ロシア留学日記
ロシア国立グリンカ音楽院を卒業した日本人留学生の記録。
1年目(1997年8月〜)
2年目(1998年8月〜)
3年目(1999年8月〜)
4年目(2000年7月〜)
5年目(2001年9月〜)
3年目(1999年8月〜2000年6月)
8月18日
16日に新潟空港を発って、ハバロフスクで乗り継ぎがうまく行かず、足止めを食
らった。ロシアの飛行機は予定通りに飛ばないことが良くある。偶然一緒だったドム
ラ奏者で、琴の高垣先生の弟子になったアンドレイと世間話をしながら楽しく旅をし
て、二日後ようやくノボシビルスクに辿り着いた。ハバロフスクでは急遽ホームス
ティを見つけ、その家がとても快適で、広かった。日本人が良く泊まるらしい。私
は、ノボシビルスクに着いて、早速韓国人の金さん家族の所に行って来た。グボーズ
ディフ先生は手術後のケアが悪く、薬アレルギーが出て、腎臓まで止まってしまっ
た。一命を取りとめたものの、まだ入院中だった。手術代・薬代と膨大なお金がか
かったので、弟子の親達がカンパを募り、先生家族を助けた。(先生には金持ちの弟
子が一杯いた)グボーズディフ先生はまだ入院中だった。「今週中には退院できるだ
ろう」と担当医が言っているようだ。あぁー、3年目の渡露、去年に続いて今年も波
風がぴゅーぴゅー吹いていた。先生に早く良くなってもらいたい。
8月20日
スヴェタの実家にお世話になっている。すぐ隣のマンションにプルシンスキー・
サーシャが住んでいて、彼のお母さんとオビ川沿いを散歩したり、早朝バドミントン
をしたりして気晴らしをするのが日課となった。夏休み気分で練習はテキトウにして
いた。
8月26日
グボーズディフ先生が退院した。電話で話しをした。先生は、今後はノボシビルス
ク音楽院で働くことになるが、体調が良かったり、悪かったりで、9月末までは職場
には通わず、自宅で療養すると言っていた。今後一切マグニトゴルスクには戻らない
とも言っていた。先生は今、病んでいて、弟子との問題などの心労も感じられた。
はぁ〜、私はどうしよう…。
8月27日
オムスクのターニャの所を経由して、マグニトゴルスクに発つことにした。ター
ニャは喜んで私を迎えてくれた。ダーチャに行って、町を散歩して、楽しく残り少な
い夏休みの時間を過ごした。ターニャの所に3日ほどいて、パパが猟で獲ってきた野
生の“かもの丸焼き”を食べさせてもらった。脂が乗っていて、とても美味しかっ
た。ターニャは声楽部の同級生。彼女と一緒にマグニトゴルスクに向かった。
9月1日
今朝、汽車でマグニトゴルスクに着いた。グボーズディフ先生は、ノボシビルスク
音楽院に戻った。門下生の間でも、引き揚げ組みはさっさと荷物をまとめて、ノボシ
ビルスクに帰っていった。先生は退院したけど、全快したわけではなく、レッスンが
出来るかどうか分からない健康状態にあり、今の所、大事なコンクールを控えたサユ
ナ(韓国人)だけが先生の家に通っている。私は…考えて考えた末に、マグニトゴル
スクに残ることにした。私は13日に来る予定のブイ・コン氏(ベトナム人だが、モス
クワ音楽院&大学院時代にヤンケレービッチに師事、現在教授)に習おうと思った。
できれば、ここで、2・3年の科目を一気に1年で履修してしまい、4年生に飛び級した
いし…。
9月2日
韓国人家族金さんのお手伝いをしていたアーニャおばさんの所に縁あって下宿をす
ることになった。部屋代+食事付きで、一応50ドルということだった。格安!下宿の
屋主は音楽院関係者のおじいさん夫婦で、親切で、信頼できる人達だった。電話もあ
るし、音楽院は目と鼻の先。朝も早く起きて、早く学校に行き練習し、夜も遅くまで
練習することが出来る。家にいる時間は食事の時間と寝る時だけ。買い物、料理、通
学(30分)の手間が省けて、練習に打ち込めるので嬉しい!やった〜!
9月3日
実家の方から激怒の電話があった。勝手に寮を出て、下宿をするなんて、許せない
というのだ。日本とは少し生活感覚が異なるから、この辺の細かい所はロシアに住ん
だ人でないとわからないだろう…と痛感した。親は親で、勝手に決めて!と怒ってい
るし、私にしたら、せっかくお風呂もトイレもまともな音楽院付近のアパートに移れ
て、寮に逆戻りをするのは嫌だし…。千葉さんが「ロシアでは寮よりもホームスティ
の方がいいですよ」と母親に言って下さって、一件落着。それでも、しばらくは親が
納得するまで、ブツブツ言われ続けた。
9月4日
留学継続か、断念か。心の中に迷いが残る。派遣やバイトで(日本で)働く方が簡
単。20年、30年先の仕事を見据えて考えるなら、今、音楽院を去ることは、人生をド
ブに捨てるようなもの。40過ぎたら、掃除婦かレジ打ちかデパート店員か…。その為
に、今まで勉強して、大学に行って、留学までさせてもらっているのだろうか?あま
りにそれは情けない。じゃぁ、今、私は何の為に留学しているのだろう?音楽院をき
ちんと卒業して、オケでヴァイオリンを弾きたい。子供にヴァイオリンを教えたい。
そうだ(!)そうすれば、育てる喜びが出てくるだろう。
9月9日
モスクワで高層アパートが爆破された。死者が多く出た。92人が死亡、200人以上
が負傷した。テロのしわざか?私は下宿先の家族とテレビにかじりついていた。怖く
て、震えてしまった。生存者が救い出される瞬間や救出作業の模様が報道された。ロ
シアのレスキュー隊の救出作業は評判が高かった。
9月13日
またモスクワで爆破事件が起きた。8階建てのアパートが全壊。116人が死亡した。
恐ろしい。たくさんの人が死んだ。自分の住んでいるアパートにも爆弾が仕掛けられ
ているかもしれない…。夕方からオムスク出身のターニャと下宿先のアーニャおばさ
んと3人でささやかに私の誕生日を祝った。誕生日にたくさんの人が死んで、楽しい
はずの一日が、悲しい日に変わってしまった。
9月14日
ブイ・コン・トゥハン先生がマグニトゴルスクにやってきた。学長の部屋の前で
会って、よろしくお願いしますと言った。トゥハン先生はびっくりしながらも、嬉し
そうで、とても当たりの良い人だった。早速、バッハのパルティータbP
(Allemando・Double)とメンデルスゾーンのコンチェルト(弾いたことがあったが)
と小品(スペイン舞曲)とパガニーニのカプリースbXを課題に出された。
9月17日
履修授業は、専門のヴァイオリン(2年生と3年生)・ピアノ(2年生と3年生)・オー
ケストラ・室内楽・弦楽四重奏・音楽史(2年生と3年生)・対位法・作品分析・教育心理学
の9教科だった。
9月30日
母から電話があった。緑内障の手術があって、無事終わったらしい。下宿の件で
すったもんだして以来、あまり電話で話すのが嫌で、敬遠していた。「親が手術した
