ロシア留学日記

ロシア国立グリンカ音楽院を卒業した日本人留学生の記録。


1年目(1997年8月〜) 2年目(1998年8月〜) 3年目(1999年8月〜) 4年目(2000年7月〜) 5年目(2001年9月〜)

2年目(1998年8月〜1999年7月)

青天の霹靂とはまさにこのこと。“子供の日”にシベリア北海道センターで「春の 海」を一緒に演奏したバグダーノフ氏が、8月12日の夜中に大阪の実家に電話をくれ た。「グボーズディフ先生は来学期の9月からどこかへ行くので、ノボシビルスクの 音楽院では教鞭を執らない、ということを知っているか?」ということだった。もち ろん、知らなかった。「え〜、どういうことだろう?」一晩眠れない夜を過ごした。 だが、気を取り直し、門下生のアーニャのママに電話をかけて、詳しいことを聞いて みた。先生がノボシビルスクを去ることは本当のことだった。「私達弟子は?」と聞 くと、「先生は、今の所、サーシャとアーニャとヴラジックの3人だけ連れて行く」 という答えが返ってきた。ウラル地方の小都市マグニトゴルスクに移ることにしたら しい。「マグニトゴルスク?!」聞いたこともない地名だった。6月最後のレッスン の時は何もそんなこと言ってなかったのに…。先生に直接電話をかけて、一か八か頼 んでみた。「もしマグニトゴルスクで勉強できる場所があるなら、私も連れていって 下さい!」先生は一つ返事でOKしてくれた。一方、両親は、私がロシアで知らない 所に移動すると言うのでかなり心配し、私達はあらゆる手を尽くして“マグニトゴル スク”の情報を集めてみたが、ほとんどゼロに近かった。ノボシビルスク音楽院に 残って、違う先生につく選択肢もあったが、グボーズディフ先生以外の先生なら留学 する意味がないような気がして、それだったら留学そのものを辞めてしまおうか、と も思った。しかし、“漕ぎ出した船”。マグニトゴルスク音楽院から招待状を取り寄 せ、ビザを申請し、出発の準備をした。

8月31日

始めは自分でお金を貯めて留学したい、と意地を張っていたが、結局、現実的には無 理で、親に甘えることになって、情けない気持ちがあった。もし私が親だったら、「大 学に行かせたし、もう十分だから社会に出て働きなさい」と言ったにちがいない。私 はバカで、そんな余計なことを口走るから、いつも母親と口喧嘩になっていた。「留 学させて下さい」と頭を下げて頼んだら、父親はお金を出してくれた。私が留学した いと言い出したが故に、両親の未来の予定も少し変わったようだ。試練は乗り越える もの。5年経てば、自分が確立されて、ロシア語もヴァイオリンもしっかり実力がつ くだろうと思った。“音楽院を卒業すること”は私の目標だった。だが、その道のり は、とてもとても長かった。朝、父が大阪空港まで見送ってくれた。新潟空港では、 当時付き合っていた彼氏が出迎えて、見送ってくれた。私の短くなった髪を見て、彼 はショックを受けていた。髪を短く切ったのは、ノボシビルスクからマグニトゴルス クまでシベリア鉄道を使っていく方法しかなく、心配した母が「髪を短く切って、男 の子のような格好で行きなさい!!!」と言って、それをマグニトゴルスク行きの条 件にしてしまったからだ。そして、無事にハバロフスクで乗り継ぎ、その日の深夜に ノボシビルスクに着いた。

9月3日

ラリーサママに付き添ってもらって、鉄道のチケット売り場でマグニトゴルスクま での切符を買った。始めてなので、クペーという一等のワゴンの場所を取った。汽車 一本では行けず、チェリャービンスクという駅で、乗り継ぎが必要だった。荷物を全 部まとめ、2日分の食料を買い込んで、一路マグニトゴルスクへ出発した。駅まで、 ワーニャとカーチャが送ってくれた。

9月5日

丸々2日かかって、目的地にたどり着いた。アーニャのお母さん、オリガさんが駅 まで音楽院のミニバスで迎えに来てくれた。ひとまず寮に入寮した。朝食の後、音楽 院に行って、グボーズディフ先生に会った。先生は、静かに微笑んで、「マグニトゴ ルスクに遠路はるばるようこそ」と言って迎えてくれた。ヤクーポフ学長に会って、 マグニトゴルスク音楽院入学の手続きをした。授業料は1600ドル(1年間)で契約し た。マグニトゴルスクは田舎町で、人々は非常に素朴で、私達の到来をとてもとても 歓迎してくれた。

9月6日

初めてレッスンがあった。夏休み明けで、シュラディックの練習曲から始まった。そ して、何通りものボーイングのテクニックのトレーニングをした。

9月9日

マグニトゴルスクに来た門下生は、サーシャ、ウラジック、アーニャ、ジェーニャ 、フォーシャ、私の6人とその家族達だった。その後、続々とグボーズディフ先 生を追って、3人の韓国人留学生とパーシャがやって来た。今日は、門下生アーニャ の誕生日だった。ダンボールでまだ片付いていないオリガさんの部屋の台所で、アー ニャの誕生日パーティーが行われた。先生は音楽院からアパートを与えられていて、 寮には住んでいなかったのだが、奥さんと14歳になる息子ボーリャを連れて来た。先 生や門下生達とこんなに親しく一つのテーブルを囲んで、食事をしたのは初めてのこ とだった。とても思い出に残るパーティだった。

9月10日

ビザの到着地点に“マグニトゴルスク”と書かれていなかった為に、オビールで外 国人登録を受理してもらえなかった。外務省ビザ係で訂正してもらわなければならな いので、モスクワに行かなければならないことが判明した。それを知らされたのが、 午後3時すぎ。急遽、その日のうちにモスクワに飛ぶことになった。超特急で用意を し、6時のモスクワ行きの飛行機に乗った。不幸中の幸いは、マグニトゴルスクのよ うな田舎町でもモスクワーマグニトゴルスク間の飛行機が毎日1便あって、その出発 が夕方だったということだった。ブイコボ空港に到着して、とりあえず日本大使館文 化広報センター長の井出さんの所に駆け込んだ。ロシアに入国して、10日以上経って しまって、未だにレギストレーションできていないビザでホテルに泊まるのは危険な ので、事情を理解して下さった井出さんが快く自宅に泊めてくれることになった。5 月5日、子供の日の祝日にノボシビルスクのシベリア北海道センターで少しお話した だけで、見知らぬ私を助けて下さったご恩は一生忘れられない。

