!ブルーになって、落ち込んでいる時間な
んてないんだぞ!!」
日本から持ってきていた故團伊玖磨先生の追悼ビデオを見た。
このビデオは私の心の栄養剤のようなものだった。「質を保ち
続ける」「80になって傑作を書く」とブラウン管の中の先生は
語っている。先生のスケールの大きさを改めて感じた。円熟し
てからこそできる遠まわしや言い方があるんだなぁと思った。
ビデオテープにはヴェルディのレクイエムも一緒に録画されて
いた。「私をお救いください」という歌詞が繰り返される。私
も心の中でそう思った。何かにすがりたい心境だった。何のた
めに、今、ヴァイオリンを弾いているのか?わからなかった。
今、ここで辞めてしまったら、この5年間の留学生活が水の泡
。それは明白だが、先が不安。でも、国家試験のプログラムを
弾かなければいけない。音楽院を卒業しないと・・・。音楽と
は何か?ヴァイオリンは何なのか?心の中でもう一人の自分に
問いかける・・・「心に響くもの」を目指したい。出口が見え
てきたかな?
5月20日
専門の国家試験まであと3日。10時45分にファリーダにレッス
ンをして、自分のレッスン。室内楽の授業は、先生の教授会と
重なり、自主練。神経がピリピリしていて、落ち着かない。体
調が優れず、陰鬱なローテンション。集中力をつけるために、
肉を食べる。あと、3日で終わる。
5月21日
13時からホールでリハーサルをした。腕が硬直気味で、先生は
激怒。ブラームスのコンチェルトのようなドラマチックな曲は
、心に灯をつけないと、弾けない。ダイナミックなフレージン
グや明暗、細かいテクニックなど、神経を十分集中させても、
ある種の緊張がみなぎる。演奏するときは、その音楽的内容の
緊張が、身体に影響を与えないようにしなければならない。腕
は常に柔らかい状態にしておかなければならない。演奏中、体
のどこかに無駄な力が入ってはいけない。今日は、ガチガチに
腕が固まってしまって、良くない。人間は天気と同じで、日々
変わっていくものだ。良くもなるし、悪くもなる。悪くなって
しまった。あ〜、あと二日で取り戻せるか・・・。
5月22日
朝、レッスンがあった。45分のレッスンの間、全部の曲が弾け
なかったので、先生があとでまた見ると言い出し、2回レッス
ンがあった。水曜日は、シベリア国際関係大学でのアルバイト
の日。13時40分から2コマ、授業をした。私の授業は今週末に
ある弁論大会に向けての特別授業のようなもので、弁論に参加
する生徒だけが出席していた。あとの生徒は、サボリで、さっ
さと家へ帰ってしまった。私もこの日に限って、それが有り難
く感じた。弁論のスピーチの練習をして、質疑応答の練習を重
ねた。が、外国語の力というものはローマのごとく一日にして
つかず。ノボシビルスク大学の優秀な生徒には太刀打ちできな
いだろうと悲観的にもなりかけたが、モットーは「ベストを尽
くす」。短い時間だけど、私もベストを尽くしたし、学生達も
それなりに切磋琢磨して、弁論の準備に取り組んだ。そのこと
をまず評価してあげたい。大学をあとにして、一目散に音楽院
へ。問題のブラームスのコンチェルトを弾いた。ノースリーブ
のワンピースを着ていたので、腕が硬直しているかどうかはす
ぐ見てわかった。昨日のように引きつったような腕の硬直はな
かった。身体の中の緊張感が取れた。先生は「昨日と比べると
別人のようだ」と言ってくれた。いよいよ明日は国家試験。緊
張して、心が落ち着かなかった。
5月23日
疲れのピークに達していて、朝も這いずるようにしてベッドか
ら起きた。今日は国家試験の日だから、絶対朝寝坊はできなか
った。もう一度、ゆっくりプログラムの復習をしたが、弾きこ
なせていない部分も出てきて、焦った。。。運を天に任せるし
かなかった。先日買った夏用の黒のブラウスを着て、音楽院に
早めに行って、ウォーミングアップをした。ホールで音だしを
して、1時丁度から試験が始まった。バッハのソロ・ソナタ第2
番のアンダンテ・アレグロを弾いて、ブラームスのヴァイオリ
ンコンチェルトの1楽章を弾いて、お得意の寺原伸夫のロマン
ス、そして、エルンストのロッシーニのオペラ「オセロ」のテ
ーマによるファンタジーを弾いた。試験は約1時間続いた。試
験官は4人いるはずだが、一人が出張で出られなくなって、実
質3人だった。普段のコンサートのつもりで、リラックスしよ
うと努めたが、やはり人前で休憩なして、弾きつづけるという
ことは体力的になかなか辛いことだった。楽しんで弾けたとい
うより、レッスンとプレッシャーに追われていたので、「これ
でやっと終わる」という気持ちの方が大きかった。弾き終えて
、ホールの外で待っているとき、「あ〜、これで私の5年間は
終わったんだ・・・」と急に涙がこみ上げてきた。5年前、ス
