ロシア留学日記

ロシア国立グリンカ音楽院を卒業した日本人留学生の記録。


1年目(1997年8月〜) 2年目(1998年8月〜) 3年目(1999年8月〜) 4年目(2000年7月〜) 5年目(2001年9月〜)

1年目(1997年8月〜1998年6月)

ロシアは私の夢だった。幼稚園で、ワンパクでよく動き回ったため、「長瀬のコマネ チ」とあだ名をつけられた(長瀬は東大阪市の地名で、私はここで生まれた。コマネ チはその当時オリンピックで大活躍したルーマニアの選手だが、私は幼い頃の記憶で 今の今まで、コマネチはロシア人だと思っていた)。小学校に上がってから、家族で “モスクワ国立ボリショイサーカス”を見に行った。綱渡りの妙技に感動して、綱渡 りになりたくて、「モスクワのサーカス学校に入れてくれ!」と母親に泣きじゃくっ たこともあった。今から思えば、その頃からもうすでに私の“ロシア行き”が運命付 けられていたのかもしれない。
札幌大学でロシア語を専攻し、学外活動としてアマチュアオーケストラや室内合奏団 でヴァイオリンを弾いて、普通の学生生活を送っていた。札幌通訳センターでアルバ イトをしたとき、現役の通訳・翻訳者の仕事を垣間見て、私もこんなふうになりたい と思ったりもしたが、ロシア語力もまだまだ、これといった得意な専門分野もなく、 中途半端で悶々とした日々を送っていた。
札幌で出会ったスベータの影響と、札幌の姉妹都市ということでノボシビルスクに興 味を持ちはじめた。1996年夏、ノボシビルスクでホームステイをしたとき、今のアレ クセイ・グボーズディフ先生と出会った。滞在中8回もレッスンを受けることができ た。眼からうろこが落ちるようだった。この先生に出会って、もう一度ヴァイオリン をやり直したい、という思いが湧きあがった。時々ノボシビルスクに来てプライベー トでレッスンを受けるか、先生が働いている音楽院に留学してロシア人の学生と同じ 履修カリキュラムで学びディプロマを取得して卒業するか・・・この二つの選択肢の中 で、私はどこまでやれるだろうか。ロシア語力を培い、自分自身を試す意味で、後者 の選択肢を選んだ。両親を説得した。親の言い分は、「単なる語学留学だったら自分 で働いて金ためて行け!と言っただろうが、音楽(ヴァイオリン)は年齢が作用する。 行くんやったらできるだけ早い方がいい。数年日本で働いてから行ったんでは遅いや ろう。出来ることも出来んようになる。だから、大学院に行かせていると思って、援 助することにした」だった。大学を卒業し、フリーターを経た後、念願のノボシビル スクグリンカ音楽院への留学が実現した。

1997年8月25日

私の出発前に行われた兄の結婚式の二日後、大きな希望と不安に胸を膨らませながら、 日本を発った。大阪伊丹空港から新潟空港経由でハバロフスクに着いた。知人の手配 で空港までタチヤナ・クズニツォワさんが迎えに来てくれた。某大学の研究職員用の ホテルに一泊25ドル(朝食付)で宿泊した。が、残暑が厳しく、蒸し暑くて窓を開け ると蚊が入ってきて、その蚊が耳元で飛び回る音でよく眠れなかった(ロシアには日 本のような網戸はない)。

8月26日

タチヤナさんと彼女の息子がハバロフスクの町を案内してくれた。彼女の職場である 図書館に行った後、郷土博物館を見学し、コムソモール広場やアムール川沿岸を散歩 し、天気が良かったので遊覧船にも乗った。翌日の夜、ノボシビルスクに発った。

8月28日

27日夜遅く、ノボシビルスクに到着。車を持っている友人が空港まで迎えに来てくれ た。ノボシビルスクでは音楽院の寮に入ることになっていたが、9月10日まで、スヴ ータの実家にお世話になることにした。ロシアでは夏期間、お湯が一ヶ月出なくなっ たりすることがある。洗髪やシャワーの場合は、大きななべややかんで湯を沸かし、 原始的に、洗面器にお湯と水を混ぜてちょうどいい温かさにしてかぶる。そして、私 も例外なくこの”洗礼”を通過した。日本の快適さの半分くらい、そして何かと不便 なところである。

8月29日

夕方、グリンカ音楽院のグーレンコ学長と初会見した。大学でいくらロシア語をやっ ていたからといって、スラスラと話せるわけでもなく、学長の威厳ある態度と、なん となく感じられる冷淡さに怖気づいて緊張してしまったが、一語一語確かめるように 「私はヴァイオリンを勉強するためにノボシビルスクに来た」と述べたことを、昨日 のことのように覚えている。
日本で音楽大学を卒業していないので、まず準備学部で勉強してから本科に移行する ように薦められる。会見の最中にマリーナ・クージナ=コイフマン先生を紹介されて 「この先生に師事してください」と言われた。わたしはてっきりグボーズディフ先生 に習えるものと思っていたので意外に感じたが、わけもわからず、その場の雰囲気に 飲み込まれてしまった。

8月30日

朝10時から音楽院の入学試験。モーツアルトのヴァイオリン協奏曲第5番の一楽章を 弾く。「腕と指に少し問題があるが、音楽的にもテクニック的にも十分なレベルなの で準備学部は一年間で十分、和声とソルフェージュをしっかりやるように」と言われ た。晴れて正式に音楽院入学が決まった!!