9月11日

朝からモスクワのオビールに行って、外務省に行って、ビザの“プンクト”(滞在 しても良い町)という欄に、マグニトゴルスクと付け加えられ、午後の4時過ぎにビ ザの問題が解決した。すごく疲れた。夕方7時から、モスクワ新劇場で團伊玖磨のオ ペラ「夕鶴」の初演があって、井出さんのお嬢さんが子役ででるので、観に行った。 ソリストと出演者は日本人、オケはロシアのオケだった。会場にはダンディーな團伊 玖磨さんが、緊張した面持ちで座っていた。團先生を見たのは、これが最初であり、 最後であった。

9月12日

モスクワでの用事を終え、一路マグニトゴルスクへ。出だしが遅れてしまって、練 習しなければという焦りが積もる。帰りの飛行機に無事に乗れたが、間一髪のドタバ タ劇だった。ブイコボ空港とブヌ−コボ空港を聞き間違え、道を間違えUターンして はいけない所でUターンしたのをガイ(ロシア交通警察)に見つかり咎められ、空港 のカウンターでは搭乗手続きが終わってしまっていたのに切符すら買っていなくて …。送って下さった井出さんをヒヤヒヤさせてしまったが、無事に(意地で)飛行機に 乗って、マグニトゴルスクに帰ってきた。

9月13日

25歳の誕生日。朝から市場に行って、買い出し。カレー・海草サラダ・夏野菜サラ ダ・ケーキを作って、グボーズディフ門下の仲間達に御馳走した。日本の食卓では普 通の料理なのだが、ロシアの人にとってはエキゾチック。皆、喜んで食べてくれた。 ビザの問題も片付いたし、明日から、本格的に練習するぞ!!!

9月16日

1日おきにレッスンがあった。シュラデックとチャイコフスキーの瞑想曲を練習して いた。オーケストラの授業や他の科目の授業にも通うようになった。門下生は皆、寮 に住んでいたので、皆とすぐに仲良くなれ、いろいろと助け合っていた。皆、それぞ れ部屋で練習している。隣人の練習の音が結構刺激になるのだが、皆上手だから、私 は、寮で練習するのに少し気が引けた…。初めての所で、慣れないせいか、寮に帰っ てくるといつもぐったりしていた。

9月20日

寮の部屋は日当たりも悪く、寒かったので、風邪をひいてしまった。オリガさん家族 と一緒に夕食を取るようになり、オリガさんの隣の部屋が空いていたので、近い方が 便利ということで、学長に許可を得て、部屋を移動した。新しい環境で、いろんな問 題があったが、レッスンだけはちゃんとあるので、練習するしかなかった。

9月26日

オリガさんは日本に何回も文化交流で行っている。日本のヴァイオリンメソッド鈴木 のことも良く知っており、故鈴木慎一氏とも交流があった。鈴木氏が描いた絵がオリ ガさんの部屋に飾ってある。10月16日に鈴木氏の生誕100周年を迎えるから、コン サートを催すことになった。私は日本代表ということで、例のベラッチー二のソナタ を弾くことになった。

9月30日

オリガさんの息子ワーニャ(9歳)と市場に買い出しに行った時、生後3ヶ月ぐらいの 小さな犬が捨てられていて、かわいそうだから拾って帰ってきた。黒色の雑種で、す ぐ洗って、餌をやった。オリガさんとアーニャはびっくり!基本的には寮で動物を 飼ってはいけない。どこで飼うのか等、問題が一杯あったが、いったん拾って帰って しまったもの、市場に戻って、置いてくる訳にはいかないから、とりあえず私の部屋 で飼うことにした。最初、オイストラフという名前を付けたが、奥さんからそれを聞 いたグボーズディフ先生が猛反対し、“オーリ”という名前に変えた。

10月10日

コンサートに向けて練習を積んでいたが、私達には問題があった。良い伴奏者がいな いことだった。楽器の演奏の際には、必ずといっていいほど、ピアノ伴奏がつく。ノ ボシビルスクにいた時は、グボーズディフ先生のクラスには2人のピアノの伴奏者がい た。マグニトゴルスクに来てから、プリホーチコという音楽院を卒業したばかりのピ アニストが私達のクラスの伴奏者に割り当てられた。彼は、本当に下手で、練習をし ていないのか、間違った音をいつも平気で鳴らしていた。いつになったらきちんと弾 くようになるのかと、私も毎日毎日イライラしていた。ベラッチーニなんてとても簡 単な伴奏なのに、変な和音をとったり、リズムが正確でなかったりで、曲想がとても 奇妙で、グボーズディフ先生も呆れ返っていた。演奏会まで、後一週間なのに、一体 どうなるのだろう…。

10月16日

6時から講義と演奏会があった。前半はオリガさんの“鈴木メソッドの講義”。休憩 を挟んで、演奏会が始まった。私は一番手で出演した。例の下手なピアニスト、前奏 は何とかこなしたが、私の出だしの前の3つの和音をめちゃめちゃな音程で、はずし た(!!)情けない伴奏だったが、私は気にせず歌った。緊張したけど、楽しかっ た。もう二度とプリホーチコとは弾くまいと思った。

10月17日

とりあえず初めてのマグニトゴルスクデビューを終え、先生に次の演奏会は12月末 と言われた。早速、曲目選びと、札幌で毎年行われているPMF(パシフィックミュー ジックフェルティバル)に応募してみようと思っていたので、プログラムの調整をし た。毎学期こちらの試験ではバッハのソロソナタ&パルティータが必須である。バッ ハはパルティータの2番のアレマンドとクーラント、オーケストラスタディの課 題、そして、演奏会及びテープ録音まで少ししか時間が残っていなかったので、もう 一度、入試で弾いたサン=サーンスのコンチェルトを復習するように言われた。実 は、先生はとても慎重な人で、危険をあえて避ける。私は以前弾いたことのあるモー ツァルトのヴァイオリンコンチェルトを弾きたかったのだが、「まだ腕や奏法に少し 問題が残っているから」と言われ、一回弾いたサン=サーンスの方を繰り返すこと なった。ブロン先生は、この点、逆。どんどん新しい曲を与えていって、力のある子 供はそれをこなして、跳躍していく。グボーズディフ先生は、“確実に着実に”とい う感じで、それはそれでいいのだが、その為、レパートリーの量も少なくなるし、あ る意味ではマイナスである。

11月4日

オーケストラの演奏会があった。地元のピアニスト・ガリツキーさんがモーツァルト のピアノ協奏曲を2曲弾いた。演奏会は、音楽院の大ホールと劇場で、2回行われた。 マグニトゴルスク音楽院では、オーケストラで弾くと、少しだがお金がもらえる。奨 励金と称して、私も100ルーブルもらった。この制度はとても嬉しかった。