というのに、どうやったっていう電話一つよこさないなんて、あんたは薄情やなぁ」
となじられた。この手術がきっかけで、夫婦間でも問題が生じ、後に別居に至った。
10月1日
オリガさんの娘アーニャのお誕生日会をした。アーニャの誕生日は本当は9月9日だ
が、アーニャはミュンヘンの国際ヴァイオリンコンクールに行っていて、昨日帰って
来たばかり。急遽、アーニャのお祝いをすることになった。毎年この家族はお誕生日
会を派手にやる。グボーズディフ先生が病気で、アーニャは夏休みの間ずっと一人で
練習したらしい。しかし、後ろ盾の審査員もいないコンクールで、第2次までしか通
過しなかった。アーニャは、客観的に見て、音が柔らかくて、いいのだが、じ〜んと
心に響くものが少ない。以前サユナのママは、アーニャの演奏には“氣”が無いと
言っていた。テクニックもそんなにある訳ではない。でも、私よりは上手いから、こ
れ以上はノーコメント…。
10月21日
新しい先生に変わって、早一ヶ月経った。何とかうまく適応している。肝心なこと
は、私が自覚を持って、よく練習し出したということだった。音楽院の近くに下宿し
だした効果は大きい!それに、ソルフェージュや和声、作品分析を学んで、以前より
曲に対する理解・解釈・表現力が増し、自分の実力がどんどん伸びていっているのを
客観的に感じている今日この頃…。グボーズディフ先生から離れてもやっていける見
通しができた。先生は全く病人で、手術後の経過も良くなく、精密検査の結果、脳に
異常が見られ、その為にめまい・立ち眩みがたえまなく起こり、職場に通えず、自宅
療養をしているらしい。先生のことも心配だが、私は自分の道を邁進するしかない。
10月22日
いつだったか、グボーズディフ先生は「大事なのは、結果ではなく、プロセスだ」
と言っていた。私は、今、留学の中間地点にいる。帰国引き揚げは、私の中では“諦
め”を意味する。マラソン選手が棄権するのと同じで、「しんどい」「苦しい」から
走るのを辞めても、一週間も経てば「何で走るのを諦めたんやろぅ…」と後悔してし
まう。私は、まだ“いける”と思う。自分の力を信じているので、勉強を続けて、伸
ばせる所まで伸ばしたい。その為には、もう少し時間とお金が必要だ。
10月23日
日本にいたら、今の半分以上の練習時間と場所を確保するだけで精一杯だろうな。
ロシアにいる間の時間は無限のように感じられる。この空間と環境は、私の音楽修行
の為には必要不可欠条件なのだ。
10月24日
私はヴァイオリンを教えてみたいと思う。会社は辞めればおしまい。女の人は出産
・子育てで、長く外で働くのは無理だから、家で教えられる技術を身につけたい。音
楽院を卒業しないでヴァイオリンを教えると、“ペテン師”と言われてしまうから、
ここできちんとディプロマを取る必要があると思う。後、二年半…。
10月25日
新しい先生と技術面の解釈ですれ違いが出て来て、困っている。グボーズディフ先
生とは違った奏法を要求され、パニック状態。弓の持ち方も違うし、スタッカートや
とばしのテクニックも違い、トゥハン先生はそれを理論的に説明しないので、これも
不満だ。詳しく聞くと、何か答えてくれるのだが、グボーズディフ先生の教え方の方
が断然いい。グボーズディフ先生に習っていない間、私はどうしたらいいのかわかり
ません。泣きたい気分。お母さんに電話した。
10月26日
毎日ほとんど、今後どうするのかを考えている。オリガさんに去年、私の脳波を
測ってもらった時、「創作活動に専念すると良いタイプ」「私のα波は音楽に敏感に
反応する」「音楽を聴いている間は、聞いていない時に比べて脳波の動きが安定して
いる」と言われたことを思い出した。自分の今まで歩んできた道のりを考えると、
今、諦めてしまうと、一生そのことを悔やみつつ過ごす自分の姿を想像してしまう
…。
10月27日
音楽院の先生や学生には、「朝、来たら、直子が練習している。夜、帰る時、直子
はまだ残って練習している」と言われている。そのことを密かに自負する私だった。
チェロのチェフワゼ先生が年明けにラフマニノフのトリオを一緒に演奏会で弾こうと
声をかけてくれた。私の室内楽のラッチェンカ先生(チェリスト)は大反対。この二
人は馬が合わない。犬猿の仲というのか…。私は少し考える時間をもらって考えた
が、今年は飛び級する為に2倍の音楽史・専門の曲などで手が回らない。どっち道中途
半端になるだろうから、今回は見送ることにした。
10月28日
今日、オーケストラの演奏会があった。モスクワ音楽院教授・ピアニストのスカブ
ロンスキー氏がソリストとして来られ、リストのピアノ協奏曲第1番を共演した。と
てもきれいな音色で、力強い音楽で、演奏後“ブラボー”という声が鳴り止まず、最
後は客席総立ちで、拍手の嵐と言った感じだった。マグニトゴルスクは田舎町だか
ら、こういう一流の人の演奏を聞ける機会というのは、とても少ない。何かを極めた
人というのは、顔相といい、立ち振る舞いといい、整っていて美しい。ピンと張りつ
めたものがあって、スカブロンスキー氏は白髪のおじいさんだったけれど、あんなふ
うに年をとれたらいいなぁと思う。オケの指揮を務める学長ヤクーポフ氏の指揮の不
得手はともかく、組織する能力には目を見張るものがあった。今度の演奏会でも100
ルーブル(約3ドル=3回分の食事代)の賞金がオケ団員全員に配られた。“ブラ
ボー!”
10月29日
母の体調が優れないようだ。もし母が仕事を辞めてしまったら、私のこの留学はあ
きらめないといけないことになるだろう。12月末に日本に帰る予定だが、その時、無
期限の休学届を出して帰ろうか…。1年働いて留学費と年金+保険のお金が貯まれば、
また来たい。26歳にもなって、すねかじりの身分は(私の現状では仕方の無いことか
もしれないけど)情けないし、武原家の皆が言うように私は甘えていると思う。自分
で働くべきと思う。ただ仕事については、なるべく早くロシアに戻って来た方がいい
ので、職種を問わず、即日勤務・高額支給を条件に探し(工場勤務やキツイ肉体労働
でいいから)、短期間の間、我慢して働き、目標額が貯まり次第、またロシアに飛ぶ
…。「働く」ということは、自分の時間と労力を売って、お金をもらうこと。「留学
する」ということは、お金を払って、時間を買い取って、自分のしたいことをするこ
と。私は留学したい。そのためにはどんな辛いことにでも耐えられる。ここにいる
と、自由にヴァイオリンを弾いていられる。ヴァイオリンを弾いている時、私は幸せ
だ。親に頭を下げて、留学を続けさせてもらうしかない。私の勝ち気な面は、何かに
向かって生きていないと気が済まない為に、ヴァイオリン修行の上では多いに効果が
あるけど、もしそれがマイナス面に出てしまうと、飛ぶ火の玉に等しい。その何かを