9月1日

ロシアに入国した外国人は規定により到着後3日以内にオビール(外国人ビザ登録部) で外国人登録を行わなければならない。そんなことはもちろん知らなかったので、 怒られて罰金20ドルを払わされる羽目になった。それにしても、ロシア人はサービス 精神がなってない!!特にオビールでは!音楽院の留学生担当者のミハイレンコ氏 (とても顔が長い)の用意した契約書にサインして、パスポートを預けて、手数料と 罰金を払い、無事に登録を済ませた。

9月2日

友人レーナ・フロムの紹介により、ロシア国立ノボシビルスク教育大学の世界文化講 座で、私が日本語を教えることになった。レーナは10月から北海道教育大学に留学す るため、彼女に代わる日本語教師が必要だ、ということだった。「大丈夫かな・・・、 本当に教えられるのかぁ?!」とちょっと心配だったが、学生諸君は長い夏休みのあ と、「こんにちは」と「さようなら」以外は忘れてしまっていて、ちょっとした会話 どころではなかった。私の心配は、更に大きくなるばかりだった。

9月8日

私が習いたかったグボーズディフ先生がモスクワの門下生の演奏会から戻ってきた。 先日紹介されたマリーナ先生にも関心はあったが、やはりグボーズディフ門下の評判 の方が断然良いし、昨年先生のレッスンも受けているので、どうしても先生選びだけ は妥協したくなかった。そこで、直接先生に会って、門下生にしてください、とお願 いしたら、私のことを覚えていてくれて快く了解してくれた。先生は、モスクワの演 奏会のために夏の間中レッスンをして疲れたからしばらく休みたい、と言い、初レッ スンまで、アシスタントのサーシャ・ショーネルトさんが稽古をつけてくれることに なった。 和声・ソルフェージュのレッスンも始まり、学生証や図書館利用カードも出来上がり、 定期券を購入したり、本や楽譜を借りることが出来るようになった。

9月9日

ホストのママ、ラリーサさんの誕生日。ロシアでは大人も子供も一年に一度の誕生日 を盛大に祝う。皆、家族でご馳走を作って、親しい友達を招いて、おしゃべりに花を さかせる。誕生日を迎えたものが料理をご馳走し、酒を振舞い、ゲストはプレゼント を持ってやってくる。誕生日というと、日本人は案外簡単に外食したりするが、ロシ ア人は経済的なホームパーティーを好むようだ。

9月10日

音楽院の寮に入寮。ラリーサママが寮ですぐ自炊が出来るようにと、お鍋、お皿、フ ォーク、スプーン、ナイフなど一式ずつ渡してくれた。ワーニャが車で荷物を寮まで 運んでくれた。寮の部屋は12畳ぐらいの広さで、ベッド、机2つ、椅子2つ、備え付 けタンスがあった。寮では鍵付きの6つの部屋と台所、共用トイレ、シャワーが一つ のセクションになっていた。しかし、トイレが非常に汚く、「こんな所に住みたくな い!」と一晩悩むことに・・・。この先一年間、トイレに行くときは、いつもひとかた ならぬ勇気がいった。鉄則:ロシアのトイレは汚い!
同セクション内で1歳半の娘イエバをもつイーラの家族とすぐ親しくなった。一年間、 彼らのおかげで楽しく明るい寮生活を送ることができた。

9月12日

アシスタントのサーシャのレッスンがあった。「明日は私の誕生日」、と言ったら、 さっそく翌晩、サーシャがバイオリンを弾くアルバイトをしているレストランに招待 してくれた。どこの国も学生は似たようなものかもしれない。

9月13日

朝からソルフェージュの授業で聞き取りを書き、寮に戻って練習。夕方頃から、ベト ナム人留学生チンと美人の一年生ナターシャ、サーシャと私の4人で連れ立ってレス トランへ行った。ロシア人の若い女性はきれいな人が多く、ナターシャも上品に着飾 って来ていた。同姓の私でもクラクラっとくるような美しさとナイスバディ。神様は、 なんてえこひいきなんだろう・・・と肩身の狭い私だった。レストランでは軽く食事をし、 ダンスを踊った。私は、チークダンスになると踊る相手がいないので(チンとは踊り 飽きるくらいいっしょに踊ったし、サーシャはナターシャに夢中)、テーブルに戻っ てビールを飲み、日本に置き去りにしてきた彼氏のことをぼんやり思い出して、半分 ブルーになっていた。ロシアに来て、まだ一度もグボーズディフ先生のレッスンを受 けていないし、アシスタントのサーシャとは、なんか違う感じのノリになってきてい るし、大丈夫なのか、と先行き不安でどうしようもなかった。そして、来たばかりで 心を開ける友達もいなくて、孤独を感じていた。

