ロシア留学日記

ロシア国立グリンカ音楽院を卒業した日本人留学生の記録。


1年目(1997年8月〜) 2年目(1998年8月〜) 3年目(1999年8月〜) 4年目(2000年7月〜) 5年目(2001年9月〜)

4年目(2000年7月〜2001年8月)

【はじめに】
マグニトゴルスクでの2年間の生活にピリオドを打って、ノボシビルスクに引越して きた。すぐに音楽院の編入手続きを終え、オビールでも外国人登録をした。グボーズ ディフ先生の後ろ盾があったので、編入試験は免除された。しばらく落ち着くまでス ヴェタの実家でお世話になった。ノボシビルスクに来てすぐ、6月末から7月の始めに かけて、“ノボシビルスク&札幌姉妹都市10周年記念交流”ということで、たくさん の日本人がノボシビルスクを訪れた。札幌の桂市長や市議会議員の一行、音楽院訪問 団、懐かい千葉さんや安見ちゃんもノボシビルスクに来られた。札幌の市役所で働い ている北大オケの先輩の斎藤秀輝さん(Fg)にも会った。團伊玖磨さんの「夕鶴」の 公演の時、モスクワでお会いして以来だった。「こんな所で会うなんて、何かの縁で すね〜!」と言って私達は再会を喜んだ。世界は本当に狭い。“ノボシビルスク&札 幌姉妹都市10周年記念交流”にちなんでパーティーやレセプション、観光などのスケ ジュールが組まれていて、私達ノボシビルスク在住日本人も便乗して、一緒に楽しま せてもらった。豪華な遊覧船に乗って、美味しい御馳走を食べ、私と碧ちゃん(語学 留学生)は何か得した気分になった。ホテル“シベリア”でのパーティにも安見ちゃ んと未央ちゃん達と一緒に出席し、御馳走を食べ、ダンスを踊ったりした。その慌た だしく、かつ楽しい交流行事は、日本人が帰国すると同時に幕が下りた。そして、私 は現実に戻り、ノボシビルスクでの生活のことを考えなければならなかった。

7月2日

サーシャのママの紹介で新しい下宿先が見つかった。早速、次の日に引越した。ノボ シビルスク出身のヴァイオリニストで現在イスラエルフィルのコンサートマスターを 務めるイリヤ・コノワロフの実家。イリヤはヴァイオリンの手ほどきをブロン先生に 受け、ブロン先生がリューベックに去った後は、私が習っているグボーズディフ先生 についていた。その後、ウィーン音楽大学のドーラ・シュワルツベルクの元で勉強中 に、イスラエルフィルのコンサートマスター就任が決まり、今年で4年目。今は、トリアビブ(?)に住んで、演奏活動に従事している。実家には、彼のおばあちゃんとお母さ ん、18才の医学生の妹と美しい14才の三毛猫ブーシャが住んでいた。2年前に亡く なったイリヤのおじいさんは、ノボシビルスクオペラ・バレエ劇場の名誉常任指揮者 だった。おばあさんは年金生活者で、足が不自由なので家にこもりっぱなしだが、元 精神科医だった。お母さんはノボシビルスク音楽院のピアノ科を出て、スイスのダボ ス市の音楽学校でピアノを教えている。長期の就労ビザを取るのが難しく、3ヶ月毎 に行ったり来たりしている。妹のアーニャは医学大学の1年生だが、すごく太ってい て、おばあちゃんに、「直子とアーニャをのりでくっ付けて、半分に切ったらいいぐ らいになるのに…」とよく冗談を言われた。皆いい人達で、音楽家・知識人の家庭に 身を置くことになり、私もいい意味で啓蒙されたいと思った。

7月3日

新しい環境での生活が始まった。大きなアパートで、天井まで約4メートルあった。 与えてもらった部屋はアパートの中でも一番狭い部屋だったが、それでも畳12帖分は あったかなぁ。部屋が広々としていて、居心地が良かったし、ヴァイオリンの練習が 出来るので、とても有り難かった。

7月9日

コノワロフ家族とは不思議と馬が合った。私達はまず食事で盛り上がっていた。この 家系は肥満体で、私が作る焼きナスや炊き込み御飯がとても好評だった。皆「美味し い、美味しい」と言って食べてくれるので、私はすっかり気分を良くして、お魚の味 噌煮やお寿司なども作った。ナターシャママは本当に親切な人で、私に自分の子供同 様に接してくれ、「直子はいい子だから息子の嫁にしたい」とよく言っていた。(ち なみにイリヤは1年後移動の際、飛行機の中で知り合ったブルガリア人のスチュワー デス、ミレーナさんとめでたく結婚した)

7月10日

グボーズディフ先生は去年より少し良くなった感じだった。直接会っていなくて、電 話で話しただけだが、夏休みの課題で、ラロのスペイン交響曲の1楽章を出されてい た。ナターシャママはピアニストだが、先生と一緒に息子を一流のヴァイオリニスト に育て上げたママだった。ヴァイオリンのことも詳しくて、部屋で練習していたら、 「直子、そんな練習の仕方では駄目!」と言って入って来て、辛抱強く1時間も2時間 も練習を見てくれた。ナターシャママと練習すると、どんどん上手くなっていくの で、「すごいー!!」と感心してしまった。あぁー、この家族ともっと早く出会って いればよかったなぁ。

7月16日

日本語を勉強しているスラバとオーリャとノボシビルスクに来ている日本人留学生達 (京大の大学院生と富山大の学生)と一緒にオビ湖に海水浴に行った。私は久しぶり の海水浴を楽しみたいと思っても、頭の中では「ラロの交響曲、あそこのメロディー をどう弾こうか…」とか「今日家に帰ったら、2ページ目の細かい上昇音のパッサー ジを練習しよう!」とか「5ページ目は似たようなメロディーの所があるが、まだ覚 えきれていないから覚えなきゃ!」などと考えてばかり。ヴァイオリンのことで頭が 一杯だった。「日が高いうちに、練習したいのに、なんで私はこんな所にいるん だ?」と思って、ウトウト…と昼寝を始めると、一緒に来た仲間に「ビーチバレーを やろう」と起こされ、嫌々ながら(…)やることにした。家に帰って、ナターシャマ マに「ラロが気になって、皆と楽しく遊べなかった。練習したい」と言うと、私の気 持ちを理解してくれた。何かをやりかけている時というのは、ある程度その目処がつ いてからでないと駄目みたい。パーっと遊べない。試験の後や演奏会の打ち上げの気 分とは全然違い、“息抜き”にもいいタイミングと悪いタイミングがある。

8月6日

グボーズディフ先生の奥さんが先生の別荘に招待してくれた。電車で1時間40分か かった。ノボシビルスクの郊外にあり、村のような所だった。この土地が開拓され始 めた頃、フィルハーモニーの人達に誘致されたので、“音楽通り”や“劇場通り”と いう通りがあって、ノボシビルスクの音楽関係者の別荘がたくさんある。先生は奥さ んが私を別荘につれてくることを知らなかったようで、始めはびっくりしていたが、 「エキゾチックを見に来たのか?」と言って、歓迎してくれた。ヴァイオリンは持っ て行かなかった。そうしたら、先生に「どうしてヴァイオリンを持ってこなかったん だ?みてあげたのに…」と言われた。先生のここでの日課は散歩・水浴び・マッサー ジ・昼寝だった。先生は自然の中で健康を取り戻しつつあるように見えた。

8月8日

兄の所に娘が生まれた。私はいつの間にかおばちゃんになってしまった。美しく咲く ようにと言う意味で、「美咲」と名付けたそうだ。姪に会えるのは、一体いつなのだ ろう?