得られない状態にある時、私は人を一杯傷付けてしまうだろう。トゥハン先生とは相
違意見があるけれども、自分で考えて練習しているうちに弾けるようになり、弾けて
いれば先生は何も言わないので、それはそれでいいのかもしれない。先生は私を高く
かってくれているので、「直子の為にソロ・コンサートのプログラムを考えないと
なぁ…」と考えてくれている。外は雪が降っている。長い冬が始まった。
10月31日
室内楽の中間試験があった。モーツァルトのソナタ第1番ハ長調を弾いた。ラッ
チェンカ先生には、だいぶ良くなったと言われたが、少し辛口の評価だったかな…。
新しい曲にドボルザークのソナタをもらった。とてもロマンチックな曲で気に入っ
た。練習が楽しみだ。「6月まで学び終えたら、日本に引き揚げてもいいかなぁ」と
思う日もあれば、「絶対卒業して、留学の総決算としてチャイコフスキーのコンクー
ルにチャレンジする!」と強気の日もあって、お天気のように気持ちがコロコロ変
わってしまう。
11月1日
毎朝7時半に起きて、朝食(お米とインスタント味噌汁)をとり、8時過ぎに家を出
る。土・日以外は8時からすでにレッスンが入っており、朝型の生活にも慣れてき
た。毎日これからどうするのか考えながら暮しているが、“漕ぎ出した船”で、「や
り遂げなぁあかん!」と思いつつ、卒業後の身の振りを考えると、ブルーになったり
する。
11月14日
グボーズディフ先生の誕生日だった。朝起きて、ご飯を食べた後、ノボシビルスクの
先生の自宅に電話をして、お祝いの言葉を言った。先生は、もう午前のレッスンを
やっていた。懐かしい声が聞けて、嬉しかった。早く元気になって下さい。
11月15日
トゥハン先生のクラスの演奏会があり、私はバッハとメンデルスゾーンのコンチェ
ルトとスペイン舞曲を弾いた。メンコンで1小節止まってしまった所があった。危う
かった。一瞬の出来事だったが、弾き込んだメンコンでそんなことが起きるなんて
思ってもみなかった。トゥハン先生の生徒は、私以外は皆韓国人だった。韓国人の生
徒達も弾いた。皆派手に着飾って、お祭りのようだった。演奏会の後、リーダー格の
お母さんが食べ物を用意してくれていて、教室でなごやかにお食事会になった。悔い
の残る演奏をしてしまった私は、少し落ち込んでいたが、皆と食事をしているうち
に、気分もすっかり良くなった。終わってしまったことは、後悔してもしょうがな
い。明日からのことを考えよう。
11月16日
今日はお父さんの誕生日だった。
11月17日
演奏会が終わってから、私は違う先生につくことにした。トゥハン先生とは意見が
合わない所が出て、グボーズディフ先生の弟子のことも悪く言うようになったので、
嫌になって、離れることにした。(実際の所、トゥハン先生は人の悪口を言うような
人ではなく、私のグボーズディフびいきに嫉妬していただけかもしれない)その日の
うちに、グラズノフ教授のクラスに移行した。学期の途中の出来事だったので、速や
かに移行するのみだった。グラズノフ先生は合意してくれた。
11月19日
色々考えながら生活しているが、来年6月以降のことはなんとも言えない状況だ。
12月末にノボシビルスクに行って、グボーズディフ先生に会って、また考えようと思
う。今、留学を止めて、日本に帰って、働くとしたら、何が出来るのだろう…。考え
出すとだめ。はぁ〜、日本に帰ることは考えないことにしよう!!
11月22日
ラズノフ先生はとてもいい人柄の先生で、モスクワ音楽院と大学院を出て、フィン
ランドで演奏活動をしていて、その後マグニトゴルスク音楽院のヤクーポフ学長から
正式に招聘され、現在音楽院でヴァイオリンを教えている。巨大でぽっちゃりしてい
て、くまのぷーさんのイメージがあった。グラズノフ先生は私にGalamian&Neumannの
“Contemporary violin technique”との出会いを授けてくれた。これはとてもいい
音階スケールで、今後技術を定着させていく上で大変有益だった。
11月23日
音楽史の授業が2学年分=2倍のビクタリン(オペラのイントロクイズのこと=小テス
ト)の量で、毎日少しずつ計画を立てて聞いていかないと、到底間に合う量ではな
かった。2年生の音楽史の方はロシアオペラに入り、「デーモン」ルビンシュテイ
ン、「イワン・スサーニン」「ルスランとリュドミラ」グリンカ、「ルサルカ」ダル
ゴムィシュキー、「ハヴァンシナ」「ボリス・ゴドノフ」ムソルグスキー、「イーゴ
リ公」ボロディン、「五月の雨」「雪姫」「サトコ」「金鶏」「不死身のカシェイ」
リムスキー=コルサコフ、「エヴゲーニー・オネーギン」「スペードの女王」チャイ
コフスキー、「戦争と平和」プロコフィエフ、「愛だけでなく」シチェドリンが前期
のビクタリンの範囲だった。3回に分けて行われ、ゼミも随時行われていた。ゼミで
発表した人には何点というように得点がつけられ、試験の時にそれが加算されるシス
テムだった。要するに予習をいっぱいして、ゼミでたくさん発表すると、試験は楽勝
ということ。私はいつも音楽辞典で、各作曲家の経歴を調べ、丸写しし、発表してい
た。3年生の音楽史は器楽曲史で、1回目のビクタリンは「ブランデンブルグ4番」
「ピアノ協奏曲へ短調」バッハ、「軍隊」ハイドン、「交響曲台41番」モーツァル
ト、交響曲3番「英雄」・6番「田園」・9番「合唱付き」ベートーヴェンの中から10題
で、私の得意なジャンルでいつも満点。2回目のビクタリンは「未完成交響曲」
シューベルト、「幻想交響曲」「イタリアのハロルド」ベルリオーズ、「フン族の戦
争」「ピアノ協奏曲第1番」リスト、「ピアノ協奏曲第2番」ショパン、「我が祖国」
スメタナで、1ヶ月後にある。
11月25日
ピアノは週に1回のペースでレッスンがあって、グラズノフ先生の奥さんのガリーナ
先生に習っていた。シチェドリンの「ポリフォニーの手帳」という作品の中から14番
とスクリャービンの前奏曲を弾いていた。試験の時はもちろん暗譜で弾かなければな
らない。ヴァイオリンの場合、重音はともかく、メロディー線をたどっていくだけで
いいから、覚える音符も少ない。ピアノの場合、まず右手と左手の音があり、更に違
うリズムや和音の覚えなければいけない音が数倍多い。ピアニストはどうやってあれ
だけの音の量を記憶するのだろう?私はシチェドリンの「ポリフォニーの手帳」で音
が覚えられなくて、難儀していた。
11月28日
カルテットでは第1ヴァイオリンを弾いていたが、第2ヴァイオリンの韓国人の女の
子が初心者で(!)ハイドンの音程がなかなか合わない。初心者でも、音楽院の3年
生になれて、ヴァイオリンは4年目らしい。これは大きな問題で、お金の為に(?)