11月6日

グボーズディフ先生のクラスの演奏会があった。私は、サン=サーンスが間に合わ なかったので、今回は見送った。一回覚えて、4月に弾いたのに、すっかり忘れてし まっていて、もう一度振り出しの状態だった。情けないが、練習の仕方や覚え方が悪 かったのだろう。要領よく覚えて弾くということと、それを何年も保つ、ということ は、どうやら全く違うことのようだ。マグニトゴルスクは創立4年目の出来立ての音 楽院で、工業都市だったので、吹奏楽はとりあえず伝統があるが、弦楽器学部はお粗 末なもの。そんな所に、グボーズディフ門下一同がぞろぞろ出て来て、しっかり弾く で、皆舌を巻いて聞いていた。

11月14日

グボーズディフ先生の誕生日だった。音楽院の213号室で、8時30分から私のレッス ンがあったが、弟子達がほとんど皆集まり、ぞろぞろ部屋へ進入。皆で“ハッピー バースディー”の歌をヴァイオリンで重奏し、プレゼントを渡した。私とオリガさん 家族は、夕焼け空がバックのオビ川(ノボシビルスク)にかかる橋の写真を額縁に入 れ、プレゼントした。読書家のジェーニャはカミューの本を、フォーシャはいろんな 巨匠の演奏録音カセットを、ヴラジックのママはチョコレートを。後から、新しい伴 奏者や先生の同僚がまたプレゼントを持って来て、私達は「先生、どうやって持って 帰るのかなぁ〜」とちょっと心配した。

11月16日

オリガさんがモスクワに行って、モスクワ心理学研究所で、脳波を測る機械を購入し てきた。これは、オリガさんが従事している研究(脳のこと)に、学長のヤクーポフ 氏が興味を持ち、マグニトゴルスク音楽院で、それを使って、子供の早期能力開発セ ンターを開設しようという試みだった。早速、実験的に皆の脳波を記録して分析する 作業が始まった。私も面白そうだったので、脳波の記録を取ってもらった。私にとっ てリラックスするということは、とても難しいことだった。なかなか良いα波が現わ れず、少し神経質だった。自分をコントロールする=呼吸を整える=力を抜く。この状 態以外では、ヴァイオリンはうまく弾けない、と言われた。

12月1日

12月が始まった。オリガさんは国際交流のいろんな関係で、アメリカ・ヨーロッパ・ 日本などに行ったことがあり、彼女自身も異国の文化を良く知っている。9歳の息子 ワーニャがいて、12月のチョコレートカレンダーを買って(1日1日開けて中にお菓子 が入っているカレンダー)、晩御飯の後、ロウソクに灯を灯して、今日一日あったこ とを順番に話していき、最後にカレンダーの日にちの所を開け、おやつを食べた。こ れはカトリックの家庭の習慣で、子供の情緒教育にはとてもいい効果があるらしい。 ロウソクの灯をじーっと見つめていると、神秘的な気分になって、心が落ち着く。し かし、そんな温かい家庭に身を置いていても、私の胸の中にある孤独や寂しさは消え なかった。

12月4日

とても寒い日だった。この事は親には内緒だったのだが、9月以来、私は市場で ワーニャと拾って来た犬と一緒に住んでいた。オーリは大きくなり、すくすくと育っ ていっていた。しかし、私が音楽院の学業で忙しい為、あまりかまってやれず、いつ も寂しがっていた。寂しいとオーリは壁紙をはがしたり、色々部屋の中で悪さをして いた。朝起きて、寮の周りを散歩、餌をやり、私は音楽院へ。音楽院から帰って来た ら、喜んでじゃれてくるオーリに首輪をかけて、散歩。餌をやり、私も食事をして、 一休み。その後、練習、という日課だった。二人で仲良く暮していたのだが、まだ1 歳にもならない小さい犬だから、言う事を聞かず、ぐずったり、散歩に連れて行けと 催促したり、部屋の中で便をしてしまったり…大変手がかかった。今夜2時ごろ、 オーリがぐずって、散歩に連れて行けと言うから、起きて連れていった。私はオーリ のせいで連夜寝不足…。市場で拾ったのはワーニャなのに、何で私がこんな嫌なしん どい目に合わなければならないのか…。私は、オリガさんの所で朝御飯と夜御飯を食 べることにしていたので(自炊するより共同でするほうがよかったから)、衛生上、 彼女の部屋で動物を飼いたくなかった。だから、「私の部屋で飼えばいいよ」と軽く 決めてしまったが、オーリのストレスは溜まるばかり。朝起きて、私はオーリを捨て たいと思った。気がついたら、動物病院&保健所に来ていた。動物の安楽死を受け付 けている小屋があった。可哀相だけど、こうするしか仕方がないと思った。入ると、 小屋の中は薄暗く、泥で汚れてやせ細った猫が2匹と汚い犬が1匹、悲しそうにもうす ぐ到来する避けられない死を待っていた。オーリはそこにいた動物達とは異なり、健 康で毛並みもきれいな犬だった。彼女はそこに入るやいなや尋常ではない状況を感じ 取り、哀願するような目で私を見た。「そこにおいて」と乱暴に警備のおじさんが 言った。「(安楽死させても)いいのか?」その時、ふと目が冷め、私は自分のエゴ に気づいて、オーリを連れて、寮にもどることにした。「私はなんてことをしようと していたのか…」その晩、ロウソクの灯を見ながら、このことを懺悔した。とても大 きな過ちを犯す所だった。オーリはベッドの下でスースー寝息を立てながら、寝てい た。よかった、捨てなくて。

12月6日

オーリに対する思いやりは芽生えたが、相変わらずオーリのせいで不眠症は直らな い。夜中に起こされ、外に行きたがる。レッスンでも寝不足でぼーっとしている。先 生に「どうなっているんだ?」と怒鳴られた。犬の事を話すと、「犬なんて飼うこと 事体、間違っていたのだ」と言われたが、捨てようとした話をすると、「捨てなくて 良かった」と言われた。子育てでノイローゼになる母親の気持ちが少しわかるような 気がした。

12月15日

ピアノの合わせも始まり、もうすぐある演奏会に向けて、練習中。今回は、バッハとサ ン=サーンスのコンチェルトで結構長い。ピアニストも10月の演奏会以来、一掃し て、3人の上手なピアニストがグボーズディフ先生のクラスに割り当てられた。私 は、若いウリヤーナというピアニストと一緒に弾いた。上手だが、情熱的に弾かない ので、ちょっと退屈かなぁ…という伴奏だったが、曲自体そんなに派手な曲ではない ので、“こんなもん”と割り切っていた。