8月12日

オリガさんがオビ湖で“燈篭流し”を企画した。彼女は日本に5回ほど交流(短期) で行ったことがあり、広島の原爆記念日を経験している。集まった人はなぜか少な く、オリガさんの家族を含めて10人程度だった。日本の小学生から送られてきた絵を 割り箸&プラスチックの土台に貼り付けて、オリガさんの簡単な“燈篭流し”の説明 の後、10数個の燈篭にロウソクを灯して、オビ湖に流した。夕陽が沈み、薄暗い水辺 に、温かい光を放つ燈篭がゆっくり、ゆっくり流れていった。それは、神秘的な幻想 的な光の連なりのようだった。二度と戦争が起こりませんように…燈篭を見送りなが ら、そう思った。

8月16日

ロシアの南にあるアバカンという町に友達オーリャと行くことにした。アバカンのす ぐ側にミヌシンスクという小さな町にオーリャの実家がある。夏の帰省ラッシュでシ ベリア鉄道の切符がなかなか手に入らなくて大変だったが、2週間の予定の休暇が実 現した。シベリア鉄道で丸一日かかった。着いてすぐ、ロシア潜水艦沈没事故が起 こった。中には生存者がいるらしい…。ロシア政府は外国の救助協力を拒否した。一 刻も早く救い出して欲しいのに…。なにをぐずぐずしているのだろう…。

8月18日

ロシア潜水艦事故は、生存者の救出に間に合わず、結局、悲劇に終わった。テレビで は、この事件に関する討論が盛んに報道され、ロシア国政府の対応の遅さに火花を向 ける人が多かった。残された家族を思うと、胸が痛い。プーチン大統領を始め、ロシ ア政府に、人の命の重みをもっと知って欲しい、というやり場のない怒りが込み上げ てきた。

8月20日

ミヌシンスクでの生活は、のんびりしたもので、退屈すぎるくらいだった。何もせず ぼぉーっと過ごすのが嫌いな私は、ちょっとここの生活が苦痛になってきた。

8月21日

オーリャの別荘に行ってきた。質素で不便な小屋だけど、ロシア式のサウナに入れ て、とても気持ち良かった。ロシア人は、経済的にはとても苦しい現実があるにして も、自然の豊かさをたっぷり吸って、おおらかに育っている人が多いと思う。広大な 土地からくる開放感、手の込んでいない自然、北海道とはまた違う広さ。日本にだけ しかいなかったら、とても感じられなかったであろうこの雄大さは、体験したものに しか分からず、それは人間の成長にはとても大きな収穫だと思う。

8月23日

モスクワのテレビ塔オスタンキノで火災が発生した。この夏、潜水艦といい、テレビ 塔といい、ロシアはなんだか異常だ。ある新聞記事をきっかけに、ミヌシンスクに在 住の日本人抑留者の浅付さんと三野さんに出会った。サハリンで終戦後、抑留。収容 所で働かされ、その後、解放。ロシア人と結婚し、家族もいて、現在、二人ともロシ ア国家の年金生活者。ひょんな事で抑留されてしまい、人生が180度変わってしまっ た二人の話を聞いて、すごく気の毒になってしまった。今の自分の恵まれた環境に感 謝し、老後のことをきちんと見据えなければ…と痛感した。

8月25日

一年目に寮で仲良くしていたイーラとイエバが近くに(近くといっても電車で2時間 ぐらいかかるのだが)住んでいるので、連絡を取って、会いに行くことにした。イエ バは大きくなっていて、ブレーメンの音楽隊のレコードに合わせて、歌を歌うのが大 好きだった。イーラの両親は典型的な田舎の人で、豚や牛や鶏を飼育していた。私達 は、野原や山を散歩した。イーラは前の夫ボーヴァと離婚し、今はビタリーという年 下の青年と同棲していた。ビタリーは、まだ若いからなのか…、初めて見る日本人に びっくりして、始めに顔を合わせたきりで、内装中の違うアパートの方に逃げていっ て、それっきり…。イーラとビタリーの関係が少し心配だった。大丈夫かな〜。

8月26日

イーラとビタリーは付き合い始めたばかりで、まだ相互理解が不十分だったようだ。 で、仲直りをしたらしい。育った環境が違う二人が理解し合い、助け合って、上手く やっていくのは、すごく大変なことなのだ…。私とオーリャはミヌシンスクに帰って きた。

8月30日

ノボシビルスクへ帰ることになった。何もすることがないというのは私にとっては苦 痛だった。別荘で暮らすならまだしも、アパート滞在だったので、たいした環境の変 化もなく、オーリャも恋人のオレグが恋しいと毎日のようにぼやいていた。シベリア 鉄道でえっちらおっちら丸一日。汽車の旅もなかなか疲れるもの。

9月1日

新学期がスタートした。今学期から、晴れてノボシビルスク音楽院の4年生に編入し た。6月にマグニトゴルスクから出て来た時に書類の手続きは済ませており、今日か ら本格的な練習を再開した。ラロのスペイン交響曲をはじめからもう一度細かく練習 した。夏休み明けで、腕の力が抜けていていいのだが、指が思うように動かない…。 シュラディックでリハビリ。

9月3日

音楽史の授業に出た。出席をとられたが、私の名前が先生の名簿になかったので、そ の事を言うと、コラベーリニコフ先生は“Naoko Takagi”と名簿に書き 込んだ。今までその先生には外国人の生徒が一人も通ってきたことがなかったよう で、エイプリルフールではないが、学生達が先生をおちょくるために、“セプテン バーフール”でも考え出しのか?と少し疑われたようだ。留学1年目にノボシビルス ク音楽院の準備学部にいたから、同時に入学した1年生たちの顔ぶれは知っていた が、編入したてで、仲の良い友達はまだいなかった。今学期のテーマはロシア音楽史 でとても興味があった。それに、コラベーリニコフ先生の講義はとても面白かった。 4年生の履修科目として、哲学・文化史・室内楽・カルテット・オーケストラと専門の ヴァイオリンがあった。

9月5日

初レッスン。グボーズディフ先生は、長い夏休み明けの最初のレッスンでは、いつも シュラディックと音階しか弾かせてくれない。どんな上手な人でも、シュラディック から始まる。私はマグニトゴルスクにいたせいで、先生とはほぼ丸1年間の御無沙汰 で、もちろん文句無しにシュラディックを弾かされた。

9月9日

レッスンがあった。ラロのスペイン交響曲の1楽章を弾いた。マグニトゴルスク帰り の私の演奏を聞いたグボーズディフ先生は、1年のうちにぐんと成長した私にびっく りして、驚きを隠そうとしなかった。私は、もうこの時期になると、曲をもらって、 どのように練習して仕上げていけば良いかをしっかり体得していた。ラロのスペイン 交響曲の1楽章は、1回のレッスンで合格点をもらった。次回から、チャイコフスキー かブラームスのヴァイオリン交響曲を持ってくるように言われた。私は、チャイコフ スキーを選んだ。念願のチャイコンがもらえて、跳んで喜んだ。

9月11日

ワジム・レーピンの演奏会がフィルハーモニーであった。レーピンはこの9月、ピアニ ストのメーリニコフとロシア巡業演奏会を行った。彼らは、モスクワ、オムスク、キ メロボ、ノボシビルスクなどで、地元のフィルハーモニーとメンデルスゾーンのピア ノとヴァイオリンの為のコンチェルトとベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を演奏 した。レーピンは上手なヴァイオリニストなのだが、何か心の奥まで響くような温か いものが伝わってこなかった。

9月12日

母からの手紙:「直子の夢は小さい頃からすごく大きかった。幼少の頃から、音楽・ 体操・スケートなどを本格的にするには膨大なお金が必要でした。家にお金がなかっ たこともありますが、直子がどんな分野を目指してもやっていけるように、基礎の力 をつけておきたいと考えて育ててきました。そのことが今からの直子の生きる力にな ればよいのですが…。あらゆる分野において、基礎の力というものは同じだと考えて います。辛抱強く、コツコツと頑張る力を育ててきたつもりです。直子が持っている 学ぶ基礎の力をヴァイオリンに十分生かして、頑張ってくれることを願っています。 明日は9月13日、直子の誕生日です。27歳になります。この日がまた新たなスタート となるように頑張って下さい。直子とはいろいろあるけれど、誕生日が来るたびに、 この子を生んで良かったと思います。ずっとこの先もそう思える9月13日であるよう 願っています。寒さに向かいます。風邪を引かないように気をつけて、勉学に励んで 下さい」ありがとう、お母さん!