ノボシビルスク音楽院が入学を許可したようだ。彼女はトゥハン先生を追って、この
秋からマグニトゴルスク音楽院で勉強している。専門では、ヘンデルのソナタ2番を
弾いているようだが、未熟な演奏で、聞いていられない。控えめで、真面目で、よく
練習するのだが、始めるのが遅すぎたと思う。まともなコンチェルトも弾いていない
ようだし、国家試験の時、どうするのだろう?わぁ〜、これからが大変だな…。
12月6日
音楽史のゼミがあった。テーマはチャイコフスキーの「エヴゲーニー・オネーギ
ン」。 今日もチャイコフスキーの経歴を…と思って、音楽辞典のチャイコフスキー
の所から必要事項を書き取って、ゼミに臨んだが、授業は違う方向へ展開していっ
た。非常に哲学的で、「なぜタチアナとオネーギンは結ばれなかったのか?」という
方向へ行った。若き頃、タチアナ&オリガとレンスキー&オネーギンが知り合った。
タチアナはオネーギンに惹かれ、恋の告白の手紙を書く。しかし、オネーギンは遊び
たい盛り。本当の愛を知らない。タチアナを避ける。オネーギンはパーティーの時、
レンスキーの恋人オリガに手を出す。そこで、決闘。オネーギンは友人を殺してしま
う。オネーギンはしばらく姿を消し、その間にタチアナは違う人の所にお嫁にいく。
数年後、大人になった二人はまた出会う。今度はオネーギンがタチアナに言い寄る。
しかし、タチアナは心の中に秘めたオネーギンへの思いを認めながらも、オネーギン
から立ち去っていく。二人は結ばれなかった。想いあっていたのに…。私達は話し
合った。まず「タチアナが道徳的な女性であった」「オネーギンと出会った頃はまだ
少女だった」「オネーギンは読書ばかりしているタチアナよりオリガの方が魅力があ
ると思った」「タチアナはオネーギンに思いを残しながら、昔の習慣に従って嫁いで
いった」「タチアナはオネーギンに冷たくされて、その腹いせもあって早く結婚し
た」「もしタチアナが結婚していなかったら、二人は結ばれたかもしれない」など
色々な意見が出た。そして、先生が最後に言ったことがとても印象的だった。「なぜ
プーシキンはハッピーエンドにしなかったのか?それは、読者に人生を学んでもらう
ためです。あなたたちが実生活でこのような問題に直面したら、このことを良く思い
出して下さい。オペラの世界では悲劇ですが、実生活では悲劇にならないよう
に!!!」私も思い当たることがあり、センチメンタルになってしまったが、出席者
全員が気に入った思い出に残るゼミだった。
12月15日
マグニトゴルスク音楽院は今年で5周年を迎える。一応国立の音楽院で、ロシアの国立
大学では5年に1回「大学レベル審査」がある。モスクワから文化省のお偉いさん=審査
員達が来て、音楽院の学生は専門・室内楽・カルテットの前期試験を審査員の前で受け
なければならなかった。これは皆にとってとても大きなストレスで、音楽院中がピリピ
リしていた。コンクール受賞者達は連夜行われた演奏会で順番に弾いていき、先生方も
弾いた。外国人の演奏会もあり、韓国人と私が出演した。私はこの1ヶ月ガラミアン音
階ばかり弾いていて、一回弾いたことのある「スペイン舞曲」と宮城道雄の「春の海」
を弾いた。演奏会のとりで、演奏し終わったら、審査員の先生が「よかった」と
言って、4階にある楽屋代わりの教室まで上がって来てくれた。とても嬉しかった。
12月16日
室内楽と弦楽四重奏の“アツェスターツィア”(レベル審査のこと)があった。人
数が多いという理由で、私の室内楽の審査はパスになったが、弦楽四重奏は弾くこと
になった。問題の第2ヴァイオリンの韓国人の女の子。音程を直しても直しても直ら
ない。一緒に練習しても、だめ。フーガも細かい音符が弾けない。指がまわらない。
もつれる。出る所の音が出ない…。メンバーの皆もピリピリしていた。プレッシャー
からか、韓国の女の子が熱を出してしまった。「弾きたくない」と言い出し、急遽
アーニャが、第2ヴァイオリンの代弾きで入ってくれた。4楽章のフーガがばっちり決
まって、「一番良い出来のカルテット」と褒められた。アーニャは多分ほとんど初見
で弾いたと思うが、韓国人の女の子と二人であんなに練習して練習したのは何だった
のか?と思ってしまった。来学期からカルテットのメンバーの組み合わせを変えても
らうと思った。
12月24日
オムスク出身の友達達と休暇を利用して汽車で一緒に帰省した。私は例のごとくス
ヴェタの所でお正月を迎える予定だった。4人でワイワイ言いながら、楽しく2日間の
汽車の旅をした。修学旅行のようだった。丁度クリスマスということで、私達は汽車
の中で.ビールを飲んで、線香花火をした。
12月30日
寒波が来て、とても寒い。ノボシビルスク音楽院に行って、教室を借りて、練習し
た。音楽院もとても寒く、手が凍えて弾けない。知り合いのドムラ奏者のアンドレイ
の所に行くと、彼らも寒くて練習が出来ないという。ロシアは寒い国だが、寒さを防
ぐ一番の良法はウォッカを飲むこと。アンドレイと友達のセルゲイは、ウォッカの瓶
とつまみでもうすでに一杯やっていた。そして、私も便乗した。ロシア語で“ジェー
ブシュカ”というと生娘のことをさす。大人の女は“ジェンシナ”。アンドレイは、
私の為に乾杯をあげたいらしく、まよった挙げ句一応二通りの言い方をした。アンド
レイは上機嫌で、私達はすぐ仲良くなった。彼はなかなかいい男だった。夏に一緒に
新潟からノボシビルスクに来た時、「彼女はいない」と言っていた。う〜ん、自分に
婚約者がいなければ、アタックしただろうな…。優しくて魅力的だから、惚れてしま
いそうだった。
12月31日
グボーズディフ先生の所に新年のプレゼントを持っていこうと思っていたが、あまり
にも寒いので外に出ることを思い止まった。今年の年末年始は寒い。私とスヴェタの
家族は、晩の10時ごろから御馳走の並んだ食卓につき、食事を始めた。12時まえにエ
リツィン大統領の演説がテレビで報道された。そして、エリツィンさんは「私は今日
で大統領を辞職する」と言った。「えっ!」年末のギリギリの所で大ニュース。
報道関係者はさぞ忙しい新年を迎えることだろう。大統領代行はプーチン氏になった。
そして、2000年コンピューター問題があったが、何事もなく年が明けた。本当
は31日のハバロフスクー新潟便を使って、日本に帰省しようと思ったのだが、コン
ピューター問題でややこしいから、なるべく飛行機は使わないほうがいいということ
になった。31日を逃すと、次は1月4日。新学期は10日からだから、1週間も日本にいれ
ないことになる。そんな訳でお正月に日本に帰るつもりだったが、結局帰らない
ことになった。
2000年1月1日
新年明けましておめでとうございます。新しい世紀、新しい大統領、新しい年の幕開
け。今年一年が良い年でありますように…。
1月5日
ブロン先生がノボシビルスク音楽院に来た。つい最近パガニーニの国際コンクールで
16歳にして1位を獲得した庄司紗矢香ちゃんと日本人とドイツ人のハーフでハンサム
なエリック・シューマンが先生について来た。紗矢香ちゃんはまだ幼さが残る笑顔の
とてもかわいい女の子で、とても上手だった。お母様は「紗矢香ちゃんは、すぐ弾け
るようにならないから…」と言いつつも、彼女は天才じゃないかと思った。音も綺麗
だし、洗練されている。更に彼女は読書家で、ホテルに用事で寄ったら、机の上にト
ルストイの「戦争と平和」が置かれてあった。16歳にして恐るべき少女。ヴァイオリ
ンを弾く為に生まれてきた人…。同じ楽器をやっている者として、一抹の敗北感さえ
感じられた。
1月7日
ブロン先生の演奏会があった。前半は、ブロン・エリック・紗矢香ちゃんのコンビで
バッハの3つのヴァイオリンの為のコンチェルト。後半は、ブロン先生がブラームス
のヴァイオリン協奏曲を弾いた。しばらく聞かないうちに(?)ブロン先生の演奏が
崩れてきたという印象を持った。先生自身、コンクールやレッスンで忙しく、自分で
練習する時間がなかなか取れないのだろう…。音程の悪い所が目立ち、ビブラートが
ロマンチックで、しっかり弾かなければならないブラームスにしてはあまりにも“甘
口”の演奏だった。先生は自分に酔って弾いている部分もあって、音楽的なのだが、
やりすぎのところもあると思った。
1月8日
演奏会があり、エリックがチャイコフスキーのコンチェルトを、紗矢香ちゃんがパガ
ニーニのコンチェルト1番をノボシビルスクフィルと共演した。本番中、二人ともす
ごいハプニングがあった。エリックは3楽章の最後で弓が壊れて、急遽コンサートマ
スターに弓を借りて、最後の2ページ分を弾き上げた。弾き終わった時、途中で思い
がけないことがあったけど、弾き切って、ほっとした表情が見られた。エリックはお
父さんがドイツ人、お母さんが日本人のハーフ。私達の会話は日本語だった。紗矢香
ちゃんもパガニーニで1楽章の途中、弓で指盤をたたいて、音程が狂ってしまい、止
まって、チューニングし直した。ソリストはとても上手なのに、オケが全然のってこ
なかった。2楽章の綺麗なメロディーも上手に弾き、最後の音は“心の中の叫び”の
ような震える音色で、劇的に仕上げた。彼女のテクニックは素晴らしく、3楽章はそ
の見せ所といった感じだった。日本人は“とばし”などの小手先が利く。左指の動き
の正確さ、速さは、天下一品だった。これからが楽しみだ。ブラボー!