12月17日

音楽史の授業で“ビクタリン”(日本語でいうとイントロクイズのようなもの)が あった。それはオペラを何個か指定されて、その中からアリアやロマンス、デュエッ ト、トリオ、コーラス等の1部分をレコードで流し、紙に「何のオペラの何幕の何と いう歌」と書かなければならない。このビクタリンは1ヶ月に1回のペースであり、 「セビリアの理髪師」(ロッシーニ)、「ローエングリン」「タンホイザー」(ワー グナー)、「魔弾の射手」(ウェーヴァー)、「トゥルバドゥール」「トラビアー タ」「リゴレット」「オテロ」(ヴェルディ)、「ファウスト」(グノー)、「カル メン」(ビゼー)、「パヤッツィ」(レオンカヴァロ)以上のオペラを今学期は勉強 した。初めてのビクタリンは落第点(2)だったが、今回は少しマシになって、可 (3)だった。音楽史の先生は「ロシア語で音楽史を勉強するのは大変難しい事で す。頑張って少しずつ良くなっているのがわかりますので、この調子で頑張りなさ い」と温かく見守ってくれていた。

12月25日

マグニトゴルスクで2回目のグボーズディフ門下の演奏会が開かれた。この演奏会 の為に舞台用のワンピースを仕立てた。アトリエで、500ルーブル強(約20ドル)。 とても安く出来て、満足。先生も「そんな綺麗なワンピースで弾くんだから上手にひ けるでしょう!」とお世辞を言ってくれた。私は、大きな失敗もなく、バッハとサン =サーンスのコンチェルトを弾いた。つい最近、グボーズディフ先生を追って、ノボ シビルスクから引っ越してきたばかりのパーシャは、私の「バッハはとても解釈が バッハらしくて気に入った」と舞台裏までその事を言いに来てくれた。オーケストラ で一緒に弾いていたヴァイオリンの友達も聞きに来てくれて、「とてもよかった」と 言ってくれた。よかった。他のコンクール入賞者の門下生に混ざって、気後れせず、 堂々と演奏会に出演できるようになって、少し進歩したと思った。

12月27日

私はお正月をノボシビルスクで過ごすことに決めていたので、オリガさん家族と一緒 に汽車でノボシビルスクに行くことにした。オリガさん家族といつも一緒に食事をし ていたが、食材費やその他いろいろなことで嫌な気持ちになることがあり、ちょっと 付き合うのがしんどくなっていたことは確かだったが、仕方なかったので…、私も相 当自分を押さえて、合わせるように努力していた。

12月29日

ノボシビルスクに着いた。長旅で疲れたが、ラリーサママと息子のコースチャが迎え に来てくれた。懐かしい人に会って、嬉しさでほっとした。

12月30日

パシフィックミュージックフェスティバルに応募する為に、ノボシビルスクフィル ハーモニーの録音室で録音をとった。ノボシビルスクに着いて、まだ疲れが取れきっ ていない間に録音の予定が入ってしまって、コンディションが悪かったのだが、気力 で頑張る事にした。録音は長丁場で、約5〜6時間もかかり、最後の方は、くたくた だった。録音を手伝ってくれたのは、同門生のサーシャのお父さんユーラ。伴奏は サーシャのお母さんリューダが引き受けてくれた。この録音をとってみて、自分の演 奏の未熟さを痛感し、とても落ち込んでしまった。録音も私の技術不足で、テンポが 座ってしまい、満足のいくものではなかった。落ち込む所まで落ち込んだ。その後 は、這い上がるしかない。自分の今の実力を認識し、内省し、次につなげていけばい い。毎日こつこつ努力すれば、きっと報われるはず。そう思う事ができて、今回の録 音の件はとても勉強になった。

12月31日

とても寒かったので、外に出ず、一日中ずっと家の中にいた。今年もスヴェタの実 家で年を越す事になった。私達は、夜10時過ぎ頃から御馳走の並んだ食卓につき、旧 年に乾杯して、新年に乾杯して、プレゼントを交換した。夜、エリツィン大統領がテ レビの画面を通して、新年の挨拶をした。ゆっくりと新年の抱負を語った。あまり ゆっくり過ぎて、ウトウトと寝入ってしまいそうだった。エリツィン大統領は、入退 院を繰り返しているようで、健康そうには見えなかった。こんな人が大統領で、この 国は大丈夫なのか?!と思ってしまった。それでも、新しい年の到来は嬉しい。お正月 は気分がウキウキするなぁ〜。隣のアパートの部屋は家主が不在で、1日或いは時間 単位で部屋を貸し出ししている。お正月という訳で、パーティ用に貸切になり、ディ スコのものすごく大きな音楽が私達の部屋にもれて来て(特に私の部屋に)、それは 朝の5時まで延々と続いた。もちろん、私は熟睡できなかった。あ〜悔しい。

1999年1月1日

隣のアパートの徹夜パーティ&ディスコで喧しくて、ぐっすり眠れなかった。嫌な 年の明け方だと思った。しかし、眠たい体を起こして、練習した。御馳走を食べ過ぎ て、胃がもたれている。昨晩の鴨とりんごの丸焼きとアルコール(?)がまだ消化さ れていないようだった。

1月2日

新年早々、フィルハーモニーで、部分的な録音のやり直しをやった。昨晩も隣人の 部屋は違う若者グループに一夜貸し出され、朝までうるさかった。そんな訳で、私は すごく寝不足で、非常に機嫌が悪かった。それでも気を取り直し、精一杯頑張って弾 いたが、集中力がいつもより劣っていた感じがする。3時間の録音だったが、終わっ た時はくたくただった。

1月6日

ブロン先生が今年もまたノボシビルスクにやって来た。マスターコースをやってい るようだが、今日も録音があって、行けない。時間がない。それに久しぶりだから、 アカデムガラドクの千葉さんの所にも行きたかった。

1月7日

千葉裕子さんに会いに行った。千葉さんは相変わらずノボシビルスク大学で日本語 を教えていて、違うアパートに移っていた。いつものように泊めてもらった。何かと 不便なロシア。ロシア人に対する愚痴も積もる。二人でワインを飲んだ。千葉さんと はいつもいろんな話が出来て、私にとって、とても貴重な存在だった。私が将来の展 望に対する不安を話すと、千葉さんはいつも「やって無駄なことってないから、若い うちにいろいろやって、苦労したらいいよ」と言ってくれ、力づけてくれた。録音で 時間がかかり、余計にお金もかかり、そんなに多く持って来ていなかったので、お金 が足りなくなり、千葉さんにお金を貸してもらった。お金の貸し借りは大嫌いなのだ が、住友の海外ATMがノボシビルスクで使えなかったので、仕方がなかった。お金 は、マグニトゴルスク音楽院付属リツェイの校長先生の金庫に中に保管させてもらっ ていた。お金自体はあったのだが、録音にそんなにお金がかかるとは思わなかったの で(余分に持って来ていなかった)、こんなことになった。お金は、余分にいつも 持っておいた方がいい。バカだなぁ、私は。