9月13日

家で私の誕生日会を催した。コノワロフ家族と友達のオーリャ(Violin)とターニャ (Piano)とリューダと彼女の彼氏イーゴリとで慎ましやかなホームパーティー。楽 しかったが、会話が音楽のことに偏ってしまって、リューダとイーゴリが少し退屈そ うだった。こういうホームパーティーをする時は、共通の話題を持てる人をうまく組 み合わせて呼ばないと、うまく行かないと思った。組み合わせ、ちょっと失敗したか な。

9月27日

「日本のヴァイオリニトの前橋汀子女史が秋山和慶指揮の新星日本交響楽団と小児ガ ンの子供たちの為にチャリティーコンサートを開いた」という新聞の記事を母が送っ てくれた。「前橋さん、すごい…」と賞賛の気持ちが湧き起こった。音楽は人の心や 病気を和らげる作用を持っている。音楽が利潤追求にのみ使われるのではなく、前橋 さんがやったように病院や老人ホームや幼稚園でどんどん演奏会を催す音楽家がもっ と現われてもいいと思う。音楽のことを知らない人でも聞ける音楽会みたいなもの。 「あー、ヴァイオリンってこんな音が出るんだ〜」と知ってもらうだけでも収穫だと 思う。

10月7日

オペラ「スペードの女王」を観に行った。ノボシビルスクの劇場は容積が大きすぎ て、声がホールの一番後ろの席まではっきりと届かない。天井も高いし、奥行きも広 く、モスクワのボリショイ劇場よりも大きい。ソリスト達も年寄りばかり(?!)と いう感じで、元気が無い。今回は、あまりいい印象の残らない「スペード」だった。

10月10日

バレエ「眠れる森の美女」を観に行った。ビタリーはいつものように王子の役で、未 央ちゃんは中国の踊りを踊っていた。劇場に行って、舞台の上の二人の姿を見ると、 「未央ちゃん達も頑張っているんだから、私も頑張らなくっちゃ!」といつも励まさ れる。

10月11日

音楽史の難関、“ビクタリン”(イントロクイズのような小テスト)は、ノボシビル スク音楽院でも行われていた。今回の範囲は、ミャスコフスキーの交響曲5番と6番、 プロコフィエフのオペラ「3つのオレンジへの恋」「セミョーン・カトコ」「炎の天 使」とスキタイ組曲「アラーとロリー」、ショスタコービッチの「鼻」「エカテリー ナ・イズマイロヴァ」と交響曲3番・7番・8番・9番、ピアノ五重奏、弦楽四重奏曲第1番 で、2回に分けて行われた。毎日計画を立てて、少しずつ聞いていかないと、間に合 わなかった。

10月12日

同級生で仲の良い友達が出来た。ターニャという韓国系二世のピアノ科の4年生。と ても美人さんで、性格も人当たりもいい子だった。綺麗好きで、とてもオシャレだっ た。彼女の誕生日会だった。招待されて、彼女が住んでいる音楽院の寮に行った。寮 を訪れたのは何年かぶりで、非常に懐かしかった。相変わらず汚い所は変わっていな かった。前菜のサラダも美味しかったし、メインのピザも格別だった。食事でお腹を 膨らませた後は、電気を消して、音楽をかけて、踊った。食後の運動(?)きっと日 本では絶対見られない光景だと思う。ターニャの友達は多かった。音楽院中が彼女の ことを知っていたし、性格がいいし、綺麗だからとても人気があった。私が男だった ら、ターニャのような子を彼女にしたいと思うだろうなーと密かに思った。

10月14日

チャイコフスキーのコンチェルトはなかなか手強かった。まず、1楽章自体、とても 長くて、約20ページあった。カデンツァ以降も長いし、覚えるのに大変だった。グ ボーズディフ先生の元に戻って来て、リハビリ中で、音程もテクニックもまだ安定期 ではないのに、こんな大曲を選んでしまって、えらいことをしてしまったと思った が、いまさら曲を変えてもらうのもプライドが許さなかった。チャイコンは絶対ロシ アで弾いておきたかったし…。練習して、乗り越えるしかない。頑張ろうっと!!

10月21日

高校の同級生の結婚式だったので、日本にお祝いのファックスを送った。去年の夏、 皆であった時は、「彼氏がいない」と言っていたのに、何かあっという間に先を越さ れた感じ…。私はと言えば、アンドレイとは…………で、他にいい人が現われないだ ろうかと思っていた。周辺にはなかなか骨のある“いい男”はいるのだが、大概彼女 でふさがっている。「恋人なんて“盗るもの”」と言っても、“いい男”が必ずしも “好きな男”であるとは限らないから、好きでもない男を盗ったってしょうがない のー。空しい〜秋の1日。

10月24日

つい最近、シドニーオリンピックの女子マラソンで日本人の高橋尚子が金メダルを 獲った。“小出監督と二人三脚の勝利”について書かれた新聞記事を母が送ってくれ た。小出監督が会社を変わって、高橋も先生を追って、移籍、厳しいトレーニングを 経て、五輪優勝。高橋さんは、字は違えども、同名だし、「直子とグボーズディフ先 生のよう」と励ましの意味も込めて(?)送ってくれたのだった。ノボシビルスクで も女子マラソンの模様はテレビで中継され、アンドレイの妹は「Naokoに燃え た!応援したら勝った」と言っていた。漢字は違うけど、ロシア人にしてみたら、カ タカナ読みだから同じように聞こえるんだよね。

10月25日

低迷期。気分がのらない…。何もしないでいると、落ちるのは速く、下りのエスカ レーターを下っていくようだ。とにかく練習をして、レッスンに通って、“階段”を 一段一段上っていくしかない。お稽古事の世界には、“上りのエスカレーター”なる ものは、存在しない。(存在して欲しいのだが…)

10月30日

音楽史のビクタリン(イントロクイズ小テスト)があった。前日、前々日はリンガ フォン室が大混雑する。ビクタリンの範囲を全部聞いた人と聞いていない人の差が出 てくるのだが、「私、あんたの隣に座るから!」とあらかじめ座席指定しておいて、 皆カンニングをするのが常だった(!)。今回はとりあえずターニャと隣同士に座 り、分からない所は教えてもらい、満点だった。(ホッ)

11月2日

はじめてのカルテットのリハーサルがあった。今の今まで、メンバーが決まっていな かった。先生が悪いのだが、向こうは向こうで組み合わせに関していろいろ事情が あったらしい。私達はショスタコービッチの弦楽四重奏曲第1番を課題に与えられ た。

11月8日〜10日

体調を崩して、寝込んでしまった。新しい環境で、新しい生活を始めて、3ヶ月目。 丁度気が緩む時期なのだ。チャイコフスキーにもてこずっていて、気分も滅入ってい た。

11月12日

初めて哲学の講義に出た。哲学は2年生と一緒に受けることになった。今までそのこ とを知らず、哲学の先生の所に確認しに行ったら、すごく怒られた。「もう2ヶ月も 欠席だから、単位は危ない。でも、まぁ、頑張ってごらん」と言われた。うーん、や ばい。

11月17日

ロシア大統領プーチン氏がノボシビルスクを視察に訪れた。ノボシビルスク市内の各 大学に厳重体制が引かれた。音楽院も閉鎖された。もしかしたらプーチン大統領と奥 さんが夜、音楽院に演奏会を聞きに来るかもしれないという噂だった。が、結局聞き に来なかった。音楽院のリツェイ(高校)の演奏家の卵たちが演奏する予定だったら しい。プーチン大統領は国立ノボシビルスク工科大学の50周年祭のイベントに出席し た。同じ町にいても、テレビで見る方がその詳細が分かり、マスメディアの力の大き さを感じた。

11月23日

オーケストラの演奏会があった。チャイコフスキーの交響詩「マンフレッド」とモー ツァルトの交響曲29番を演奏した。指揮はノボシビルスクフィルのアーノルド・カッ ツ先生。リハーサル中、いつもの毒舌で怒鳴りまくっていたが、今夜は指揮者&演奏 者ともに認めるいい演奏が出来た。ある種の緊張感と感動が心の中に余韻として残っ た。カッツ先生の練習の仕方はとても上手だった。オーケストラで弾いていて、たく さん勉強することがあった。一緒に演奏する機会に恵まれて、私は幸せだった。