9月14日

寮は大変汚く、シャワーもカランのところが壊れていて、把手もちぎれていて、まっ たく使い物にならない。すごいところにきてしまった、と思った。後の祭りだが、週 末は遠慮せず、ラリーサママの家へお風呂に入りに行くことに決めた。これは、この あと一年間ずっと続いた。きれい好きでおしゃれな安見ちゃん(日本人留学生)に、 「直子ちゃん、一週間に一度しかお風呂に入れないなんて、かわいそう!」といつも 同情されていたが、夜11時まで練習できる音楽院の寮の環境はどうしても譲れなかっ たし、ホームステイではなかなか自由に練習できないし、アパートを借りて一人で住 むなど思ってもみないことだった。

9月16日

気分転換に踊って飲んだのが祟ったのか、それとも緊張の糸が切れて少し油断したの か、流行のインフルエンザにかかってしまった。風邪はうつるもので、サーシャも熱 でダウン。同じセクションのイーラが薬をくれ、看病してくれた。

9月18日

回復し、練習の日々に戻る。しかし、サーシャの方は長引いて、なかなか練習を見て もらえなかった。ソルフェージュの授業は、一週間に二度あり、書き取りをする日と 和声学の練習をする日に分けられていた。この授業はマンツーマンで、ロシア語がま だ完全に聞き取れなかったので、いつも授業をテープレコーダーに録音して、家で復 習するようにしていた。

9月22日

朝から教育大学で日本語の授業をした。まだレーナといっしょに授業をやっていたの で、私はレーナに頼まれること−テキストを読んだり、質問したり、質問に答えたり、 簡単なことをやるだけでよかった。ここでは、ゴローブニンの「日本語(1973年版)」 という教科書を使っていた。例文が古く、形容詞の過去の使い方など間違いがあった が、ロシアでは良い文法書として評価されているらしかった。授業は一日一時間半で 4コマ、二年生から五年生までだった。一番好感が持てたのは、三年生のグループで、 四年生もまあまあがんばっていた。五年生は「こんにちは」と「さようなら」を勘違 いして逆に言ってしまったり、やる気なしムードが延々と漂っていた。二年生は20人 と大人数なのでまとまりがとれず、大学生なのに「マルコメ味噌」の小僧さんのよう な幼いイメージの男の子たちと、水商売の人のようなケバいお姉ちゃんたちのアンバ ランスななかに、まじめな生徒が4,5人混じっている、というようなちぐはぐな クラスで、私にとっては一番苦手なクラスとなった。

9月24日

待ちに待った記念すべき初レッスン。アシスタントのサーシャにはろくに練習を見て もらえず、シュラディックの練習教則本(H.Schradieck "Exercises for Violine") の1ページ目をやっただけだったので、怒られるのではないか、と不安だった。サー シャは「グボーズディフ先生はすぐには曲をくれないから大丈夫」と余裕で答えてい た。その予言は見事的中!レッスンは夕方の4時から始まり、まずどのくらい留学す るつもりか聞かれて、そのときは「一年」と答えた。先生は静かにうなずき、「弓を 机において」と言って、ヴァイオリンの持ち方から始った。一の指、ニに指、三の指、 四の指と別々に動かしながら、今までの癖を直されていった。この日は左指の矯正と シュラディックの練習に時間が費やされ、しばらく新しい形に慣れるまで毎日15分ず つレッスンに通うように言われた。そしてこの日から、先生の次の出張(10月10日) まで、ほぼ毎日レッスンに通うことになった。

9月25日

レッスンがあり、この日はビブラートのかけ方に重点がおかれた。ビブラートは音に 色彩を与え、表現力を出すために必要な技術であり、何通りものかけ方が存在する。 指を弦の上でただ前後に揺らすだけでなく、指の肉がたっぷりついている部分で弦を やわらかく包むように覆い、手の重さをかけて揺らすと、とてもあたたかいきれいな ビブラートがかかることを体得。ビブラートの習得は比較的すんなりいった。たいし た問題もなく、すぐ思い通りのビブラートがかけれるようになったが、弓を動かす際 に、肩が上がってしまうのがいっこうに直らない。弾いているうちに、両腕が硬直し てきて、元の弾き方になってしまう。寮でレッスンの録音テープを聞きながら、イメ ージトレーニングを積んで、次のレッスンに備える。

9月27日

午前中にレッスンがあった。そのあと、週末の休みを利用して、札幌出身の留学生安 見ちゃんと一緒に、ノボシビルスク大学で日本語を教えている千葉裕子さんの所に泊 まりに行った。千葉さんは安見ちゃんの叔母さんにあたる。千葉さんと安見ちゃんと は、丁度私がロシア留学を決心した頃、札幌で知り合い、ノボシビルスクでお付き合 いが始った。外国にいると(特にロシアでは)、文化や生活様式が異なるため、何か と不便なことが多く、そんな時は同邦人の存在がとても有り難かった。寮にお風呂が なかったので、お風呂に入らせてもらったり、懐かしい日本料理を食べさせてもらっ たり、千葉さんには、このさきもずっと本当にお世話になった。ひと時の息抜きの後、 寮に戻ると、また練習。というよりも、この頃はまだロシアの生活に慣れていなかっ たので、精神的にも少し不安定で、日本人に会って、愚痴って、しゃべって、笑って 楽しんだ後は、いつもその反動で深い孤独の谷間に落ち込んでいた。「何しにロシア に来たんだろう?」と自問した挙句、ヴァイオリンをケースから取り出して、練習す ることで孤独を癒していた。