1月9日

ブロン先生の演奏会があった。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲とラヴェルの ツィガーヌとショーソンのポエムをノボシビルスクフィルと共演した。上手だけど、 音程の怪しい所や、やりすぎ・強調しすぎのところもあって、あまり感動しなかっ た。マグニトゴルスクまでのチケットを買って、発つ準備をした。そろそろマグニト ゴルスクが恋しくなって、帰りたいと思い始めていた。そして、友達に世話を頼ん で、置いてきたオーリのことも非常に心配だった。

1月10日

グボーズディフ先生と門下生ジェーニャと3人でマグニトゴルスクに発った。先生 の奥さんはマグニトゴルスクの水に合わず、鼻炎アレルギーが出てしまって、ノボシ ビルスクに残ることになった。一番下の息子もママと一緒にノボシビルスクに残っ て、先生一人だけマグニトゴルスクに向かうことになった。新しい土地での50歳過ぎ てからの一人暮らし(!)。想像しただけでも大変そう…。先生、一人で大丈夫なん だろうか…。

1月11日

チェリャービンスク駅で、乗り換えの汽車を待っている時に、先生がアイスクリー ムを御馳走してくれた。見掛けに依らず、先生は子供好き、世話好きな3児のパパ で、そんな先生の一面を見れて、とても嬉しかった。

1月12日

早朝、私達はマグニトゴルスクに着いた。とても寒かった。大雪の年で、寮までの 道のりはすごい高さの雪の壁が出来ていた。さすがウラル地方。

1月14日

年が明けて、初めてのレッスンがあった。先生は新しい曲をくれた。コレルリ=ク レイスラーのヴァリエーション“ラ・フォリア”だった。符読みをしてくるように言 われた。

1月16日

レッスンがあった。符読みをしたが、難しくて、ひよこがよちよち歩くような、あぶ なっかしい感じだった。楽譜を見ながら、ゆ〜っくりのテンポで弾き終わると、先生 は「わぁ〜、何て難しい曲を直子に与えてしまったのだ〜」と考え込んだ。曲を変え るなら今のうち。先生は何曲か、候補を挙げたが、私は哀愁漂う“ラ・フォリア”の メロディーが気に入って、「弾きたい!」と言って、譲らなかった。結局、しばらく そのままで様子を見て、駄目だったら、違う曲に変えることになった。

1月17日

音楽史の前期試験があった。こちらの試験というのはほとんど口頭試問である。試 験の問題はあらかじめプリントで公布され(20問)、試験の時は、机の上に幾枚か伏 せてある“ビレット”(試験問題カード)のうちから1枚を“くじ”のように選ぶ。 私は同級生のターニャに手伝ってもらって、20題の問題の回答を(前もって準備はし ていたが、結局は徹夜で)用意し、試験に臨んだ。私は最後に“ビレット”をひい た。2問あって、「ワーグナーの美的芸術観とオペラ改革」と「ルネッサンスの音楽 文化・声楽歌曲と楽器音楽について」だった。後の問題の方は、昨日の明け方やった 最後の問題で、もしあの時「もういいや〜!」と言って寝てしまっていたら、この問 題には答えられない所だった。たどたどしいロシア語で答えたが、先生は私がここま でやるとは思ってもみなかったらしく、優マイナス(5マイナス)という評価をくれ た。初めてのロシア語での口頭試験に合格できて、とても嬉しかった。問題の答えを 作成する間に、ロシア語の語彙を含め、音楽の知識がたくさん増え、その勉強がとて も楽しかった。私の知的欲求は充実していた。

1月18日

レッスンがあった。先生は、細かく見てくれた。出来ない所は、取り出して、何度 も弾きながら覚えるようにと言われた。先生は、何だか、一人暮らしが大変そうだっ た。そして、今、冬の大敵、インフルエンザが流行っていた。

1月19日

先生が風邪をひいた。先生…、一人暮らしで大丈夫なのか、と心配した矢先のこと で、嫌な予感が当たった。インフルエンザは39度から40度の高熱を伴うウイルス性の ものだった。たいした事でなければいいのだが…。先生のことを心配しながらも、練 習した。

1月22日

先生は、風邪をひいたまま。町の外れに住んでいて、高熱があるのに、食料の買い 出しや料理は出来ないはず。先生が寝込んで、もう3日目…。アパートには電話もな いので、「具合はどうですか?」とすら聞けない。奥さんが側にいれば何の心配もな いが、今、先生は一人暮らしなので、私は、フォーシャのお母さんと相談して、先生 の所に御飯を届けることにした。私は、鶏肉で出しを取り、スープを作った。フォー シャのママは、ピロシキを揚げた。昼頃、フォーシャと二人でご飯を届けに行った。 先生はとてもびっくりして、なかなか出て来なかった。おそらく慌てて着替えたのだ ろう…。ドアを開けてくれた時は、いつもの黒いセーターを着ていた。先生は「喉の 調子が良くないから、明日、救急車をよんでくれ」と私に頼んだ。私は、そのことを オリガさんに伝えたら、すぐに救急車を呼んでしまい、先生はその日のうちに病院に 運ばれてしまった。そこら辺のやり取りはよく分からなかったが、駆けつけた救急医 が独りで風邪をこじらせている先生を見て、とりあえず、ほおって置かなかったよう だ。運ばれた病院が気に入らなかったようで、しかも、もう夜遅かったので、先生は 「家に帰りたい。明日あらためて診察に来たい」と言い、学長の車で病院から家まで 送り届けられた。皆、先生のことを心配して、気がキでなかった。私も先生の伝言を 伝えたが故に、先生に嫌な思いをさせてしまったようで、申し訳ない気分だった。

1月23日

先生はあらためて第1病院に入院した。風邪で咽頭炎を起こして、声が出なくな り、風邪だけでないかもしれないので、精密検査が必要と言う医師の診断が出た。私 達は、先生の入院は長引くと、覚悟するよりほかなかった。マグニトゴルスクは工業 都市で、マグニットや工場排気ガスが空気中に多く存在していて、特に心臓が弱い人 には向いていない町らしい。そして、元々心臓の悪かった先生は、この町に移ってか ら、その空気の影響を受け、持病が悪化してしまった疑いがあった。

1月29日

先生は相変わらず入院中。だが一方、私の“ラ・フォリア”は比較的順調に行って いた。ただ、弾き方でわからない所があって迷ったが、自分で考えて弾いていた。折 角、お正月の録音の後、内省して、性根を入れて、やり直そうと思っていたのに、先 生が病気になってしまって、ショックだった。他の門下生もだら〜んとしている。 レッスンが無いから、練習にも身が入らないようだ。