12月9日

アンドレイとターニャの結婚式だった。私は呼ばれていたけど、行かなかった。すご く寒い日で、雪が降っていた。アンドレイとは去年の夏、ハバロフスクで飛行機が1 日遅れた時に、セルゲイさんという人の所に一緒にお世話になり、仲良くなった。年 より更けて見えるが、とても頭の良い、好青年だった。木で出来ていて、丸い形をし たドムラというロシアの民族楽器を弾き、音楽院で教鞭を執っていた。お正月にブロ ン先生のセミナーに一緒に通い、音楽院での練習の合間に、ウォッカを飲んで暖まっ たり、四方山話をしたりしているうちに、ある種の感情が芽生えてきた。それは“好 き”という感情だったが、あまり彼のことを知らなかったので、もっともっと知りた いと思った。当時、私はマグニトゴルスクで勉強していたので、アンドレイに正直に 手紙を書いた。そのことが、付き合っていた彼と別れる原因となったのだが、アンド レイの返事は「うん」とも「すん」ともよく分からないもので、私達は“ともだち” だった。私がノボシビルスクに移って来て、アンドレイと会っているうちに真相が見 えてきた。アンドレイとターニャは2つ違いで、長年付き合っていた。ターニャは時 間にルーズで、音楽院での彼女の評判もあまり良くなく、二人はけんかばかりして、 くっついたり、別れたりしていた。私と出会った時期というのは、ターニャと離れて いた時期だったようだ。ノボシビルスクに来てから、すぐアンドレイのお誕生日会が あった。私も招待されたのでプレゼントのウォッカを持って行った。そこで、もちろ ん、ターニャと鉢合わせ。少し嫌な感じだった。ターニャはすごく焼きもちやきで、 アンドレイの横に座っていたが、「なんで直子を呼んだの?」とアンドレイに言いた そうだった。アンドレイの家族はターニャより私の方に関心を示し、ママがあれこれ 気を遣ってくれた。パーティーの時、アンドレイはやたら私と日本の話をしたがっ た。その度に、ターニャの視線が痛かった。アンドレイと友達のセルゲイがたばこを 吸いにバルコニーへ出て行った。良く聞こえなかったけど、二人の女の子を鉢合わせ にしたアンドレイを咎めているようだった。確かに、アンドレイには“迷い”があっ た。自分でもよく分からないようだった。彼の行動にそれが現われていた。ターニャ は私の出現で、すごく悩み、心配していた。ターニャの想いの方が強かった。アンド レイはまだ2,3年は独身で遊んでいたいし、といった感じで、彼の頭の中は常に音楽 のことで一杯だった。決定的に私がアンドレイのことで身を引こうと思ったのは、 ターニャの彼への思いが私の10倍ぐらい強いことを知った時だった。それは、“ノボ シビルスク&札幌姉妹都市10周年記念交流”の時で、女の勘は意外と早く働いた。 「負けた…」と思った。こんなに一人の人をずっと好きでいられることが出来て、彼 女が羨ましかった。その頃、私は別にアンドレイがいなくても、生きていけた。ター ニャは彼がいないと生きていけなかっただろう。ターニャは強硬に押して押して、ア ンドレイを守り切った形で結婚にこぎつけた。人間は弱いから、何かにしがみつい て、支えを求めて生きている。私は外国に独りで住むことが精神的にしんどくなって きていたので、誰かに支えてほしかった。優しい言葉をかけてもらって、励ましても らいたかった。アンドレイは私に好意を持っており、いつも甘い口調で優しい言葉を かけてくれた。それに半分騙されたのかもしれない。韓国系二世の私の友達のター ニャは私達のいきさつを聞いて、「いいじゃない〜、アンドレイをその気にさせて、 揺さぶったんだから!」と言って慰めてくれたが、私の心の中の波風は一向に治まる 気配はなかった。(“直子失恋の巻”)
失恋や悲しいことがあるたびに、人は 成長していくんだと思う…。

12月15日

室内楽の試験があった。バッハのソナタ4番を弾いた。優で合格した。

12月23日

音楽史の2回目のビクタリンがあった。今回はターニャと隣同士に座らなかったの で、5点満点中4点だった。欠席が2回あったので、2つの質問に答えなければならな かった。@プロコフィエフのスキタイ組曲「アラーとロリー」のアラーとロリーはど んな人物か?Aショスタコービッチのピアノ五重奏曲は、どの作曲家の手法を真似た ものか? @は神話の登場人物で、Aはバッハだったのだが、私は答えられなかっ た。音楽史は良(4)だった。

12月27日

兄嫁さんからの手紙:「直ちゃん、元気ですか?武原家の皆は元気でやっています。 お父さんもお母さんもすっかりジイジ、バアバになっています。美咲もお母さんに預 けているせいか誠一(兄)よりもお母さんの方になついている感じです。お母さんに は“抱け”“立て”と命令しています。今や我が家は美咲中心に動いているようで す。直ちゃんが見たらきっとびっくりするでしょう。美咲の最近の写真を同封しま す。大きくなったでしょ!だんだん誠一に似てきたような気がします。お母さんは直 ちゃんの小さい頃に似ていると言っています。良いクリスマスを!!」

12月28日

音楽院の小ホールで年末仮面舞踏会が行われた。みんなドレスやワンピースを着て、 きれいに着飾って踊った。夜が更けると、会場はディスコに変わった。ヨーロッパの 文化という感じがした。

12月31日

コノワロフ家で迎える初めてのお正月。娘のアーニャも今年の秋からボーイフレンド が変わって、家に出入りする友達のメンバーもがらりと変わった。新しい仲間達を招 待して、御馳走を食べ、旧年に乾杯して、新年を迎えた。いろいろあった1年だっ た。新しい年が良い年でありますように…。

2001年1月1日

コノワロフ家で初めてのお正月を迎えた。料理をたくさん作り、シャンパンを開け、 何度も乾杯しながら、年を越した。ナターシャママは食べ過ぎで、夜中に救急訪問医 を呼ぶ羽目に…。大晦日から元日にかけて、ノボシビルスク住民80数人が救急訪問医 を呼んだらしい。皆、食べ過ぎ、飲みすぎ、そして寝不足!?

1月2日

とても寒い一日だった。朝10時すぎにレッスンがあったから、音楽院に行ったが、マ イナス52度を記録していた。何十年かぶりのすごい寒波で、高齢の心臓が弱い人が何 人か亡くなったそうだ。音楽院の通用門の管理人も、この日、亡くなられた。音楽院 に通勤途中にお店に立ち寄り昼御飯を買い、その後急に気分が悪くなり、しばらくこ の寒波の中、外でしゃがみこんでしまったらしい。病院に運ばれた時には、脈が無 かった。この管理人のおじさんは、嫌みで、ねちねちした性格なので、皆から嫌われ ており、年末の学芸祭で、管理人のおじさんが殺される寸劇があったばかりだった。 そればかりに、なんとも後味が悪い…。家の中もとても寒かったので、練習どころで はなく、毛布に包まって、恐怖の“哲学”の試験勉強をした。

1月3日

実家の母から電話がかかってきた。日本で「ロシアの寒波」が報道され、大袈裟に (?!)、マイナス70度と伝えられた。ヤクーツクでは、そのくらいまで下がったよ うだが、開口一番「そんな寒い中で、皆生きていられるの?」「生きています…で も、とっても寒いです。冷蔵庫の中のよう…」

1月4日

7日のヴァイオリンの試験が16日に延期になり、練習に明け暮れている。ブロン先生 が今年もノボシビルスクにやって来た。すごいエネルギーを感じる。才能豊かで、世 界で一桁の指に入る名人先生。ブロン先生の元に世界中の弟子が集まるというのも分 かるような気がする…。ブロン先生が言っていることのレベル、要求は高く、受講生 が言われた通りにやってみたら、すぐに良くなる瞬間に何度も遭遇した。普通に距離 をおいて見ていると、すごい人格者に見えるし、本当にそうなんだろうと思う。しか し、ブロン先生の才能を認めつつも、皆が寄ってたかってブロン先生に習いにケルン に行く、忙しい先生だからレッスンの量が限られていて、上の方の人しかまともに相 手をしてもらえない(仕方のないことなのだが…)。この実態を、私は、少し離れた 所で、批判的に観察している。が、先生は日本が大好きだから、日本人に対しては礼 を尽くしている。私の目が肥えてきたのか、ブロン先生と接する中で、以前は、 「わぁ〜すごい!!」と思っていたことが、案外そうでもなかったという瞬間が増え てきている事も事実だった。留学4年目にして、本物の音楽とそうでないもの、音 色、リズム、解釈、芸術性などの区別がつくようになった。これは、嬉しい進歩だ。