9月29日

月曜日。この一年目のロシアの生活で一番ハードな曜日が、月曜日だった。朝8時45 分の1講目から14時50分の4講目まで、教育大学で日本語の授業をした後、ダッシュ で一路寮へ。マルシュルートという個人ワゴンタクシーに乗って地下鉄駅“リッチ ノイ バックザール”まで行って、地下鉄で4つ目の“クラースニィープラスペクト” で降りて、そのあとトロリーバスで約10分。スムーズに乗り継ぎが出来れば、片道 約1時間で通勤できるが、下手をすると1時間半かかる。慣れない間は、教育大学に 行って帰ってくるだけでへとへとだった。寮に戻るとすぐに腹ごしらえをして、朝 から触れなかったヴァイオリンケースを開け、練習を始める。夕方5時ごろにいつも レッスンが入っていた。寮から音楽院まで徒歩約40分。便利な交通機関がまだ整って いなかったので、遅れそうなときはいつもタクシーを使った。少しでも余力を残して、 レッスンで集中できるようにしたかった。この日のレッスンでは、フィンガリング・ ボーイングの基礎を一通りやって、ロシアではよく使われるH.Schradieck の “Exercises for Violin”を課題に出された。

9月30日

学業が順調に進みだした頃、オペラ・バレエ劇場の公演シーズンが開幕し、劇場通 いを始める。音楽院の学生は、学生証を見せると、関係者入り口から無料で入れて もらえる。席は一応立見席ということだが、空いている席があれば、座ることが出 来る。音楽院の学生だけでなく、バレエ学校の生徒も劇場には無料で通えるそうだ。 チケットを買ったとしても、日本のように高く、5ケタはあたりまえ、というよう なことはなく、こちらのチケット代は日本円に換算すると100円からせいぜい500円 ぐらい。劇場は国立だから、国家からの助成金が下りていて、一般の人でも気楽に 劇場通いができる。そういうところに社会主義体制のよき名残が残っているなぁと 思った。この日は、プッチーニの「トスカ」を観た。

10月1日

バレエ「白鳥の湖」を観た。ロシアのバレエ芸術は、奥深い伝統があり、表現力が 豊かで、繊細で、安定した確実な技術力を兼ね備えている。バレエにしても音楽に しても、ロシアは、秀でている。才能と技術的実力がバランスよく取れており、層 が厚いと思う。以前アメリカやフランスのバレエを観る機会があったが、それほど 印象に残らなかった。それにしても、ロシア人のバレリーナは、皆すらっとしてい て、スタイルがよく、目の保養にいい。この劇場では、札幌出身のバレリーナ、プ ローブニコワ・未央さん(旧姓鈴木)が踊っている。

10月2日

レッスンでは例のシュラディックの強化に徹し、和声の授業の方もだんだん難しく なっていく。午前中にソルフェージュか和声の授業、夕方にレッスン、帰りに劇場 へ行くというタイムスケジュールが出来上がってくる。

10月3日

レッスンでポジション移動の基礎固めをする。各指ごとに第1ポジションから第3、 その逆、といった様に。日本では、“中間音”というはしご的な音を利用しながら ポジション移動をする方法が一般的とみなされているが、グボースディフ先生のや り方では、「中間音を使ってもいいが、結局後で邪魔になるから、始めから理想に 近い形で練習・強化したほうが良い」ということだった。私はロシアに来る前に、 大学で4年間ロシア語を勉強していたので、ある程度の日常会話はマスターしていた。 始めてこの先生のレッスンを受けた一年前に比べて、私の耳が慣れた為か、レッス ン中に先生が言っていることはほとんど理解できた。先生はそつなく正しい適切な ロシア語を話す人なので、レッスンの録音テープがそのままロシア語の勉強にも役 立った。しかし、当時の私のレベルは、まだまだで、不通の授業にロシア人と肩を 並べて座れるほどの力は無かったので、どの授業もマンツーマンでしてもらって、 正解だったと思う。

10月4日

朝11時のソルフェージュの授業の後、2時にレッスンがあった。レッスンでは、 クロイツェルのC-dur とF-durのエチュードと3オクターブの音階(三度、六度、 八度)を課題に出される。レッスンの後、ノボシビルスク工科大学の日本人留学 生の高橋君の寮を見せてもらうことになっていた。ノボシビルスク市は、オビ川 によって、左岸と右岸に分けられているが、地下鉄で始めて左岸に行った。地下 鉄の駅で待ち合わせだったが、高橋君の変わりに知らないトルコ人が来た。アク セントのついたタドタドしいロシア語で「直子、日本人の?」と聞かれ、よくよ く話を聞いてみると、高橋君は具合が悪くて家で安静にしていて、代わりにトル コ人の友人イスマイル君が私を迎えに来たようだ。工科大学にはイスマイル君以 外にもたくさんのトルコ人留学生がいた。高橋君曰く、「トルコ人だらけ」だっ た。彼らもまた私同様、ロシアでディプロマを習得しようとしている人たちだっ た。地下鉄駅周辺のにぎやかな食料市場を通り過ぎたら、すぐ9階建ての工科大 学の寮が見えた。高橋君の部屋は二階にあって、トイレ・バス付で、台所がなか ったが、私の寮よりはましだと思った。「やっぱり音楽院の寮が一番汚いやぁ…」 とため息が出てしまう。音楽院の寮が汚いから、手頃なところに引越ししたいと 思ってみたが、1ヶ月50ドルの家賃で、好きなだけ音出しが出来る寮の環境は譲 れない。どこでも「住めば都」と考え直す。