2月1日

マグニトゴルスクに帰って来て、私は自炊を始めた。昼間は、音楽院の食堂で食べて いたので、自炊は夕食だけでよかった。ノボシビルスクから帰って来て、オリガさん 家族とは別々に食事をとることにした。食べたいものもあるし、この家族との付き合 いがストレスになってきたから、そうした方が賢明、と判断した。お店で、片手鍋や まないた、食器一式を買って来て、野菜サラダを作ったり、鶏肉を油で揚げて、から 揚げを作ったりした。時々、寮に住んでいる子供たちがオーリの散歩や部屋の掃除を 手伝ってくれた。その後には、いつも御褒美でご飯を食べさせてあげた。私の所は、 子供の居心地がよいのか、子供が良く集まって来て、“ジェッツキーサット”(幼稚 園)と言われていた。

2月14日

先生がようやく退院した。久しぶりにレッスンがあり、とても嬉しかった。先生は心 配をかけたくないという配慮からか、「ノボシビルスクに居る自分の奥さんには入院 していることを内緒にしておいてほしい」と懇願していたが、そんなことは長く隠せ る訳はない。奥さんも先生の様子が尋常ではないことを悟り、入院のニュースを知っ て、マグニトゴルスクにとんできた。先生は内向的で、シャイな人で、人付き合いを 嫌い、どちらかと言うと人見知りをしやすい。だから、入院中も門下生のお母さん方 の世話になるのを極端に嫌がり、身の回りの世話は奥さんでなければだめなようだっ た。タイミング良く奥さんが着て、丁度、先生が退院して、私達は少しほっとした。

2月25日

門下生パーシャの10歳の誕生日だった。ロシアでは、幼い頃から誕生日を祝う伝統が ある。マグニトゴルスクに来て、寮に住むようになって、門下生の誕生日の度に、私 達はその誕生日の人の部屋に集まって、ホームパーティーをするようになった。子供 も大人も御馳走を食べ、大人は世間話をして、子供達はお腹がいっぱいになったら、 部屋の向こうで遊び出す。成人男性がいないので、ウォッカなどのアルコール類はあ まり見られず、基本的にジュース&お茶で、ママさん達のおしゃべりが延々と続いて いた。

3月9日

韓国人の門下生で、サユナという11歳になる女の子がいた。今日は、彼女の誕生日 だったが、本人が風邪をひいてしまって、楽しみにしていたお誕生日会は延期…。風 邪で寝込んでしまって、かわいそうだけど…。良くなったら、あとからお誕生日会を すればいいよ!!今は早く良くなること!
サユナの家族について:サユナのお父さんはソウル大学のコンピューター専門の教授 で、普段はソウルの大学に勤務。時々、出張でロシアに来ていた。お母さんのソーナ はソウル大学の大学院経済学部を卒業した才媛。8歳になる妹ヨーナちゃんは、生ま れた時から、大きくなれない“小人症”という病気にかかっていたが、とてもいい子 で、普通の子供と同じようにのびのびと育てられていた。ソーナは、私が今まで出会 った中で、“一番尊敬できる女性・母”だと思う。彼女は、東洋の伝統的な子育 てをして、お金のやりくりが非常に上手だった(何にどうお金を使うかという経済観 念が適確、無駄がない)。端から見ていて、私は感心し、勉強になることがたくさん あった。サユナは私より1年早くお父さんの仕事の関係でロシアに来ていて、ヴァイ オリンのみならず、作曲もしている俗にいう“天才少女”だった。すでに国際コン クールの入賞者だし、オペラやいろんな作品を書いていた。賢い良い子供というの は、親がいいということだと思う。サユナには音楽家としての素質は十分あって、し かも、母親がしっかり躾をしており、一日のスケジュールの組み方が、サユナのその 年齢にしてはとても上手だった。真面目にコツコツ練習する習慣が付いていた。大人 顔負けである。そして、彼女の記憶力の良さには舌を巻いてしまった。この一家は顔 相がとても良く、“いい家族”というのが一目瞭然だった。(脱帽!)

3月16日

門下生のサーシャとジェーニャの演奏会があった。彼らは、前半・後半に分かれて1 部ずつ演奏した。私の“ラ・フォリア”はだんだん様になって来ていたが、まだ演奏 会で弾けるような段階ではなかった。

3月18日

グボーズディフ先生は、先生のヴァイオリンの先生が危篤という電報を受け取った ので、すぐに故郷のボロニッシュ(?)という町(モスクワの近く)に飛んでいっ た。約1週間レッスンがなかった。

3月26日

門下生ジェーニャの21歳のお誕生日会があった。ジェーニャのママと妹のナターシャ がノボシビルスクから駆けつけた。ロシアでは、大人になっても盛大に誕生日を祝 う。ジェーニャの家庭は複雑だった。以前、彼女の家族はある家族ととても仲良くし ており、ある時、その二家族のお父さんとお母さんが入れ替わってしまったのだ。つ まり、ジェーニャの母親は離婚し、その友人の旦那と再婚、父親はその友人の奥さん と再婚。この“配偶者取り替え”騒動は子供達の心に精神的な不安と気苦労を残し た。私もこの話を聞いてびっくりしたが、だからなのか…ジェーニャは少し変わって いて、変な性格だった。どうして彼女がそんな風になったのか、少し理解できて、気 の毒に思った。親が悪いんだろうなぁ…。

3月31日

延期になっていたサユナのお誕生日があった。先生もボロニッシュから帰って来 て、奥さんがノボシビルスクから来ていた。寮のサユナの台所にグボーズディフ門下 が勢揃いした。全部で20人ぐらいいただろうか…。料理は鶏肉の揚げたものやサラダ など、エキゾチックで美味しいものばかりだった。サユナはミッキーマウスのピンク のワンピースを着て、先生の隣に座り上機嫌。彼女はとても幸せそうだった。私達も 話が弾んで、とても楽しかった。先生が帰る時、私の部屋で飼っているオーリを見せ た。先生は小さい時のオーリしか知らないので、大きくなったオーリを見てびっくり して、優しくオーリの頭をなでてくれた。動物的な勘が働くのか、オーリは先生にお となしく甘えていた。先生は根が優しい人だということを瞬間的に察知したのだろ う。

4月3日

4月に入って、コンスタントにレッスンが入るようになった。私の“ラ・フォリア” も断然上達し、技術的にも弾けない所が根気強い練習を積み重ねることで弾けるよう になってきた。音楽史の講義にも通って、相変わらず膨大な量のオペラを聞かざるを えなかった。後期から先生が代わり、ゼミ発表の基準も厳しくなった。モンテヴェル ディ「オルフェオ」やパーセル「ダイドーとエネアス」、グルック「オルフェオとエ ウリエディーチェ」「アウリスのイフィゲニア」「タウリスのイフィゲニア」、ペル ゴレージ「奥様女中」、ヘンデル「ジュリアス・シーザー」「リナルド」、モーツァ ルト「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」「魔笛」、ベートーヴェン「フィデリ オ」などのオペラがイントロクイズの“ビクタリン” の範囲だった。一応、私は同 級生とこれらの指定されたオペラを全部聞いて、オペラ別にメモを取り、1ヶ月ごと にある小試験に臨んでいた。