1月5日

恐怖の“哲学”の試験を受けにいった。が、哲学の先生は、音楽院付属の高校(リ ツェイ)の校長先生を兼任しており、「今は忙しいからブロン先生のセミナーが終 わってから」と言われた。ドイツ語と英語のザチョット(試験のようなもの)は、無 事に終わった。

1月10日

専門の試験が行われた。正月明けのレッスンで、すごく音程を外して弾いてしまっ て、本当は7日に試験があるはずだったが、延期されてしまった。しかし、詰めて練 習して、取り戻し、結局、今日の夕方6時から試験が行われることになった。チャイ コフスキーのヴァイオリン協奏曲の1楽章とバッハのパルティータ2番からサラバン ドとジーガを弾いた。優(5)の合格点をもらった。7時から大ホールでブロン先生 の演奏会があった。ブロン先生はノボシビルスクフィルとチャイコフスキーの「なつ かしい土地の思い出」シリーズ:「メディテーション」「スケルツィオ」「メロ ディー」と「ワルツ・スケルツォ」「憂鬱なセレナード」を演奏して、アンコールで チャイコフスキーの協奏曲の2楽章を弾いた。演奏会の後、320号室のグボーズディ フ先生のクラスにコートを取りに来た私は、先生と鉢合わせ。先生は笑いながら「今 日はチャイコフスキーの日だったなー。春には直子がチャイコンの3楽章を弾けるか なぁ」と言った。次は、チャイコンの2,3楽章を持って来いということだった。イ エース!

1月12日

哲学の試験を受けた。レポート課題があって、「ベルジャーエフの“進歩”につい て」というテーマで書いたが、試験の時にすごくつっこまれた。口頭試問だから、黙 りこくってしまっては駄目。だから、知っていることは全部答えた。ベルジャーエフ の“文明”についての質問まで出て来て、あたふた…。ピンチ(!)だった。11月に 入ってから授業に出るようになったので(どこの教室で誰が教えているかということ を知らなかったから)、単位自体危ないといわれていたが、粘って粘って良マイナス (4−)で合格した。哲学の先生は普段から私のことを知っており、日頃から廊下で 会っても挨拶をしたりしていたので、それも功を奏した一要素だと思った。

1月23日

オペラ「エヴゲーニー・オネーギン」を観に行った。1幕タチアナの手紙の場面やレ ンスキーの「私はあなたを愛する…」で始まるアリア等、とても印象に残る場面が あった。チャイコフスキーの音楽はやはりきれいで、オケやソリストの演奏の質はと もかく、きれいなメロディーにうっとり聞き惚れてしまった。

1月29日

カルテットの試験は延期になった。チェロのレーナが実家に帰ってしまうため、試験 が受けられなくなったからだ。2月に後期が始まってから試験を受けるということに なった。私は、このことでちょっとイライラしていた。

1月30日

事実上、今は冬休み。でも、レッスンはコンスタントに入っていた。講義がないの で、その分楽で、少しゆっくりとしたペースで生活を送れた。掃除をしたり、手紙を 書いたり、日頃できないことをやった。何か買い物をしたくなったので、一人でブラ ブラ町の方へ出掛けていった。これといった買い物はなかったのだが、日用品や化粧 品を買った。とてもいい香のする香水が見つかって、ラッキーだった。

2月2日

レッスンがあった。冬休みだから、音楽院はガラガラ。相変わらずグボーズディフ門 下が廊下を行ったり来たりしている。チャイコフスキーの2,3楽章とバッハを弾いて いた。1楽章に比べると、2,3楽章は楽勝(!)という感じだった。

月17日

またまた高校の同窓生がお嫁に行った。どうやら寝屋高の同期生の間では結婚ラッ シュが始まったようだ。私は、そんな幸福とは程遠く、練習、練習。卒業後はロシア に残りたいという気持ちが強いから、オケでヴァイオリンを弾きながら、どこかの大 学で日本語を教えたい。だから、ノボシビルスクでいい人に巡り会えたらいいのに なぁ…。卒業までに誰も見つからなかったら、ロシアで稼ぐのは大変だから、日本に 帰ることになるのだろうか…。

2月23日

カルテットの試験があった。ショスタコービッチの弦楽四重奏曲第1番を弾いた。私 とジョアン(韓国人留学生)は1stヴァイオリンをシェアした。私は1,2楽章は2nd ヴァイオリンを受け持ち、3,4楽章は1stヴァイオリンだった。ジョアンは音楽的だ が、テクニックがイマイチ、私の場合、テクニックはまあまああるが、音楽的には …。お互いに欠点をカバーしあって、とてもいいカルテットが出来上がった。私達は とても仲良くなり、レーナのアパートで打ち上げをし、遅くまでビールを飲んで、語 り合った。

3月3日

シベリア北海道センターでひな祭りの行事があった。今日、ノボシビルスク工科大学 の日本語教師、岩崎泉さんと初めてお会いした。噂は千葉さんやいろんな人から聞い ていたのだが、実際に会ったのは、これが初めてだった。営業をやっていただけあっ て(?)、好感度があり、よくしゃべる人だった。ノボシビルスク大学の福島先生に もお会いした。札大の同期で語学留学している伊藤碧ちゃん、ロータリーの関係で留 学中という高校生にも会った。なつかしかった。ノボシビルスクにいる日本人は約7 人ぐらい。連帯感は他の町に比べると、強いかなぁ〜。何といっても、閉ざされた地 “シベリア”ですから…。

3月9日

国際女性デーだった。ちょっぴり寂しい春の一日。同級生のビオラのビーチャとよく ビールを飲むが、友達以上にはなれない。遊び友達ってとこかな〜。私達は音楽院で 会って、練習の合間に教室でビールを飲んだ。以上。

3月11日

哲学の後期の授業は、クージン氏というハンサムな先生だった。ショーペンハウアー の「性について」という著書の範囲でゼミが行われ、いろんな意見が交わされた。 「メス猫は発情したらどんなオス猫でもいいけれど、人間の場合、誰でもいい訳では ないから、そこが違う」と言った発表者のレーナがとても印象的だった。レーナは最 近、セルゲイ(私は彼とオケで同じプルト、チェック入ってました!)と付き合い始 めたばかり。セルゲイは同級生のナターシャとついこの間まで同棲していたのに、別 れて、3日も経たないうちにすぐまた新しい彼女を作ってしまった。早い!この先、 この二人はどうなるのかなぁ〜。

3月12日

尾島先生が手紙を下さった。尾島先生の庄司紗矢香ちゃんについてのコメント:「聞 くたびに深く輝きが増してきていると感じます。彼女の素晴らしさは、いつも自分の 内面をしっかり見つめ、反省して、努力していること。あの若さであれだけ内省でき る人は少ないと思います。」長い間、聞いていないから、聞いてみたいなぁ…。

3月14日

武庫川女子大学の音楽学部長の宮原先生と声楽学科長の益子先生と堺シティオペラの 研修指揮者の新庄さんと武庫女の学生の4人がグリンカ音楽院を訪れた。こういう時 に駆り出されるのが、私。マリーナさんに学長の依頼でという頼み方をされ、オーケ ストラや他の授業を欠席して、付き添い通訳をした。武庫川女子の宮原教授は、グリ ンカ音楽院から留学に招く声楽の学生を選抜する為に、遠路はるばる来られた。10人 の学生がオーディションを受け、同級生のリーリャ(ソプラノ)が選ばれた。