10月5日

フィルハーモニーの演奏会を聞きに行く。この頃はまだ学生は学生証を見せれば、 開演間際の3ベルの後、無料で入場できた。今は、学生券を買わないと入れてく れない。何を聞いたが覚えていないが、とても音響効果の悪いホールで、弾く ほうも大変だろうなぁと思った。

10月6日

教育大学での仕事の日。レーナと一緒にする最後の授業だった。レーナがロシ ア語で日本語文法を説明し、私が教科書のテキストを読むというやり方でやっ ていた。四年生と三年生はやる気があって、授業を進めるのが楽だった。二年 生と五年生はクラスのまとまりが無く、やる気も余り感じられなかった。まず、 やる気にさせるのに、あの手この手を使って、「なんて手のかかる大学生なん だろう・・・」と落胆することがよくあった。私の頭の中にあった“ロシア人は 才能豊かな国民”という固定観念が見事に音を立てて崩れていった。日本の大 学生も遊んでばかりいて、授業をサボったり、単位を落としたりしてるけど、 「ロシアの大学生も同じじゃん!」と思った。そういえば、私も学生の頃は… と思えば、わからなくもないような気もした。次の日、レーナは北海道教育大 学に留学するためにノボシビスルクを発った。

10月7日

11時30分から一時間ソルフェージュの授業があり、夕方5時からヴァイオリン のレッスンがあった。クロイツェルのエチュードを使って、いろんな弓のテク ニックをやった。このプロセスは、グボーズディフ先生特有のメソッドらしく、 先生の元に弟子入りしてきたら、どんなレベルの人であっても一応例外なく、 この“基礎から始って基礎で終わる”プロセスを通過するらしい。知り合いに なった門下生のお母さんが、「始めのうちはつまんないでしょう、でも、大丈 夫。基礎が固まったら、どんどん先へ進めるから…。」と励ましてくれた。

10月10日

日本では体育の日で祝日。こちらは普通の日。11時半から和声の授業があっ て、夜7時からレッスンがあった。先生は翌日から韓国へ出張ということで、 今までの復習をしっかりするように言われる。私は少しバテ気味だった。 9月末からほとんど毎日か一日おきにレッスンがあった。日本人の先生は、 普通、こんなにたくさんレッスンをしてくれない。ブロン先生もそうだが、 “毎日のように弟子にレッスンをする”というのは、ロシア人の先生方の共 通した特徴かもしれない。ソ連の時代だった頃、ロシアの国民は毎日国家の 繁栄のために働いて、その代わりに住居や職場を国家に保障してもらってい た。その頃の勤勉さがロシア人の血肉と化して残っているのだろう。この頃、 グボーズディフ門下は一番人数が多かった頃で、全部で約40人いた。先生は、 責任感の強い人で、自分の生徒が下手に弾くのをとても嫌うので、どの生徒 にもしっかり稽古をつけていた。いつも朝8時から夜の8時まで音楽院の320 号教室にいて、土日祝日も休まず、レッスンをしていた。その働きぶりは 音楽院でも評判で、先生の門下生たちは、皆先生に倣って、勤勉に練習に 励むことをしっかり教え込まれていた。先生のようにここまで自分の職業 を愛し、没頭できるものがあるということは、素晴らしい事で、そんな先 生についてヴァイオリンを習っている自分は幸せだ、と心から思った。レ ッスンの後、開演時間には遅れたが、劇場へ「ラ・ポエム」を観に行った。 初演だったので、すごい人だかりだった。

10月11日

朝、レーナの両親の家へジャガイモをもらいに行った。ロシアでは, “ダーチャ”という家庭菜園付き別荘がある。日本の軽井沢のリゾート 地の別荘のような豪華なものではない。山小屋のような感じ。一概にお 給料が少ないから,ロシア人は食っていくために、夏の間にこのダーチ ャで野菜やジャガイモを作って、冬に備える。野菜も色々あり,トマト, キュウリ,ウリ,エンドウ豆、キャベツ、スビョークラ(赤かぶ)、玉ねぎ 、にんじんなど。木の実やラネートカという小さいリンゴを採集して、 煮て,ジャムを作る。秋は収穫時。夏の間に作った野菜やジャガイモを 倉庫かバルコニーに保存して,その後,必要に応じて調理するらしい。 レーナの両親は,私が食材を全部市場で調達するとお金がかかって大変 だから、と気を使ってくれ、山ほどあるジャガイモやにんじん、玉ねぎ を分けてくれた。ロシアの野菜は日本の野菜に比べると味が濃くて、美 味しい。北海道のジャガイモも美味しかったが、シベリアのジャガイモ も美味しい。