ーツケース1個とヴァイオリンケースを持って、ノボシビルス
クにやって来て、初めての外国生活、貧困や遅い時期から本格
的にヴァイオリンを始めたコンプレックス、グボーズディフ先
生の病気、婚約破棄・・・。いろんなことがあって、いろんな
ことがもうすべて過去のこととなりつつあることに躊躇した。
と、同時に、寂しさも込み上げてきた。試験の結果はマイナス5
(優マイナス)と予測していたが、5(優)を頂けた。試験官
の一人だったマッシェンカ先生は、「今日、グボーズディフ門
下のシュコーラ(奏法の流派のこと)がまた一人誕生した。5
年間で確実に伝統あるノボシビルスクのシュコーラと実力を身
につけた」と講評してくれた。クージン先生も「素敵な演奏を
ありがとう」と言葉をかけてくれた。嬉しかった。神経が大変
興奮して、解放感に浸るまでにはもう少し時間がかかった。3
時からイーラとイタリア語の勉強をし、4時から新庄さんのカ
ッツ先生の指揮の授業に通訳として出席した。去年から来てい
た新庄さんも両肩の力が抜けて、とてもいい指揮をするように
なった。その後、子供のアルバイトを入れていたが、すっかり
忘れてしまって、すっぽかしてしまったが、後で、ママのイン
ナから電話があり、子供達が集まらなくて、今日は没ったとの
こと。インナも今週、国家試験を受けたらしく、明後日に田舎
に休養に行くから、一緒に行こうと誘われて、行くことにした
。
5月25日
朝8時のバスでインナの友達が住んでいる村へ向かった。バス
で3時間ぐらい行ったところで、途中下車したら、友達が車で
迎えに来てくれた。向かったところは、本当に何もない大自然
の中の家。まだ建築中のところもあって、雑然としていたが、
空気が町の中とぜんぜん違って、とてもおいしいかった。近く
に小川が流れていて、とてもいい景色。う〜ん、最高!!イン
ナの友達のアンナは男勝り。夫と一緒に騎手馬を育てていた。
おとなしい馬に乗せてもらい、彼らの日課である調教もみせて
もらった。馬のほかにブタと鶏を飼っていた。ブタにはつい最
近7匹の子供が生まれて、昼下がりのブタの親子の散歩は1時間
でも2時間でも見ていられるほど愉快で滑稽だった。インナが
持ってきたお肉でシャシリクというロシア風焼肉を屋外で作り
、私も持参したソーセージを焼いた。ワインを開けて、大自然
の中で、美味しく食事をとった。ワセリーサはわがままばかり
言って、ママを困らせていた。ママのインナがビシッと怒らな
いので、横で厳しいアンナが代わりに怒っていた。この時期は
クリシェイというブヨか何かの有毒性バエが飛び回っているの
で、屋外に長時間いるときは気をつけなければならなかった。
毒を持っているクリシェイに刺されると、最悪の場合、死に至
るそうだ。夕日が沈むころ、私達は列車に乗って家路についた
。長々と列車に揺られて、11時前にやっと家にたどり着いた。
国家試験のストレスと疲れが癒せた楽しい一日だった。
5月26日
シベリア北海道センターで大学生の日本語スピーチコンテスト
が行われた。ノボシビルスク国立大学.教育大学・公務員養成
大学などで日本語を学ぶ大学生が熱く日本語でスピーチをした
。テーマは日露間のことに限らず幅広く、学生も良く考えてき
たなぁと感心させられるものが多かった。ノボシビルスク大学
の学生達は、さすがエリート集団。よく鍛えられていて、ほか
の大学の学生との基礎の差は一目瞭然だった。私が一ヶ月アル
バイトをしたシベリア国際関係大学の学生達もびびって、緊張
の表情を隠せず、落ち着かないようだった。結局、1位、2位、3
位を大学間で分け合うことになり、ノボシビルスク大学の女学
生、工科大学のリューダ、国際関係大学のターニャが入賞とい
うことになった。コンクールの審査員はもちろん在住日本人で
、日本語教育に携わっている人たちだったが、審査基準や審査
方法で今後解決すべき問題点がたくさん残った。自分の生徒が
参加していると、贔屓目で見てしまうことも出てきて、1位入
賞者が札幌に招待で行ける、となると、皆、なんとかしてコン
クールで勝ちたいと思うものだ。夜は、音楽院でカルテットの
リハーサルをやった。専門の国家試験に合格して、残すところ
、室内楽とカルテットの国家試験だけだった。
5月29日
室内楽の国家試験が1時から行われた。室内楽は、ソビエトの
現代作曲家レオニード・ニコラエフのヴァイオリンソナタを演
奏した。1904年の作品で、とてもロマンチックで、きれいな曲
だった。私とレーナはこのソナタを楽しんで、弾いていたし、
技術的にもそんなに難しい曲ではなかった。プレ国家試験のと
きも、室内楽学科の先生達が聴き、アドバイスをくれて、ある
程度仕上がっていたので、安心して、演奏できた。結果は、優