1月9日
グボーズディフ先生の家に行った。先生にレッスンをしてもらった。シュラディック
と寺原伸夫のロマンス、ブラームスのスケルツィオを見てもらった。レッスンの後、
落ち込んだ。やはりグボーズディフ先生のレッスンはいい。今先生に習えないことが
とても悔しかった。他の先生に見てもらうくらいだったら、グボーズディフ先生に10
分でも20分でもいいから、レッスンをしてもらいたい。先生はどんなにしんどくて
も、レッスン中は嵐のような要求を投げかけてくる。しかもそれは的を得ている。先
生の自宅から音楽院に戻って、レッスン中に言われた注意を一つ残さず書き留めた。
1月10日
ロシア人は“いい加減な”民族である。ブロン先生もたまにいい加減。ノボシビルス
クに来るまで、紗矢香ちゃんに今日の演奏会のことを言っていなかったようだ。ロシ
ア人の感覚では、「ええ?」ぐらい。日本人の感覚では「ええーーーーー!!!」庄
司さんは「年末に誰かからファックスで楽譜が送られて来て…」と言っていたが、こ
れは「横浜のセミナーの時、渡し忘れたこの日の演奏会の楽譜をドイツから送った」
ブロン先生の仕業だった。「いつ弾くのか、何も言われていなかった…」と心配する
お母様。結局、紗矢香ちゃんは速攻で練習して、ソロの曲も紗矢香ちゃん曰く「古い
の(レパートリー)を引っ張り出して」きて、チゴイネルワイゼンを弾いた。ノボシ
ビルスクの観衆は彼女を“パガニーニスカヤ ジェーバチカ”(パガニーニの女の
子)と称し、愛し、拍手が鳴り止まなかった。後半ではブロン先生がイリーナさんと
小品を何曲か弾いた。ヴィエニャフスキーのオリジナルテーマのバリエーションがと
ても良かった。おそらくどこかで録音してきたのだろう。音程も定まっているし、音
楽も素晴らしかった。私はこの日の23時30分、一人でマグニトゴルスクに発った。道
中、連日の演奏会の感動が私の胸を満たしていた。
1月12日
マグニトゴルスクに着いて、404号室でヴァイオリンの練習をしていたら、オリガさ
んが「誰が弾いているの?」と覗いた。「こんなに上手に練習する人がマグニトゴル
スクにいたっけ?と思ったら直子だった」と言われた。彼女たちもお正月の間ノボシ
ビルスクに帰って、私より一足早くマグニトゴルスクに来ていた。私は今月末にある
専門の試験で弾くバッハのシチリアーナ・プレストを練習していた。ブロン+紗矢香
パワーの影響で、私の演奏はいつもより上手に聞こえたようだ。
1月16日
早朝、マグニトゴルスクからモスクワへ発った。12月末に日本に帰る積もりでいたか
ら、半年分のお金しか持って来ておらず、モスクワ留学中の安見ちゃんが母からの小
包(お金入り)を持って来てくれた。それを受け取りに行くのが目的だった。赤の広
場で1年ぶりに再会し、町を散歩した。私は少しでもいい音楽を聴いていこうと情報
を集め、早速、第10回チャイコフスキーコンクールヴァイオリンの1位、アナスター
シヤ・チェボタリョーヴァの演奏会=大学院の試験を聞きに行った。とてもきれいな
人で、色気たっぷりで、情熱的に弾く人だなぁと思った。前半は、シュトラウスのソ
ナタホ短調、ヴィニャフスキーの華麗なるポロネーズ1番、後半は、パガニーニのソ
ナタハ長調・イ短調、カプリースbPと24、“悪魔の笑い”、カンタービレ、サラ
サーテのファンタジー“カルメン”を演奏した。多分、優で合格しただろう…。のけ
ぞりかえって弾く格好が少し品が無いと思ったが、本当に上手だった。
1月19日
安見ちゃんとビクトル・ピカイゼンの演奏会に行った。チャイコフスキーホールで、
モスクワ国立アカデミーフィルハーモニーと共演で、モーツァルトのヴァイオリン協
奏曲第3番、ベートーヴェンのピアノとヴァイオリンとチェロの為の協奏曲、ベートー
ベンのヴァイオリン協奏曲が演奏された。音程も確かだし、ロシア奏法の良い手本を
間近で見て、この先生に習ってみたいなぁという気持ちが湧いてきた。一回でもレッ
スンを受けてみたい、と思ったが、演奏会の後、バラの花と一緒にメモを書いて、渡
したが、この突発的な願望は実らなかった。アタックの仕方も大事…。メモなんかで
はなくて、直接聞いた方が良かった。次からはそうしよう…。
1月20日
マグニトゴルスクへ飛行機で帰ってきた。モスクワから帰って来て、少しお金の余裕
が出て来て、ほっとした。
2月10日
イライラしていて、練習中に、誤まってヴァイオリンを落としてしまった。402号室
の狭い教室で、私の不幸な“ヴァイオリンちゃん”は腕から滑り落ち、側にあった机
の角で胴体を打ち、床に落ちた。あっという間のことで、しばらく何がなんだかよく
分からなかった。ヴァイオリンは肩当ての所の木が壊れ、悲惨な姿になってしまっ
た。ぼこっと側面の所に大きな穴が空いただけで、不幸中の幸いだったが、マグニト
ゴルスクでは直せる修理工技師がいないので、ノボシビルスクまで持っていくことに
なった。心が痛くて、泣いた。ヴァイオリンも痛いだろうと思ったら、また涙の粒が
ポロポロこぼれてきた。その日の夜行でノボシビルスクに発った。汽車の中でずっと
泣いていた。
2月12日
ノボシビルスクに着いた。アンドレイが鉄道駅まで迎えに来てくれて、寮の修理工技
師の所まで送ってくれた。楽器を預け、1ヶ月後に取りに来ることになった。韓国人
のサユナ家族の所にも立ち寄った。ヨーナちゃんが風邪をひいて、具合が悪そうで、
ベッドの上でゴロゴロしていた。ぐずぐず言って、何だか様子が変だった。ヨーナと
会うのはこれが最後になってしまうなんて思ってもみなかった。(彼女は2週間後に
モスクワで息を引き取った…)本当に性格のいい子だったので、残念だった。二桁も
生きられなかった…。短い人生だったけど、彼女はたくさんの人の心に温かい光を残
した。あぁー。元気がない。落ち込んだ。晩はスヴェタの実家に1泊した。
2月13日
グボーズディフ先生の家に行った。先生はレッスンをしてくれた。ヴァイオリンが無
かったのだが、知り合いが予備楽器を貸してくれた。久しぶりのレッスンで、私は子
供のようにはしゃいで喜んだ。バッハのソロソナタbPのアダージョとフーガを弾い
た。まだ全然聞いてもらう段階ではなかったのだが、先生は細かく的確に稽古をして
くれた。とても印象に残るレッスンだった。先生のような綿密なレッスンが1週間の
うち2回あるだけでも違うのに…と思うと、自分の現状が悲しくなった。せっかくロ
シアに来ているのに、本命の先生に習えないなんて。今年はマグニトゴルスク音楽院
で飛び級がかかっているから、そこからどうしても動けないけど、この一年が終わっ
たら、環境を少し変えたいと思った。その日の晩、汽車でマグニトゴルスクに帰っ
た。
2月29日
札幌で知り合って、今まで(約3年)付き合ってきた彼と別れた。彼とは去年の夏に
軽井沢の教会で婚約していた。日本でも私達は遠距離だったが、留学で日本を発つ
時、いつも新潟空港で見送ってくれて、2年間ずっと私を待っていてくれていた。留