10月13日

教育大学で働いた後、夕方4時からアシスタントのサーシャのレッスン があった。先生が韓国に出張中なので、気が抜けてしょうがない。19時 から音楽院の大ホールでグボーズディフ先生のベトナム人門下生ブイ・ コン・ジュイ(つい最近国際チャイコルスキーコンクールの少年の部で一 位をとった)のソロのコンサートがあった。「ジュイはグボーズディフ先 生に習って5年目で、大きく成長した弟子のうちの一人」とサーシャは言 っていた。この日は、バッハのシャコンヌ、チャイコフスキーの小品、 イザイのソナタ6、フランクのソナタなどの演目で、音もきれいだった し、確かに上手だった。私も音楽院を卒業する五年後にはここまで弾け ているかなぁ…と心の中で思う。自分では、やれそうな気がするが、 相当な忍耐と努力が必要だ。練習練習の日々、そんな生活に本当に耐え られるのか?アマチュアオケあがりで、普通の大学を卒業した後、ロシ アで音楽院に入学、皆よりスタートが遅れているというハンディをどう 克服していくのか? ヴァイオリンはとても難しい楽器だから、たいて い早期英才教育を受けた人達が、ヴァイオリニストとして活躍している。 ただでさえ音楽で食っていくのは難しいのに…と考えると、この留学は 本当に意味のあるものなのか、と疑わずにはいられない。社会に出て、 働いて、遊んで、という普通の二十代の人が経験することを回避してい るだけではないかとも思った。私は、当時グボーズディフ先生門下では 後ろから数えたほうが早かったのだが、先生にレッスンを受けているこ とに非常に満足で、そんな自分が幸せ、と感じていた。先行き大きな不 安があったが、この先生についていけば、ベトナム人門下生のようにな れる、と私は自分を信じることにした。

10月15日

イーラのところにイーラのお母さんが違う町から遊びに来たので、一緒 に衣類市場に行くことになった。同じような品物が普通のお店で買うよ り安く買えるらしい。市場は屋外にあって、すごい人ごみだった。市場 の入り口でジプシーのお姉ちゃん達にからまれ、しきりに要らないもの を勧められた。私は、ノボシビルスクに来たときから、「君のその皮ジ ャンでは冬は越せないよ、ここはシベリアなんだから」と何人もの人に 言われていたので、 冬の防寒着を探した。毛皮のコートより羊の皮のコート(ドゥブリョン カ)と決めていた。 イーラ達とドゥブリョンカのコーナーに行って、いろいろ試着をしてみ るのだが、合うサイズがない。私に合う小柄なサイズがなかなか見つか らなかった。何件も小屋を回って探すこと一時間、疲れ果ててもう諦め ようかと言い出した頃、ちょっと大きめだが、合うサイズのドゥブリョ ンカが見つかった。3000ルーブル(約600ドル)で買った。高い買い物をして しまって、後でお金に困ったが、寒さだけはしのがなければ、という 思いだった。事実、このドゥブリョンカのお陰で、冬場何度も命を救 われた。

10月16日

朝と昼、練習して、夕方ジャズのコンサートに行った。先生が出張中 でレッスンがないので、リラックスしてコンサート通いが楽しめる。 寮に住むベトナム人たちの部屋に遊びに行って、お茶を飲みながら、 いろんな人の演奏ビデオを観た。

10月17日

午前中、ソルフェージュの授業があって、3時からサーシャが練習を 見てくれた。夜は、劇場へバレエ「ジゼル」を観に行った。

10月18日

午前中の和声に授業の後、イーラとラジカセを見に行った。1ヶ月間 テレビもラジオも聞けない生活を送り、もし安くていいラジカセがあ れば入手するつもりだった。ラジオで人の声や音楽を聴くことで、異 国の慣れない生活の中で感じられる孤独は半減するかもしれない、と 思ったからだ。最初、テレビにするか、それともラジカセか、迷った が、ラジカセに決め、町の電化製品屋をイーラと二人で見て回って、 手ごろなCDラジカセを買った。ロシアにもクラシック音楽が聞ける局 があるはずなのだが、なかなか周波が合わず、ロック音楽やポップス 等が頻繁に流れていた。

10月20日

日本ではめったにないことだろうが、ロシアでは水道の水がよく止ま る。この日は一日中水が出なかった。寮のセクションの台所の流し台 の周りは、住人達の汚れた皿や鍋の展示会状態。トイレも流れないか ら、悪臭が漂う。各家庭では、バケツ一杯分くらいの貯め水を取って おくそうだが、私は近くのキオスクでミネラルウォーターを買って、 急場をしのいだ。後で知ったことだが、寮のようなところ以外のアパ ートでは、なんらかの事情で水が止められる時は、前もって通知があ るようだ。しかし、たいていの場合はいきなりで、不親切という言葉 がぴったり当てはまる。当時ロシアの店員さんはかなり無愛想で、 サービスが悪かったが、不親切・不便はロシアのキーワードかもし れない。