3月29日

オーケストラの演奏会があった。私は第1ヴァイオリンで弾いていた。シートはオー ケストラの先生がいつも決める。ハイドンの交響曲第96番「奇跡」とオネゲルの交響 曲第3番「典礼ふう」を演奏した。オネゲルはとても緊張した。指揮はトゥーリッチ という先生で、かつてノボシビルスク室内管弦楽団の指揮者だったが、今はなぜか下 ろされた。時々学生のオーケストラを振っている。カッツ先生も聞きに来ていた。

3月31日

専門の試験が行われた。チャイコフスキーの協奏曲2,3楽章とバッハのソロ・ソナタ3 番からラルゴとアレグロ・アッサイを弾いた。試験は小ホールで行われた。また一箇 所間違えてしまったのだが、優(5)をつけてくれた。試験官のマッシェンカ先生 は、とてもダンディーで優しい先生だ。密かにファンだった。グボーズディフ先生 は、私の試験の時はなぜかいつもマッシェンカ先生を試験官として招待していた。優 しい面持ちでいつも私の演奏を聞いてくれた。演奏の後、舞台から降りてきた私に、 「成長しているね!」と言ってくれた。

4月3日

音楽史のビクタリンも相変わらず2ヶ月に1回行われていた。前期は総合成績が良 (4)だったので、なんとか頑張って盛り返したい所だった。後期は、プロコフィエ フのピアノ・ソナタ7番、ショスタコービッチの交響曲11番・14番・15番、ハチャトゥ リアンのバレエ「スパルタクス」、シチェドリンのオペラ「愛だけでなく」「死せる 魂」・バレエ「アンナ・カレーニナ」・声楽曲「ポエトリア」、現代作曲家のガブリー リン「ロシアの手記」やチッシェンコの交響曲3番・バレエ「ヤルスラビア」、シュニ トケの合唱のためのコンチェルト・コンチェルトグロッソがビクタリンの範囲だっ た。1回目のビクタリンが行われ、無事に優を取った。1ヶ月後にもう1回ビクタリン がある。現代作曲家の演奏は初めて聞くものばかりで、頻繁にリンガフォン室に通 い、きっちりリズムや音符を書き込み、緻密なカンニングペーパーを作りながら聞い た。

4月7日

グリンカ音楽院付属高等音楽学校で、アンナ・エピーシナの演奏会があった。アンナ はノボシビルスクで生まれ、リベンゾン先生にヴァイオリンの手ほどきを受け、グ ボーズディフ先生に7年間師事し、現在、オムスクアカデミーオーケストラのソリス トをやっている。彼女は本当に上手い。シベリアナンバー1と言ってもいいだろう。 しかし、結婚・離婚・転職・酒…と才能の割には、パッとしない人生を歩んでいる。 オムスクのオケのメンバーでカルテットを演奏したり、室内楽を演奏したり、プログ ラムも多彩で面白かったが、アンサンブルのメンバーが彼女の才能とつりあわないレ ベルというのが一目瞭然で、一体全体、アンナは今の状況に満足しているのだろう か?となぜか気の毒に思った。

4月20日

後期から「美学」の講義があった。先生は学長のグーレンコ氏。冷血漢で、厳しい先 生だ。課題もたくさんあり、私は「日本の美的感覚〜清少納言の枕草子の世界」とい うテーマでレポートを書いた。レポートを書くに当たって、3月の始めに日本に行っ てきた未央ちゃんに文庫の「枕草子」を手に入れて来てもらい、読んで、ロシア語で も文献を探し、タイピング。友達のリューダが助けてくれた。打ち込みや訂正・編集 はリューダがやってくれた。いや、このレポートに関しては、リューダがほとんど私 の代わりにやってくれたと言っても過言ではないかもしれない。私は必要な個所だけ チェックをし、意見を走り書きし、それをリューダが上手にまとめて、一応レポート の形になった。学長は「お金を払ってレポートを書いてもらったのか?」と聞いてき た。私は否定した。結論や大事な所は私が書いたが、リューダが手伝ってくれて、余 りにも良く出きすぎてしまったのかもしれない。学長はレポートを受理したが、冷た かった。

4月21日

サユナ・キム(韓国)のオペラの上演があった。サユナは1988年に韓国で生まれ、 1997年にグボーズディフ先生にヴァイオリンを習う為に、ノボシビルスクにやってき た。そこで、作曲法をミハイル・バグダーノフ氏に習い、1998年に10才の若さで、1 作目のオペラ「マーシャと3匹のくま」を書き、同市の国際子供劇場フェスティバル で初演された。バレエ「おおかみと7匹の子やぎ」は、2000年に書かれ、今回が初 演。両作品とも、音楽家・演出家・出場者を含め、50人以上が活躍。軽くきれいな音 楽で、聴衆の拍手がなりやまなかった。オペラの後、サユナのお父さんがレストラン に食事に誘ってくれた。トルコ人のイスマイルもいた。楽しい時間を過ごした。

4月28日

グボーズディフ先生が心筋梗塞と診断された。朝いつものように音楽院に出勤、2コ マレッスンをした後、気分が悪くなり、自分で行き付けの病院に駆け込んだら、「心 筋梗塞」で、即入院した。もうすぐ行われるノボシビルスクヤングヴァイオリニスト コンクールに先生の門下から2人出場するが、その練習から来る過度の疲労と心配が 原因なのだろう。先生が心配で、落ち込んだ。2年前に比べると、大分良くなったの に、またかー…。

4月29日

シベリア北海道センターで日本語のコンクールが行われて、ノボシビルスク在住の日 本人が審査員となった。留学1年目は教育大学で日本語を教えるバイトをしていた が、2年目からは楽器に専念していたため、日本語教育と長い間、御無沙汰だった。 だが、マグニトゴルスクから帰って来て嬉しかったことは、私がかつて教育大で教え た生徒達がそれなりに頑張って、日本語の先生になって、教える側に立って日本語と 日本文化を教えているということだった。大学生の部と小学生の部があり、ノボシビ ルスク大学の学生がダントツで、「鍛えられているなぁー」と感心してしまった。自 分の学生がいなかったからというのもあるが…、客観的に平等に聞いて、審査した。

4月30日

母の手紙より『直子はできないから、苦労して努力するという経験をほとんどしてい ません。その為、子供心に自分はできるという思いがどこかに育ってしまったので しょう…。なかなか人のいうことが素直に聞けないで、自分流にすることが多かった です。できるけど、基本がきちんとできていなかったので、大きくなって、直子が自 信を失う結果となってしまいました。人は失敗や挫折を多く重ねる程、奥行きの深い 人間になれるのです。直子は今、いい先生に出会えて、こつこつと頑張る力をつけ、 自信を取り戻して来ていることと思います。今なら、大学受験に失敗して、札大に 行ったからこそ、スヴェタに会え、今の先生に出会えたことを心からよかったと思え るのではないでしょうか…。』そうだね。先生に早く元気になってもらわないと…。

5月5日

子供の日。シベリア北海道センターで日本語学習者や日本関係者が集まった。シベリ ア北海道センターに行くと、畳の部屋があり、茶の湯の道具や着物、盆栽、かぶとな ど、日本のものがたくさん置いてあるので、日本に帰った気分になる。センターはノボシ ビルスク在住日本人にとってもノボシビルスク市民にとっても“日本大使館&文化 館”だったに違いない。子供たちは私達日本人を取り巻き、サインを求める。うー ん、私達って、芸能人みたい。

5月13日

第3回国際ヤングヴァイオリニストコンクールが始まった。審査員や参加者が、モス クワから続々とノボシビルスク入りしてきた。私はマリーナ・クージナ先生と岩淵先 生を空港まで迎えに行った。滝さん親子も先生と同じ便で到着した。

5月14日

チャイコフスキーの弦楽六重奏“フィレンツェの思い出”のスタジオ録音があった。 私達は、この曲を室内楽アンサンブルの編成で演奏した。きれいな曲だが、弾きにく い所があり、やっかいだった。しかも、室内楽編成だから、誰か一人でも音をはずし たら、即演奏の質が落ちる。録音は何回もやり直しを挟み、1日中かかった。疲れ た。