4月10日

オリガさんの息子ワーニャが10歳になった。ノボシビルスクからパパとおばあちゃん がはるばるやって来て、例のごとくまた盛大にお誕生日会が行われた。音楽院のリ ツェイの一室を借り、食堂からコップとお皿を借り、約30人が集まった。すごい料理 の量だし、プレゼントもたくさんで、こんなお誕生日会は始めてだった。子供が多 かったせいで、アルコールは少なかったが、ケーキが3つあって、おばあちゃんが 作った3段重ねのチョコレートケーキはウエディングケーキ顔負けの傑作だった。

4月15日

懐かしい懐かしいノボシビルスク留学中の安見ちゃんの手紙より:「2月の雪、3月 の風、4月の雨が美しき5月を作る…。必ず暦が進んでいくように、季節がめぐるよう に、人間の人生でも、今がどんなに苦しくて、ツラくても、どんな人にでも、必ず美 しき5月(成功など)はやってくるのです。直子さん、あなたも今はまだ3月、4月頃 で苦しいかもしれないけど、5月はもうすぐです」と激励の手紙を送ってくれた。最 後に「以上、上文はNHKテレビドキュメンタリーの受け売りでした。ごきげんよう。 やすみ」と締めくくってあった。“プッー”(笑)安見ちゃんらしい…。ありがとう 〜。

4月16日

グボーズディフ門下の卒業生3人(うち2人は高校卒業、1人は音楽院卒業)の国家試 験があった。アーニャとサーシャともう一人のアーニャ(音楽院卒業生)がそれぞれ プログラムを弾いていき、彼らは優の成績で専門の国家試験を通過した。3人それぞ れバッハのソロソナタ1番のアダージョとフーガを弾いたが、年の功なのか、一番年 上のアーニャが申し分なく音程・音色・解釈の点ではるかに他の弟子より上手だっ た。小さいアーニャは、チャイコフスキーのコンチェルト1楽章・ヴィニャフスキーの ファウストなど、サーシャはモーツァルトのコンチェルト3番1楽章・イザイのソロソ ナタ6番など、年上のアーニャはショスタコービッチのコンチェルト1番の1楽章・シマ ノフスキーのノクチュールンとタランテロなどを弾いた。音楽院の大ホールで行わ れ、聴衆も多く、私も注意深く聞いた。とてもいい勉強になった。

4月26日

ゼミで発表した。私はまだロシア語が不自由で、うまく発表できないだろうと思っ たので、ヴァイオリンを出して来て、「魔笛」(モーツァルト)のいろんなアリアの メロディーを弾いて、曲の形式や内容を説明した。その発表は先生にも同級生にもと ても受け、ゼミの評価点で5点満点をもらった。

5月1日

メーデーだった。休日だが、相変わらず朝の犬の散歩で1日が始まり、練習の日々。 グボーズディフ先生は調子が悪い。マグニトゴルスクに来てから、持病の心臓病が悪 化してしまい、夏休みに手術をしなければならないそうだ。ヤクーポフ学長は、先生 がマグニトゴルスクの病院で手術が出来るようにお手伝いしたい、と申し出たそうだ が、先生はすぐさま断った。先生は1月からずっとここで一人暮らしをしており、私 には“ここでの生活はもうウンザリ”という先生の気持ちが手に取るように分かっ た。「だけど、先生のせいで皆ここに来ることになったんだよ〜」(“直子の遠吠 え”の巻)

5月9日

戦勝記念日だった。オリガさんのおじいさんは第2次世界大戦の時にうけた銃弾の傷 が原因で亡くなったそうだ。あの戦争の影は各家庭に様々な形で残っている。ロシア のいたる都市に“無名戦士の墓”と“平和の火”があって、戦勝記念日にその場はたく さんの人で埋まる。軍服にたくさんの勲章をつけて式典に出席する老人、兵隊さんの 見事な軍事パレード、お花を添える人、ノボシビルスクの人々が、外を“グリャー チ”(ロシア語で散歩するの意)する。オリガさんは「この日は、世界中の第2次世 界大戦犠牲国の人々にとって、お正月よりも何よりも貴い祝日よ」と言っていたのが 印象的だった。

5月11日

私はまた先生のクラスの演奏会があると思って、“ラ・フォリア”を頑張って練習し ていた。しかし、先生は「手術の為の検査もあるし、急だけど曲はもう仕上がってい るし、今日試験をしてしまって、数日後にはノボシビルスクに発ちたいのだが…」と 相談してきた。他の生徒もどうやらそうするらしい。せっかく演奏会で皆に披露でき ると思っていたのに、残念だったけど、了解した。試験は先生のクラス213号室で行 われた。パーシャがまずベリオのコンチェルト9番の1楽章を弾いて、次にサユナが ブルッフのコンチェルト1楽章を弾いて、私がラ・フォリアを弾いて、最後にアー ニャがモーツァルトのコンチェルト5番1楽章を弾いた。試験官は、グラズノフ先生 とグボーズディフ先生だった。皆順番に弾き終えて、審議の間、廊下で雑談をしなが ら待っていた。この時が、今までの試験の結果の待ち時間の中で一番長かったように 思う。軽く2時間は過ぎただろうか…。213号室のドアが開いて、グラズノフ先生とグ ボーズディフ先生が出てきた。ロシアでは、男性同士の挨拶(こんにちは、さような ら)は握手なのだが、二人はまだ話したりないのか(?)、落ち着いた声で話しなが ら、最後の握手を交わした。コンプレックスのないサユナが先生の所に駆けていっ て、「先生、何点ですか?」と聞いた。先生は「フセム ドゥボイキ(皆に落第点= 2)」と言って、満足そうに笑った。もちろん冗談で、皆優(5)だったのだが、そ うやって気軽に先生と話せるサユナがちょっぴり羨ましかった。(私は気後れしてし まって、先生の前では遠慮していた)