学期間中も1年目は寮住まいで、私の方に電話という手段がなく、文通だった(100通
は越えていた)。2年目からはいつも1週間に1回必ず電話をくれて、私達はまめに文
通を続けていた。別れた原因は私にあった。ノボシビルスクにいる間に、アンドレイ
のことが好きになってしまったからだった。アンドレイは才能のある音楽家で、音楽
院でドムラを教えていた。練習熱心で、いろいろ音楽のことでアドバイスをしてくれ
て、すっかり虜になってしまった。同じ音楽を目指す先を行く先輩という憧れみたい
なものもあった。モスクワに行った時、日本人の友達に相談した。アンドレイと日本
に残してきた彼と二股と言うのは嫌だし、自分の気持ちに自信が持てなくなってき
た。考えた末に、私は「好きな人ができた」と彼に言った。しばらく沈黙があって、
「じゃあ、別れようか」ということになった。彼とのことで学んだことは、“遠距離
恋愛は難しい”ことだった。しかも、私達は“超”遠距離で、会えるのは夏休みの
み。日本でも千葉―大阪の遠距離。1年に数回会えればいいほう。七夕様のようだっ
た。彼が私の側にいて、一緒に暮していれば、こんなことは起きなかったかもしれな
い。アンドレイに会っても、「かっこいいなぁ〜」ぐらいの程度で、大丈夫だったは
ず。“側にいる”“側にいない”の差は大きかった。やはり側にいないとだめ…。そ
のことを痛感した。私は彼に対しひどいことをしてしまったし、悪かったと思ってい
る。
3月1日
マルク・ベルリャンチック教授の教育メソッドの授業が始まった。音楽教育と音楽教
育学の違いについての講義だった。音楽教育 は知識・能力・訓練のシステム、音楽
教育学は普通音楽教育発展の為の学問。面白い講義だった。
3月8日
国際女性デーで、休日だった。が、練習練習。家族や恋人がいたりすると、どこかに
遊びに行ったり、映画を見たり、ゆっくりするのに…。いないから、私は練習した。
チェロのレナータも私と同じで、楽器ばかり弾いている。彼女は「チェロは私の恋人
よ」といつも言っている。「私の恋人もヴァイオリン!」今日は、最高記録。11時間
練習した。レナータも私と同じ時刻に音楽院に来て、一緒に帰ったから、同じぐらい
練習している。ただ単に練習キチガイな二人(?)、でも私達はカルテットでも一緒
に演奏していて、とても仲が良かった。
3月14日
ノボシビルスクに楽器を取りに行った。汽車で二日かかった。修理代は80ドルだっ
た。ロシア人にしたら高いが、日本人にしたら安いかもしれない。綺麗に木を伸ばし
て、糊付けし、ニス塗りされていた。傷痕が痛々しいが、“大好きなヴァイオリン
ちゃん”が元気になって、私はとても嬉しかった。直ったヴァイオリンを持って、グ
ボーズディフ先生の所に行った。先生はレッスンをしてくれた。私がマグニトゴルス
クで先生に言われた事を守り、頑張っている姿を見て、「うれしい」と言って下さっ
た。手術があって、そのあと腎臓が止まったり、脳に異常が見られたり、先生自身も
自分の体のことで精一杯のようで、その上に弟子との関係による心労などがあったに
違いない。「健康をなくしてみてからはじめてその大切さが分かる」と先生は独り言
のように言った。早く元気になってもらいたい…。
3月18日
マグニトゴルスクに帰った。グラズノフ先生が風邪でダウンしていた。ノボシビルス
クでとった録音レッスンを聞きながら自主練をした。グラズノフ先生の教え方も悪く
はないが、音程や細かい所はあまり言わない。2日間汽車でヴァイオリンを弾かない
と、腕がなんとなく変。音階を2時間ぐらい弾いていると、だんだん元の感覚に戻っ
てきた。
3月21日
教育心理学の授業があった。「才能とは」というテーマの講義だった。ロシア人の音
楽評論家ヤボルスキーは、「動き・聴音・リズムは成分でしかない。才能とは努力し
てこの成分を文化的に発達させる可能性のこと」と述べたそうだ。「才能」と「天
才」とは違うのだ。「天才」とは持って生まれた素質のこと。稀にしかいない。先生
は、いろんな音楽家の名前を挙げたが、ロシアの場合、アシュケナージ、キーシンは
天才とみなしてもよいと断言していた。ここで、私の周りに天才はいないだろう。そ
して、私も天才ではない。
3月24日
専門の曲が仕上がったので、試験をしてもらった。モーツァルトのコンチェルト4番
とバッハのソロソナタ1番からアダージョとフーガを弾いた。試験官はトゥハン先生
とグラズノフ先生だった。トゥハン先生は「プロフェッショナルとしての右手の技術
が定着して、成長している」と褒めてくれた。飛び級のために2倍のプログラムの量
を弾きこなさなければならないが、とりあえず、今日の時点で、2年生の専門のノル
マは果たせた。後残った3ヶ月で、3年生に弾く1年分のプログラムを消化しなければ
ならなかった。
3月29日
マルク・ベルリャンチック教授の教育メソッドの授業があった。この日のテーマは
「芸術的教育とは」だった。ヴァイオリンを上手に弾く為に何が要求されるか?@聴
音 Aリズム B腕の状態を含むテクニック C音楽性 と分析された。ロシアヴァイオ
リン界の巨匠ダビッド・オイストラフ氏の習慣は、どこかに演奏旅行に行く時は、い
つもたくさんのカセットを持っていくことだったそうだ。なぜかというと、彼は毎日
知らない音楽を聴くことを習慣にしており、演奏旅行の日程分の聞いたことのない新
しい音楽の録音テープを携帯して、旅行先で聞かないと、落ち着かなかったそうだ。
ロシア語で授業を聞くのはすっかり慣れて、全然難しいとは思わないが、ノートを取
るのは未だに難しい。スペルミスが多い…。だから、いつも友達の横に座って、書き
写していた。同級生達は皆親切で、良く見えるようにノートを置いてくれたし、わか
らない単語は私のノートに書いてくれた。
4月2日
グラズノフ先生が音楽院の階段で転んで、足を骨折した。松葉杖をついていた。基本
的に安静にしていなければならないので、私達は先生の自宅にレッスンに通うことに
なった。ノボシビルスクでもマグニトゴルスクでも同じみたい…。
4月4日
教育心理学の授業があって、「感情・真似(模倣)」についての講義を聞いた。演奏
者の曲想における感情のコントロールと表現の関係や情熱について考察し、演奏解釈
の真似をすることのプラス点とマイナス点について意見を交換した。演奏上達のため
には、模倣が不可避的要素だが、ある一定の段階までいくと、それは消化され、独自
のものが出てくるはず。
4月5日
マルク・ベルリャンチック教授の教育メソッドの授業があった。テーマは「音楽家の
芸術的テクニックの基礎について」だった。テルマンは、「上手に弾く為には、上手
に歌わなければならない」、ロシア人の音楽評論家ヤボルスキーは、「楽譜に忠実に
弾くことを学ぶだけでなく、自分の言葉で語ることも学ばなければならない」、ロシ
アヴァイオリン奏法の創始アウアーは、「単一性は音楽の死を意味する」と言ったそ
うだ。演奏の際にとても大事なことは、“想像(ファンタジー)”と“創造(クリ