5月15日

第3回国際ヤングヴァイオリニストコンクールの開会式&コンサートがあった。私達 は例の室内楽編成でチャイコフスキーの弦楽六重奏“フィレンツェの思い出”を演奏 した。ブロン先生を始め、審査員のクラフチェンコ先生達はバッハの「3つのための ヴァイオリン協奏曲」、ヘンデルの「4つのためのヴァイオリン協奏曲」を室内楽オ ケと独奏した。日本人審査員の岩淵先生は、指揮をした。空に舞うような指揮だっ た。

5月17日

悲しい訃報が入った。母が電話で、團伊玖磨先生が訪問先の中国・蘇州で亡くなられ たことを伝えてくれた。聞いた時、ショックでしばらく動けなかった。團先生は、今 年の9月にノボシビルスクを訪問される予定だった。ノボシビルスク音楽院で作曲家の 作品ばかり集めた演奏会を行 い、将来的にノボシビルスクのオペラ・バレエ劇場での「夕鶴」上演の話を計画され ていた。私は、「團伊玖磨作品演奏会」で、ヴァイオリンとピアノのためのファンタ ジー3番を演奏することになっていた。先生の御逝去のため、ノボシビルスクでのプ ランは全部取り止めになった。あ〜、ノボシビルスクでの「夕鶴」上演も幻になって しまうのか…。非常に残念だ。心よりご冥福をお祈りしたい…。

5月18日

コンクールはジュニアもシニアも第1時審査が行われていた。日本人は滝さん一人だ け。という訳で私はいつも滝さんに同行することが出来た。千春ちゃんは教室で練 習、私とお母さんはお茶する。「どこかいい所ありません?」「ありますよ!」二人 で音楽院周辺の喫茶店巡りをした。滝さんから得られる日本の音楽事情はとても刺激 的で、私にとって貴重な情報ばかりだった。千春ちゃんは無事に2次審査に通過。ブ ロン先生の関係で横浜みなとみらいの渡壁館長とディレクターの方が名誉ゲストとし てノボシビルスクのコンクールを聞きに来られていた。渡壁館長は15日の演奏会の 後、「弾いていたね!」と声をかけて下さった。私の方の忙しさでゆっくりお話をす る時間がないまま、渡壁館長がノボシビルスクを発たれたのが、ちょっと残念だっ た。

5月20日

千春ちゃんは無事2次審査のプログラムを弾き終えた。実は、伴奏者で問題が生じ、 一時はどうなることかと思っていたので、ほっとした。普通コンクールでは、現地で 上手なピアニストを割り当ててもらえるのだが、組み合わせ方が悪かったのか、千春 ちゃんと弾くはずのピアニストのミハイルさんは最近モスクワから帰ってきたばかり で、符読みもきちんとできていなかった。情熱的に演奏をする人だが、音をはずすの で、私達は心配していた。第1次審査の時はそれでも何とかうまく行ったのだが、ミ ハイルの家の水道管が破裂して、取り替えなければならないというハプニングが起 き、急遽グボーズディフ門下の伴奏者のナターシャが弾くことになった。彼女も課題 曲以外は初見状態。それでもミハイルよりは上手く弾きこなすように見えたが、本番 の「ハバネラ」でものすごく大きなミスをした。伴奏者のミスはもちろん審査に響か なかったが、後でブロン先生は「どういうことなんだ!」とすごい剣幕で、私に聞い てきた。事情をきちんと話したが、ホストの音楽院の学長も激怒し、ミハイルの立場 が悪くなることは必至だった…。そんな心配を胸に抱えながらも、千春ちゃんが「う どんが食べたい」と言ったので、日本料理店に行って、ゆでうどんを注文したら、う どんはちゃんとゆがかれて出てきたのだが、タレがなくて、生醤油で食べた。面白 かったなぁ〜。(“思い出のうどんの巻”)

5月21日

フジテレビの取材があった。何年も日本に住んでいなかったから、「めざましテレビ のワールドキャラバンです」と言われても、どうして番組に私のロシア留学生活の取 材が必要なのかイマイチピンと来なかった。コンクールの中休み2日間が丸々取材で 潰れた。まず音楽院に行って、練習風景の撮影。その後、市場に行って、赤かぶを買 うシーンを何回も撮り、家でボルシチを作る場面もしっかり撮られた。取材はほとん ど“やらせ”に近かった。私はこの種のテレビ取材が大嫌いだ。下宿先で皆で食事を して、いよいよ終わりかなと言う頃に、レポーターの女の子がリュックの中から手紙 を出してきた。「ギャラかな?」なーんて一瞬思ったが、封筒に見覚えのある字で 「武原直子様」と書かれていた。家族皆からの手紙だった。読んだ時、ぽろっと涙が こぼれた。テレビカメラマンはそれを逃さなかった。もう、泣かせてくれるジャン 〜!私はこの時やっとフジテレビ局一行の訪問の意図が理解できた。そして、彼らは 次なる目的地エカテリンブルグへと汽車で旅立った。(“ワールドキャラバン取材の 巻”)

5月24日

コンクールも第3次審査に入り、オーケストラとの共演。千春ちゃんはビュータンの ヴァイオリン協奏曲5番を弾いた。とても綺麗な曲で、コーダの前の優しい甘いメロ ディーは感動的!千春ちゃんは、最初の方は「あれ?」と心配したが、カデンツィア 以降は自分を取り戻し、とてもいい演奏をした。予想通り1位になった。この結果発 表の時、私達は近くの美味しいレストランで食事をしていた。注文した料理がなかな か出てこず、予想以上に待たされてしまったのだ。結果は後から偶然、音楽院の廊下 で会ったグボーズディフ先生から聞いた。

5月26日

表彰式とガラコンサートがあり、シベリアホテルでパーティーがあった。お酒が入る と、審査員の先生方は結構羽目を外して、はしゃいでいた。滝さんとすっかり仲良く なれたので、明日滝さん親子が東京に帰ってしまうのが、ちょっと寂しかった。

5月27日

早朝4時にシベリアホテルで滝さん親子を見送った。本当に楽しかった。「直子さん は日本人なんだから、ロシアで学んだことをぜひ日本で伝えて下さい。日本に帰って きたら、東京方面で活躍して下さい」と言って下さって、この言葉は強い励みになっ た。ありがとうございました。

5月28日

岩淵先生と一緒に町を観光した。外国人二人で町を歩くと危険だから、と言って、ア ンドレイをボディーガードにつけてくれた。夕方は、音楽院付属の高校の校長先生と 岩淵先生が一緒に食事をし、私は通訳でずぅーっと付き添っていた。音楽院の食堂が レストランの役も兼ねていて、そこで食事をとることになっている。いつも通訳の分 (食事)は出ないから、そのつもりでご飯を食べてきたのに、そういう日に限って、 私の分まで出た。校長先生が私に気を遣ってくれたのかなぁ〜?!

5月29日

音楽史の単位が取れた。しかも優(5)で!!この逆転劇は自分でも良くやったと思 う。音楽史のカラベーリニコフ先生は私が外国人留学生だからといって、容赦しな かった。マグニトゴルスクでは「直子は日本人だから」というので、ちやほやされて いた部分もあった。しかし、カラベーリニコフ先生は絶対評価の基準を崩さず、いつ も良(4)ばかりもらっていたから、優が取れないのではないかと本気で心配した。 リンガフォン室に通い、ビクタリンを完璧に書いて、出席点を稼いだ。最後にその努 力を認めてくれて、優をつけてくれた。頑張った甲斐があった。

5月30日

カルテットの試験を受けた。モーツァルトのディベルティメントへ長調を弾いた。音 符は簡単だが、センスよく弾こうと思うと、モーツァルトほど難しいものはない。と りあえず単位は優で取れた。

6月1日

お金の送金についての母の意見:「お金については、安全を期して、できたらこれま で通りどなたかに託したいのですが…。直子がそちらで口座を持ち、使用する分はい いのですが、こちらからの仕送りには(銀行を)使いたくありません。銀行を使え ば、銀行の何人かは直子がお金を持っていることを知ることになりますので、危険が 一杯です。直子はそちらでまだ1年暮すのですから、念には念を入れて、安全に徹し て欲しい(手紙より)」