5月29日

恐怖の音楽史の試験。試験の度に徹夜だった。今回は、@キリスト教初期の音楽〜グ レゴリオ聖歌Aミサ曲Bネーデルランド楽派(デュファイとオケゲム)C合唱曲につ いて(デュプレ)Dイタリアの16-17世紀の合唱ポリフォニーについてEバッハのメ サ曲4曲についてFヘンデルのオラトリオGハイドンの「四季」Hモーツァルトの 「レクイエム」Iベートーヴェンの合唱Jシューベルトのメサ曲K古代ルーシ(ロシ ア)の音楽文化についてLギリシア正教会の音楽についてMロシアの多声音楽Nプロ テスタント教会の音楽Oイントロクイズでやったオペラの中から2題の質問に答える ことが課題だった。範囲が広く、模範解答を作るのに苦労した。ビレット(試験問題 カード)をひいて、私はモーツァルトの「ドン・ジョバンニ」とBの問題に当たった たが、Bはゼミでオケゲムの経歴を発表したので合格点がついており、免除され、オ ペラだけ回答すれば良かった。ナターリア先生は前期の先生より厳しくて、私の回答 に対し、「もしロシア人の学生だったら4のレベルだけど、外国語を駆使して試験を 受けるのはとてもむずかしいことだし、直子はちゃんと真面目に授業に通ったから、 5マイナスをつけてあげる」と合格点をつけてくれた。

6月2日

試験がすべて終わって、朝からヨーナと水着を着て、寮の前の芝生で日光浴をする のを日課にしていた。オーリも引き連れて、のんびりした。

6月6日

友達のターニャ(オムスク出身で去年の夏休みに彼女の実家に遊びにいった)のお誕 生日会だった。彼女は洋裁が得意で、普段から私とソーナ家族に安値でいろいろ縫っ てくれていた。彼女はその稼ぎで盛大なパーティーを催した。学生がたくさん集っ て、料理を食べ、外に出て、ウォッカを飲みながら、歌を歌って、どんちゃん騒ぎ (?)をした。ウォッカの臭いはきつく、すぐまわるので、ぐぃっと飲んだ後、黒パ ンの匂いをかぐか、ピクルスを食べるように教えられた。「直子もロシアでウォッカ の味を覚えたか〜!」と男性陣は調子に乗ってからかってきたが、ロシアでウォッカ をロシア人のように賞味したのはこれが最初だった。(ちなみにロシア人はウォッカ の一気のみが大好き!)ターニャは「直子がお酒の味を覚えてしまったら、日本の両 親に申し訳ない〜」と言って心配し出したので、「日本でも(アルコール)良く飲ん でいたよ!」と言うと、皆びっくりしていた。日本人は年より若く見えて、私なんて 大抵は16〜18歳に見られていたが、ある時「12歳?」と言われたことさえもあった。 実際は今いるメンバーの中で私が一番年上なのだが、一番年下のように見える私が ウォッカをぐぃっと飲んだので、皆にしたら「小学生の子供がウォッカを一気のみし ている」ぐらいに思ったに違いない。え、へっへ。いい気分〜(ウォッカ洗礼の巻)

6月13日

オーボエ奏者の アシャスチン氏の車でウラル山脈小旅行を実行した。サユナ家族と 私とアシャスチン氏の息子スラーバの計6人で行った。手の込んでいない自然が延々 と続き、私達は側の小山の頂上まで昇った。山のてっぺから見る野原は小さく見え、 風がとても気持ち良かった。雑草などが生い茂る山道を下る時、鋭い針を持つ草に 引っかかれた。引っかかれた後がキリキリ痛み、かゆかったが、逆に神経を和らげて くれた。不思議な草で、神経質な人のための治療草だそうだ。思考や注意を頭脳から 痛みの方に移す為、神経質な人や自律神経失調症の人の足や腕をこの草でたたいて治 療するらしい。私達は山から下って、塩水湖に行った。肌寒くなったので薪をするこ とにしたが、とても風が強く、木切れに火が中々つかなかった。アシャスチン氏は ホースでエンジンオイルを汲み取り、薪に注ぎ何とか火をつけた。そして、持ってき たジャガイモと肉を焼き、お腹一杯食べた。外で食べるご飯は格別に美味しかった。 寮に帰ってきた時は、疲れてくたくたで、速攻寝てしまったが、思い出に残る小旅行 だった。

6月24日

サユナ達とノボシビルスクに向かった。汽車で2日間。でもサユナ達と歌を歌いなが ら、楽しく汽車の旅をした。

6月26日

ノボシビルスクに着いた。一足先にノボシビルスク入りしていたサユナのパパが私達 を鉄道駅まで迎えに来てくれた。サユナのパパは新しいサングラスを買って、とても 格好良くてダンディーだった。実は、ノボシビルスクでオーリの飼い主が見つかった ので、犬も一緒に連れて来ており、パパはびっくりしていた。私は初めの日だけノボ シビルスク工科大学のサユナ達のホテルに泊まって、次の日からスヴェタの所にお世 話になった。サーシャのママとオビ川沿いを散歩したり、バドミントンをしたりし て、一週間ゆっくり過ごした。

6月27日

グボーズディフ先生の手術があった。手術自体は成功したらしいのだが、どうやら 先生の容体がおかしいらしい。本当に心配だった。

7月2日

未央ちゃんの旦那さんビタリーと一緒の便で日本に帰ることになった。旅の道連れが 出来て、丁度良かった。しかし、思いも寄らぬことが空港で起こった。搭乗手続きを し、手荷物検査の所でパスポート検査もあり、マグニトゴルスクからノボシビルスク に移った後、また一時的なレギストレーション(外国人登録)をしなければならな かった。そんなことは露ほど知らなかったので、びっくりした。奥から警察が出て来 て、すごく問い詰められ、待ち合いゲートの乗客がどんどんいなくなっていく…。 「えっ、飛行機に乗れないの?」と一瞬焦ったが、もう「知らなかった」の一点張り で謝って、見逃してもらった。冷や汗が出た。ロシアのレギストレーションに関する 手続きはややこしいし、面倒くさい。昨年にはモスクワにも行く羽目になったし、も ううんざりだ(!)と思った。
【二年目のまとめ】
先生を追って、マグニトゴルスクに引越し、ヴァイオリンが続けられたことは良 かった。同門生達と仲良くなれたことも良かった。しかし、この一年はあまり“成功 した”と言えるような一年ではなかった。レパートリーは少しだけ増え、それでも自 分では少ないと思った。まだまだだ…。PMFもだめだった。先生は、前期は毎日の ようにレッスンをしてくれたのだが、後期は入院や出張、コンクールなどで行ったり 来たりして忙しく、弟子達は皆、なかなかまとまった量のレッスンが受けられなかっ た。オーリ(犬)を飼ってしまった為に、散歩・掃除などいろいろな手間と苦労が あった。だが、オーリの世話をすることで、幾ばくかの喜びがあった。苦しみも悲し みも喜びも分かち合える小さなお友達だった。条件的にこれ以上飼い続けることは無 理だったので、知り合いを通じて、新しい飼い主に渡した。今年音楽院の本科の1年 を終えた。卒業するには後4年。だが、年齢も押しているし、できれば来年は飛び級 ねらいで、2,3年を一気に履修できれば…と思っていた。


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