エーション)”。芸術面+音色面+総体的な面での想像が影響・作用する。頭と内面
が研ぎ澄まされていなければならないということだ…。
4月6日
グラズノフ先生のクラスの試験があった。私は、寺原伸夫のロマンスとブラームスの
スケルツォを弾いて、優をもらった。ピアノ伴奏は奥さんのガリーナ先生(私のピア
ノの先生)だが、音量だけあって、繊細さが無い。やかましい伴奏をするので、時々
耳をふさぎたくなる。スケルツォでもフォルテ3つというのはわかるが、音を出しす
ぎ。もっと響きを大事にしてほしいし、ヴァイオリンと一緒の所は、逆に私の邪魔に
なっていた。後でその事をグラズノフ先生に言ったら、気分を害してしまったが、先
生は基本的に優しい人で、いつも私を“将来の同僚”と呼んで、色々相談に乗ってく
れていた。
4月11日
教育心理学の授業があった。テーマは「Person(ロシア語では“リッチナスチ”)」
だった。「Person」は1)能力 2)熱情 3)性格 4)意志 5)方向性 6)感情 という
人間の質の総体を表す。高校の時、良く出てきた「アイデンティティー」とは少し異
なる。この“リッチナスチ”は今後も良く出てきた。“リッチナスチ”がある、と
か、ないとか…。個性という言葉に置き換えることもできる。要するに、全面的な人
間の内面成長と関わること、なのだ。
4月12日
マルク・ベルリャンチック教授の教育メソッドの授業があった。テーマは「演奏上の
テクニックと芸術の形」だった。なぜか3人しか出席していなかった。先生は「音程
を正しくとる為に何をしなければならないか?」という質問を投げかけた。私が「何
の音を弾くか知らなければならない」と答えると、「御名答!」と褒められた。どん
な細かい所でも、音を言いながら弾くこと。細かい音もごまかさない。芸術的テク
ニックを伸ばすことは破りがたい目標である。
4月13日
音楽史のビクタリン(イントロクイズ小テスト)は相変わらず定期的に続いていた。
2年生の方は、ロシア初期のポリフォニー、合唱曲(ボルトニャンスキーなど)、受
難曲(バッハ)、メサ(ベートーヴェン)など。3年生の方は管弦楽の得意分野で楽
勝。ドビュッシー「夜想曲」「牧神の午後への前奏曲」、リヒャルト・シュトラウス
「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」、マーラー「交響曲第1番」、
オネゲル「交響曲第3番《典礼ふう》」、ガーシュイン「ラプソディー・イン・ブ
ルー」など。私はいつも満点で、一番良く音楽を知っているから3年生の後期試験は
試験を受けなくてもいいと言われて、誰よりも早く単位をもらった。イェーイ!
4月15日
室内楽の試験があった。ベートーヴェンのスプリングソナタ(5番)を弾いた。ラッ
チェンカ先生の教室で行われたが、レナータが聞きに来てくれた。3楽章まで緊張感
が保てたが、4楽章に入ってピアニストの人が間違えたのが引き金になり、つられて
ぼろぼろミスった。だが、後で録音を聞いたら、そんなにたいしたことはなく、気に
することのほどでもなかった。ベートーヴェンの形と音色を大切にしながら、春らし
く、すがすがしく弾いたつもり。優(5)をもらった。新しい課題でハイドンのトリ
オを与えられた。
4月19日
教育心理学の授業があった。テーマは「思考」だった。1)理解領域での思考 2)表
像領域での思考 3)視覚運動領域での思考 の3つに分析された。この思考の深さを測
るのが、IQ(1〜200)で、普通の人は100土20だそうだ。う〜ん、私のIQはいくらな
のだろう。講義の中で「教育者(先生)は医者で、生徒は患者。レッスンは、思考の
一治療で、内容・目的・方法がないとだめ」ということを言っていた。面白い講義
だった。
5月7日
オーケストラの演奏会があった。チャイコフスキーの「1812年」とボロディンの「中
央アジアの平原にて」などを演奏した。オーケストラの練習は嫌だけど、演奏会の後
にいつも100ルーブルもらえるのが嬉しくて、そのためにいつも頑張っていた。
(“単純な直子”の巻)
5月10日
教育心理学の授業があった。「テキストの行間を読む」というテーマだった。演奏者
の課題は与えられた楽譜=テキストをどれだけ真実に近いものに創造できるか、とい
うことだ。これは詩歌・文学の世界でも共通して言えることで、演奏者のテキストの
理解度は、演奏の内容の深さに比例する。テキストの研究は大事なこと。
5月15日〜22日
体調がおかしい。頭が痛い。熱を測ったら、熱があった。流行の風邪をひいてしまっ
たようだ。病状はどんどん悪化し、40度の熱が1週間続いた。死ぬんじゃないかと
思った。去年から飛び級をしようを思って、2倍のノルマを要領よくこなしてきたつ
もりだが、どこかで無理が生じて、それが体に出たようだ。すっかり弱気になってし
まって、「試験が受けられなくなるぅーーーー!せっかくここまできたのに!」と
言って、ベッドの中で泣いた。下宿先のおばさんが看病してくれたが、高熱がおさま
らず、寝汗をかく度に着替えて、着替えも追いつかないほどだった。救急病院のお医
者さんを呼んでもらった。このまま救急車で天国まで連れていってほしいと思ったほ
ど、苦しかった。財産はないが、遺言状を用意した方がいいかもしれないとも思っ
た。抗生物質と大量の薬で熱を押さえた。入院はしなかった。このダウンは、あとの
試験期間にまで尾をひくだろうと思われた。グラズノフ先生もお見舞いの電話をくれ
たが、電話の場所まで行くのさえも、しんどかった。レナータやターニャが心配し
て、音楽院の帰りに牛乳や果物を持って寄ってくれた。友達は本当に有り難いもの。
大阪の母まで「あんたが夢枕に立ったんよ。何かあったんじゃないかと思って…」と
心配して電話をかけてきた。皆の介護と心配の御陰でなんとか回復した。
よかった、死ななくて。
5月22日
結局、熱で1週間丸々潰れてしまった。試験を控えた私にとって、これはとても痛
かった。しかし、熱がある時は、絶対ヴァイオリンを弾いてはいけない。関節を痛め
るからだ。仕方ないか…。
5月24日
マルク・ベルリャンチック教授の教育メソッドの授業があった。テーマは「現代音楽
教育システム」だった。20世紀の音楽教育事情やロシアのカバレフスキーの教育メ
ソッド、日本の鈴木メソッドのヴァイオリン教育にも触れた。私は、課題として与え
られていたカバレフスキーの『知恵と心の教育』を読んで、レポートを書いて、提出
した。単位獲得。
5月25日
レナータはサンクト・ペテルブルグ音楽院の編入試験を受けるため、私達はカルテッ
トの試験を予定より早く受けた。ドボルザークの弦楽四重奏曲“アメリカ”を演奏し
た。私は1stヴァイオリンで責任があったが、病み上がりで、頭がボーッとしてい
て、最高の出来には持っていけなかった。2ndヴァイオリンのターニャはノボシビル
スク音楽院を卒業した同じグボーズディフ門下生だった。彼女はマグニトゴルスクで
生まれ、ノボシビルスクで勉強して、旦那と一緒にまた故郷に戻って来て、劇場で