10月21日

午前中和声に授業を受けて、4時からサーシャに練習を見てもらっ た。平凡な普段の生活。

10月24日

イーラと中央市場に食料品の買出しに行った。ルィノック(ロシア語 で市場という意味)では、普通のお店より2割から3割安く買える。し かし、肉類(牛、豚、鶏、羊など)が、パッキングされずに、台の上 に所狭しと並べられているのを見ると、「衛生上、大丈夫なのか?」 と疑わずにはいられない。奥のほうでは斧を振り上げて肉を切ってい る男の人がいて、横の棒に豚の顔がぶら下がっている。どうやら豚の 顔も売り物らしい。台の内側には約1メートルごとに売り子のお姉さん が立っていて、「お肉、どう?新鮮だよ」と通りすがりの客に声をか けている。日本の市場のイメージとだいぶ異なる。魚も売っているが、 ほとんど冷凍もの。ここでは絶対生の魚を食べてはいけない。イクラ はあるが、刺身というものは存在しない。自分で釣った川魚や子ブナ を売る年金生活者らしい人もいる。屋外には、果物ばかりのコーナー があって、日焼けしたカザフスタンやグルジアのアジア系の人達が、 アクセントのついたロシア語で商っている。卵は、売り子がトラック の中から出して売っている。産地直送という感じがするが、鮮度は定 かではない。人で混雑しているので、スリなんかもいる。私は何の気 なしにポケットにお釣りの10ルーブルを入れて、帰りにトロリーバスに 乗って料金を払おうとしたら、ポケットに入れたはずの10ルーブル紙 幣が消えていた。イーラにこのことを言うと、出口ですれ違い様にぶ つかった東洋系の男が怪しい、ということで意見が一致した。「10ル ーブルぐらいだったら、まあいいわ」と言うと、イーラは「10ルーブ ルあったら、ブーラチカ(菓子パン)とキフィール(酸っぱいヨーグルト)と ジュバーチカ(ガム)が一個買えたのに…」と横でため息をつく。ロ シアの人は貧困というものを知っているから、小銭も侮らない経済感 覚が身についているようだ。

10月26日

先生が韓国出張から帰ってきた。一番弟子のズュイはもうレッスンが あった、とご機嫌。私も先生に電話をかけたが、なんせ40人も弟子が いるから、順番と時間の制約というものがあり、先生に明日は無理だ から、明日の晩にまた電話をかけるように言われる。レッスンが待ち 遠しくて仕方ないのに…。

10月27日

ヴァイオリンの先生は、弟子が一杯いると大変な職業かもしれない。 一日に何人の生徒に稽古をつけられるか? ロシアでは1時間の授業 は45分と設定されている。朝の8時から晩の8時までフルで働いたと して、16人。先生には、アシスタントが一人いるが、先生は基本的 には不在のときのみアシスタントを使い、普段は一人一人に細かい ところまでしっかり教えてくれる。晩に電話をするが、「明日も無 理だから、明後日に」と言われる。看板先生はつらいなぁ〜、そし て、私は待ちくたびれたよ〜。

10月28日

音楽院の寮では1ヶ月に1回シーツ取り替え日がある。前日、寮長さ んに言われたので、朝一番に使ったシーツを返し、洗濯したてのシ ーツをもらった。午前中はいつものようにソルフェージュの授業に 出て、その後はヴァイオリンの練習。この日の夜、ラリーサママの 家でホームパーティーがあって、私も呼ばれていた。夜は練習でき ないから、昼間のうちにできることをさっさと片付け、深夜に寮に 一人で帰るのもなんだから、そのまま泊まることにした。この日、 ラリーサ宅では、テーブルの上にいつもの美味しいご馳走といつも とは違うアルコール類が並んでいた。上機嫌のセルゲイパパは、大 好きなコニャックを飲み、ラリーサママと息子のコースチャはビー ル、ウラジボストックからのゲストユーリャもビール。私はロシア のビールをじっくり味わったことがないので、ビールを飲んでみた かったが、セルゲイパパは仲間を作ろうと私にコニャックをひっき りなしに勧める。結局、私はコニャックを飲み、食事の終わりごろ に飲んでみたかったビールを飲んだ。これがいけなかった!少し気 分が悪くなったが、寝れば治るかなぁ、と楽観的に考え、その晩は 用意されたソファーベッドで寝た。