だった。しかし、数日後に、私のソニーのウォークマンをプレ
ゼントして欲しかったが、私に断られたビクトル先生の陰険な
嫌がらせで、良(4)に変えられてしまったのだ!!(卒業証書
に良と印刷されているのを見て、絶句してしまった!)演奏者
のプロフィールに「○×大学首席卒業」と書いてあることがよ
くあるが、もし、室内楽で優だったら、私はこの首席卒業の資
格があった。プロフィールに「ノボシビルスク.グリンカ音楽
院首席卒業」と書けたはずだった。人為的な操作で私は首席卒
業の名誉を逃してしまった。悔しくて、腹立たしくて、どうし
ても納得できない。学生課のファイン先生に相談しに行ったが
、「ナオコ、いつも君は真面目に頑張り、優(5)を取ることを
目指していたが、そんなものはただの杓子定規にしか過ぎない
よ。そんなものがなくても十分通用するヴァイオリニストにな
りなさい!」とおっしゃられた。胸の中に悔しさは残ったが、
ファイン先生の言うことも尤もだと思った。肝心なことは、自
分がどれだけ頑張って、どれだけ成長できたかで、それは点数
や評価で示されなくても、本人がしっかり認識できていればい
いものだと思えるようになった。私が音楽家として正規の教育
を受けだしたのは、23歳から。遅かったスタート、コンクール
にも挑戦して、どんどんプロフィールにいっぱい書き込めるよ
うに・・・と心の中では思っていたが、なかなか・・・。現実
は厳しかった。しかし、そんなものがなくても「あなたのヴァ
イオリンを聴いたら、幸せになれる」という人が一人でも多く
いれば、それは励みになる。ファイン先生が言ってくれたよう
に、首席卒業とかコンクール入賞とか、そんな肩書きがなくて
も、通用するヴァイオリン弾きになればいいんだ!いや、絶対
なってやる!!と心に誓った。
6月
最後に残っていたカルテットの試験も無事に終わった。ノボシ
ビルスク音楽院での留学生活が終わりに近づいてきた。この年
は、モスクワで4年に1回のチャイコフスキーコンクールがあ
る年だったので、韓国人の友達とモスクワへコンクールを聴き
に行った。熱く燃えた音楽漬けの10日間だった。ピアノ部門と
ヴァイオリン部門が同じ会場で行われていたので、両方じっく
り聴いて、自分が審査員になったつもりで採点もした。こうい
う大きな桧舞台では、どんなに才能があっても、ちょっとした
ミスで命取りになるということを知った。悔し涙あり、歓喜の
涙ありで、コンクール鑑賞はとても楽しかった。モスクワでは
日本音楽祭の時に知り合ったナターシャの家に泊めてもらった
。彼女はコンクール実行委員会のボランティアをした。入場券
がないときなどは、ナターシャに助けてもらって、裏口からこ
そっり入ったりした。力強い味方だった。コンクールが終わり
、一旦、ノボシビルスクに帰って、東京から遊びに来てくれた
大学時代の友人とアルタイ山脈に小旅行へ行った。手の入って
ない剥き出しの雄大な自然を見て、心が洗われるようだった。
「日本に帰る前に来て良かった」と思った。このアルタイ小旅
行は、アルタイに親戚がいるレーナの父とその家族が協力して
くれて実現した。そして数日後、詰めすぎてパンクしそうなト
ランクとヴァイオリンと卒業証書(ディプロマ)を持って、日
本に帰ってきた。胸には語り尽くせないたくさんの想い出を秘
めて...。自信もついたし、これからのことは未定だが、ど
んなことでも立ち向かえるような気がした。ノボシビルスクの
空港を発つ時に、雨が降った。あたかも、私との別れを惜しん
でくれているかのようだった。
|
おわりに・・・
この留学日記は5年目の時に知り合った新田さんに勧められて
書き始めた。1年目から原稿を起こす際に、毎日少しずつ付け
ていたスケジュール表のメモが大いに役立った。だから、毎日
更新して書いたわけではないことを断っておきたい。留学中に
思ったことをいろいろ書き連ねたが、これから留学しようと思
っている若い人たち、ロシアの音楽教育制度に興味がある人に
ぜひ読んでいただきたいと思っている。夢だったロシアへの音
楽留学を実現し、現在、私は大阪.兵庫でヴァイオリンを教え
て、演奏活動もしている。時々、音楽セミナーでブロン先生や
来日ロシア人音楽家の通訳もしている。帰国して1年後、優し
い音楽に理解のある伴侶と巡り合い、結婚し、もうすぐ子供が
生まれる。以前は、ロシアに行きたくて、ヴァイオリンをやり
たくて仕方なく、それが私の夢だったが、諦めずに頑張ったか
ら、その夢を叶えることができた。今は、少し充電中だが、ま
た新たな夢を見つけ、これからも自分らしく生きていきたいと
思う。
2003年11月12日 完
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