ヴァイオリンを弾いていた。前回、韓国人の女の子と大変だったから、ターニャに頼
んで、トラで弾いてもらった。同じ門下生同士で弾くと、スピッカートやデタッシェ
が見事に決まる。音色の出し方やフレーズの受け渡しなどいつもうまくいき、私達は
お互いに満足していた。試験官だったラッチェンカ先生は不満足で、「直子はもっと
繊細に弾けるはずなのに…」と言って叱られた。でも、とりあえず単位はもらった。
(“病み上がりは辛い”の巻)
5月30日
ピアノの試験があった。ラヴェルの「前奏曲」とドビュッシーの「亜麻色の髪の乙
女」とリストの「コンソレーション」を弾いた。最後の最後まで音が覚えられなく
て、はずしたりしていた。ガリーナ先生もそれにはイライラしていた。リストで少し
音をはずしてしまったが、他の曲はきちんと弾けた。
5月31日
音楽史の試験があった。音楽史の前の晩は毎回徹夜だが、体調も絶好調ではないの
で、何もせずに寝た。ゼミで発表して、出席点も稼いでいるし、出たとこ勝負でいこ
うと思った。ビレット(試験問題カード)を選んで、「バッハのマタイ受難曲」があ
たった。口頭試問だったから、知っている事は全部言った。先生は私が答えた内容よ
り、「直子は来年からノボシビルスクに行ってしまうの?」「日本にはいつ帰る
の?」「帰ったらどうするの?」「日本の音楽学校で音楽の歴史を教えたらいくらも
らえる?」と言った質問を浴びせてきて、おしゃべりに変わってしまった。親切に答
えたら、単位をくれた。
6月6日
ターニャの誕生日だった。下宿先のおじいさんがよくウォッカを飲んで、泥酔する。
おばさんに「私も今日泥酔してくる」と言ったら、びっくりされた。毎日毎日練習+
試験でたまには生き抜きが必要。理解のあるおばさんは「気晴らししていらっしゃ
い!」と言って送り出してくれた。去年とは違って、今年は仲の良い5人でのお誕生
日会。料理も込んでいて、美味しかった。ターニャの所に泊まった。
6月8日
来年からノボシビルスク音楽院に編入する事になった。それで、荷造りをし始めた。
今日は、母の誕生日だったので、郵便局までファックスを送りに行った。
6月16日
最後の専門の試験があった。バッハのパルティータ1番のTempo di Bourree & Double
とドボルザークのヴァイオリン協奏曲とチャイコフスキーの「メロディー」、そして
ヴィエニャフスキーの「モスクワの思い出」を弾いた。私がマグニトゴルスクで受け
る最後の試験という事を皆知っていたので、すごく大勢の人が聞きに来てくれた。
「モスクワの思い出」の赤いサラファンのテーマは、私を愛して、支えてくれたマグ
ニトゴルスクの皆に捧げるつもりで歌った。最後はバテて、はずしたりしてしまった
が、優(5)の成績で3年目の専門の試験に合格した。これで2,3年の試験全部に合格
した事になる。“飛び級”ができる。よかったぁ〜。試験の後、いつもつるんで仲良
くしていたナターシャが楽屋代わりにしていた教室まで来てくれて、「赤いサラファ
ンのメロディー、よかった。泣いてしまったよー」とお祝い&お別れのキスをしてく
れた。いい人達に囲まれていたので、ここを去ることがとても悲しいと思った。
6月19日
グラズノフ先生の最後のレッスンがあった。音楽院の大ホールが空いていたので、
レッスンは大ホールで行われた。ガリーナ先生も駆けつけて来て、いつものように伴
奏をしてくれた。ノボシビルスク音楽院に編入の際に、試験があるかもしれないとい
うことで、モーツァルトの協奏曲4番の1楽章を復習した。ロシアの場合、コネ・縁は
必須。ノボシビルスク音楽院に編入することを指導教官のグボーズディフ先生が承認
し、先生が弦楽楽器講座の教授会で私の事を推薦し、請願書を書けば、自動的に試験
は免除される。9割は試験免除の可能性があったが、それでも「もしかしたら
(!)」ということで練習はしていた。レッスン中、グラズノフ先生は何も言わずに
私の演奏を聞いていた。というより、何も言えなかったようだ。半年の短い間だが、
グラズノフ先生は私を丸ごと受け入れてくれて、本気でぶつかって来てくれた。他の
クラスから移行してきた私を“将来の同僚”、と対等に扱ってくれ、“弟子は皆自分
の子供”と私達弟子全員を愛し、とても魅力的な先生だった。ノボシビルスク帰りを
決心する際も、「私は弟子のことを自分の子供のように思っているから、私も半分親
のつもりで言わせてもらうが…」と色々アドバイスをしてくれた。外国では挨拶がわ
りにキスをする。別れる時は、右頬、左頬、右頬に3回キスをする。「これからも頑
張って、本物のヴァイオリニストに成長するように…」とグラズノフ先生は別れのキ
スをしてくれた。先生はすぐ去っていってしまったが、その場に残された私は胸が一
杯で涙が止まらなかった。
6月20日
ノボシビルスク音楽院から編入のための書類を受け取ってから、マグニトゴルスクを
発った。マグニトゴルスクのオビールでのレギストレーション(外国人登録)と仮住
民登録も除外された。山ほどの荷物を抱えて、汽車でノボシビルスクに発った。マグ
ニトゴルスクを発つ時、雨が降った。見送ってくれた友達が「町が悲しんでいるんだ
よ…」と言ってくれたのが、とても印象的だった。汽車が動き始めて、私は泣いた。
この2年間のマグニトゴルスク生活、1年目は先生達と一緒でよかったが、2年目から
先生が病気でノボシビルスクに戻り、私とオリガさん家族だけが残った。一人ぼっち
で、寂しかったし、学業の方も大変だった。5月の半ばにダウンして、もう駄目かと
思った。そんな大変な私をいつも励まし支えてくれたのが、マグニトゴルスクの人々
だった。私は絶対彼らのことを忘れない。たくさんの出会いと喜びと苦しみと悲しみ
と別れがあった。別れはいつでも悲しいが、これも仕方のないこと…。私は2年間の
マグニトゴルスク生活にピリオドを打った。
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【3年目のまとめ】
飛び級に必要な単位が全部取れた。初めの半年は落ち着いて生活をしていたが、後半
はノボシビルスクやモスクワに行ったりして、移動が多かった。プライベート面でも
変化があった。精神的にはかなり不安定だった。しかし、どうしようもない気持ちと
限りない自由な時間をヴァイオリンに注ぎ込んだ。ヴァイオリンはグラズノフ先生が
与えてくれたガラミアンの音階を毎日根気よく2時間強弾いて、レベルアップした。
たくさんの曲を弾きこなし、グボーズディフ先生もびっくりしていた。音楽史や他の
授業やレポートなどのノルマもあり、遊んでいる暇が全然なかった。が、それがか
えってよかったかもしれない。寮から音楽院の近くの下宿に移り、部屋には寝に帰る
だけだった。ノボシビルスクでも音楽院の近くで部屋を借りれればいいなぁと思って
いた。
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