6月13日

モスクワ音楽院にも日本音楽文化センターがある。モスクワでは1999年から毎年国際 日本音楽フェスティバル『日本の心』と称して、9月から12月にかけて様々な演奏会・ セミナーが催されている。モスクワで10月26日から31日にノボシビルスク音楽院付属 日本音楽センターのメンバーによる連続演奏会が企画され、正式に招待状が届いた。 マリーナさんが私にも声をかけてくれ、私も出張演奏者のメンバー入りすることに なった。

6月19日

とても嫌な事が起こった。詐欺に遭った。ドルをルーブルに替える時、私はいつもナ ターシャママが紹介してくれたヤミ両替商のジェーニャの所で替えていた。別に緊急 に入用ではなかったのだが、ふと両替を思い立って、ジェーニャの所に行ったが、あ いにく夕方でジェーニャはいなかった。彼は自分で「僕は札数を誤魔化したりしな い」と言っていて、“彼は信用してもいい”とナターシャママと意見が一致してい た。違う若い男が寄って来て、両替することになったが、そこで50ドル2枚と5ドル2 枚を摩り替えられてしまった。私の気が緩んでいたのか、マジックのようで、“変だ な…”と思って渡してしまったドル札をすばやく取り戻した時には、50ドルが5ドル に摩り替えられていた。男はすばやくどこかに去ってしまい、追いかけたが、見つけ られなかった。同じ日、郵便局のヤミ両替で、3000ドルが騙し取られたらしい。私が いつもの場所に来た時、普段は見かけない赤いワンピースに白い帽子をかぶった女と スーツを着た男が立っていたし、これはグループ犯行と思われる。後で皆に言った ら、「ヤミ両替商なんて使うからだよ…」と諭された。あ〜悔しい!詐欺にあって、 90ドル損した。そんなに大きな額ではないのだが、ロシアでは約1ヶ月の生活費に値 した。これも勉強のうち?!(この事は未だに親に言っていない)

6月24日

2時からマリーナ先生の家でモスクワ日本音楽フェスティバルの書類の翻訳作業をし た。これは、ほとんどボランティアだった。しかし、マリーナ先生のお母さんが作る 料理がとても美味しくて、美味しい御飯を食べさせてもらう為に、翻訳を手伝ってい る…という感じがしなくもなかった。“働かざる者、食うべからず”

6月25日

夕方の7時から室内楽のリハーサルをした。フランクのソナタを弾いている。もう、 フランクはうんざり…。同じ曲を3ヶ月以上弾いていると、飽きてくる。はぁ〜、明 日までの辛抱。

6月26日

2時30分から室内楽の試験が小ホールで行われた。ターニャは大学院生だから、試験 官の先生も講座の先生が全員集まって、ちょっと緊張した。1箇所間違えたので、や ばいかなぁと心配したが、優で合格した。フショウ!(おわり!)これで全部の試験 が終わり、楽しい楽しい夏休みが始まった。試験の後、下宿先のママに「直子は最近 何も家のことを手伝わない」とイヤミを言われていたので、家に帰って、冷蔵庫の掃 除をした。

6月29日

もうすぐノボシビルスク工科大学で日本語を教えていた岩崎さんが日本に引き揚げ る。荷物を郵便局で送るのを碧ちゃんと手伝った。小包は書籍だと5キロまで、物品 だと2キロまでで約300ルーブル(10ドル)だった。物を送る時は税関申告書(2枚) を書かなければならず、一つ一つの荷物を測りで測り、重さと値段を記入しなければ ならなかった。これは、気が遠くなるような作業で、スペルを間違えたり、記入欄を 間違えるとやり直し(!)で結構時間がかかった。だけど、郵便局の担当者がとても 親切で助かり、私達は楽しみながらやった。

7月2日

3時から日本語のアルバイトをした。シベリア国際関係大学で日本語を教えているタ マーラさんが来年度の授業の教材作成をするために手伝ってほしいと言ってきたの で、1時間50ルーブルでアルバイトすることになった。タマーラ先生は努力家で、性 格はとてもお茶目な感じなのだが、発音が下手で、それがちょっと致命的だった。彼 女の発音は日本に行って、何年か勉強しても、直らないだろうと思われる。ヴァイオ リンでも何でも同じ事が言えるのだが、はじめから正しくやることを身につけないと ダメ(!)。後で覚え直しというのは、始めからやる2倍以上の労力と時間が必要 で、それに伴うストレスが加算されるからだ。

7月3日

岩崎さんが、今日、発った。ちなみに真っ直ぐ日本に帰らず、トルコで1ヶ月旅をし て帰るそうだ。なんてアクティブな人なのでしょう!岩崎さんは重量制限で持ってい けない荷物を私に全部置いていってくれた。こういう心遣いは残される者にとって非 常に嬉しい。小型スーツケースから化粧品等などたくさん頂いて、私はすぐに物持ち になった。1年後帰国する時には、私も岩崎さんみたいに残る日本人にあるものすべ て残していくのだろうなぁ…。

7月14日

州立図書館でドイツ語の勉強をした後、グボーズディフ先生のダーチャに泊りに行っ た。4日ダーチャに泊まって、町に帰って2日間日本語と翻訳のアルバイトをする、と いう夏休みパターンが出来上がった。グボーズディフ先生は、療養の為、サユナのお 父さんに韓国に招待されていた。奥さんも一緒に招待されたが、ボーリャという大学 に入ったばかりの息子がいて放っておく訳には行かないので、ノボシビルスクに残る ことにした。が、奥さんは先生がいなくて、寂しくて、その反動か(?)、私に色々 世話を焼いてくれた。こんな人がお母さんだったらいいのになぁと思った。私達は ダーチャで楽しく仲良く暮した。

7月20日

ダーチャにいた。近所の劇場のビオラ奏者と一緒に“キノコ狩り”に出掛けた。4時 間ぐらい私達はバケツを片手に、キノコを集めた。いろんなキノコがあった。もうそ ろそろ家に帰ろうかという頃、私はとても美味しいといわれている“シロキノコ”を 見つけた。ウラー!(万歳!)森の中を何時間も歩きまわって、ハエやブヨにたから れ、刺されまくった。顔面20箇所ぐらいかまれて、「(かまれた)跡が残ったらお嫁 に行けないー!」とわめいてしまった。あまりにもひどくて、鏡も見られなかった。 ぐすん。(“キノコ狩りで蚊に刺されまくるの巻”)

8月3日

お金の送金がうまく行きそうにないし、2年もロシアから出ていないと、3年目に出る 時に、税関で問題が生じそうだし…といった理由から、急遽日本に帰ることにした。 たまたまノボシビルスクに来ていた札幌合気道協会の今村先生、五十嵐さん、二階堂 さんが帰国する日で、新潟までの道連れができた。楽しかった。ハバロフスクでまた ヴァイオリンのことが問題になったが、サーシャという合気道の人が空港の税関で働 いていたので、頼み込んで見逃してもらった。楽器の持ち出し許可書が必要だったの に、作っていなかったのだ。ロシアはいろいろ面倒くさいー!嫌だ、嫌だ。久しぶり の日本は暑かった。
【4年目のまとめ】
ノボシビルスクに戻れて、いい下宿先が見つかり、落ち着いて勉学に励むことが出来 た。憧れのチャイコフスキーのコンチェルトを弾いたので、それは嬉しかったが、グ ボーズディフ先生はなかなかたくさんのプログラムを与えてくれない。レパートリー が増えないことが、私の欲求不満の原因でもあった。9月から新しい環境で、始めは 少し戸惑って、哲学の授業に2ヶ月出席しそびれたりしたが、単位を落とすことな く、無事に4年生を終えられた。コンクールで岩淵先生と再会し、滝さんと出会えて よかった。コンクール期間中に劇場で1stヴァイオリンの募集があった。私は劇場で 1年でも弾いてみたいと思ったので、先生に相談したが、先生は「直子にとって一番 大事なことは有終の美を飾って音楽院卒業すること。劇場に入って弾くこともいい経 験になるが、その分、学業が疎かになる。だからやめたほうがいい」と言われた。グ ボーズディフ先生は私のロシアのお父さんだったから、お父さんの言うことは聞くよ うした。でも、劇場で1年でもいいから弾いてみたかったなぁという気持ちはいまだ にある。私に何が足りなかったのだろう?思い切りか、勇気か、決断力か…。


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