10月29日

翌日、二日酔い。朝からなんとなく具合が悪く、胸やけが止まらな かった。気分が悪かったので、レッスンをキャンセルしたい、と思 ったが、待ちに待ったレッスン。頑張って行くことにした。頭が朦 朧としていて、胸が苦しい。レッスンではいつものように弾き始め たが、何分か過ぎた頃、急に目の前が真っ白になった。「気分が悪 い…」間一髪で先生が私の手から滑り落ちそうになったヴァイオリ ンをつかんだ。私は目の前が真っ白で何も見えなくなった状態だっ た。すぐそばにあった椅子に座った。椅子に座ると全身の力がすぅ 〜っと抜けていき、少し楽になった。先生はびっくりして、「救急 車を呼ぼうか」と聞いてきた。私は、呼んで欲しいのか呼んで欲し くないのか自分でもよくわからず、ロシアの救急車って?と思いつ つも、「はい」と頷いてしまった。先生は急いで教室から出て行っ た。しばらくすると意識がはっきりしてきて、私は激しい吐き気を 感じた。急いでトイレに駆け込んだ。後から気づいたことだが、駆 け込んだトイレは殿方用だった…。(笑) 音楽院には各階に一つず つトイレがあり、奇数階は紳士用、偶数階は女性用だったが、まだ 始めの頃は音楽院の内部構造に精通していなかったが故にこういう へまをしてしまったようだ。幸いにも私が駆け込んだ紳士トイレに はだれもおらず、胸につかえていたものを全部吐いて、すっきりし た。教室に戻ってきたが、先生は電話をかけに行ってまだ戻って来 ていなかった。さっきの椅子に座って、静かに教室を見渡した。 「この教室で吐かなくてよかった…」と思った。先生が戻って来た。 先生は私の少し良くなった顔色を見て、「救急車はキャンセルする か?」と聞き、私は「ダー」と答えた。先生はまた電話をかけに教室 を出て行った。先生が私のせいで行ったり来たりしているうちに、 私はゆっくり椅子に座って、呼吸を整え、休んでいた。待ちに待っ た久しぶりのレッスンはこんな風につぶれてしまった。先生は、私 がちゃんと寮まで一人で帰れるかどうか心配してくれた。私は、大 丈夫ではなかったけど、大丈夫です、と答えて、やっとの思いで寮 にたどり着いた。部屋についたとたんに、疲れてぐったり。イーラ がまたまた出番とばかりに看病してくれた。何が原因なのか、この 時まで理解できていなかったが、「昨晩、コニャックを飲んで、ご 馳走を食べて、ビールでしめて、今日レッスンで気分が悪くなって 吐いた」とイーラに言ったら、「コニャックとビールを一緒に飲ん だからよ。お腹の中で混ざって、気分が悪くなったのよ。」と諭し てくれた。寮の隣人には、「ピアンナヤ ナオコ(酔っ払いの直子)」 とからかわれたが、苦しくて私はそれどころではなかった。ロシアに 来てこんな目に遭うなんて、私って一体…。

10月31日

元気になって、普段の生活に戻る。

11月1日

回復後の第一回目のレッスン。ポジション移動の練習・強化で、単音 から重音(3度、4度、5度、6度、8度、10度)の音階まで一気にやって しまった。重音のポジション移動の際、余計な音や雑音を最小限に抑 えるように心がけなければならない。

11月2日

イーラが、「マイナス30度のシベリアの冬に備えて、綿で窓の隙間 を閉じなければならない」と言って、窓の閉じ方を教えてくれた。 こちらの窓はすべて二重窓になっており、まず、通りに面している 窓をしっかり閉め、ナイフで窓の隙間に綿をつめていく。全部の窓 をそうやって閉じていくから、結構時間がかかる。ロシアの窓は大 半が木製で、窓を閉めた時、窓枠と窓の間に1〜5ミリ程度の間が 開く。その隙間を閉じないと、冬の間、一定の室温を保てないし、 マイナス40度になると暖房もあまり効かなくなるから、部屋の中で 凍えることになる。綿で隙間をつめ終わったら、キフィールという 乳製品か、石鹸をお湯で溶かした液体に、5〜7センチ幅の白布をひ たし、綿をつめた窓と窓枠を閉じるように貼り付ける。内側の窓も 同じように閉じる。そして、雪が解けて、暖かい春が来るまで、そ の窓は閉めたままにするそうだ。部屋の換気の為に、小さい“フォ ルタチカ”という小窓は閉じず、開けたままにしておく。ちなみに、 市民は暖房代を支払っている。ロシアの暖房は、日本のように各家 庭にストーブや暖房器具があって室温が調節できる、というような ものではない。高さ50センチ、横幅1メートル〜1.5メートル、奥 行き10センチぐらいのオルガンのパイプのようなもの(色はペンキで 塗られた白やベージュなど)が建物の各階、各部屋に備え付けてあっ て、冬のシーズンが始まると、町のセントラルヒーティング所でスイ ッチがオンになり、町の暖房機全部が一気に暖かくなる。窓と同じく、 春になって、暖かくなるまで、そのパイプは温かいままだ。だから、 ちょっとした温度差が出てくると、暑すぎたり、寒すぎたりする。

11月3日

教育大学での仕事の後、いつものように寮に戻って、ひと休み。 何を勘違いしたのか、レッスンは夕方5時45分と思い込んでしまっ ていて、だらだら出支度をしていた。スケジュール帳をチラッと 覗き込むと、5時15分と書いてあって、びっくり。「今は、5時5分。 遅れる…」急いで寮を飛び出し、道路わきで手を上げて、車を捕ま える。ロシアのタクシーは、大半が白タクである。「音楽院まで超 特急で」と言ったが、運転手はこのテリトリーに余り詳しくない人 だったようで、一方通行の道にはまってしまって、更には信号待ち で時間がかかり、音楽院に着いたのは、5時半近くだった。急いで 3階の教室に駆け上ると、廊下で先生がイライラしながら待っていた。 先生は開口一番「何があったんだ?」「すみません、時間を勘違い していました…」。このあいだの救急車の件といい、今回の遅刻と いい、この日本人は本当に大丈夫なのか、と先生に思われてしまっ ただろうか…。肩身の狭い反省モードの直子であった。この失敗は 二度と繰り返すまい。

11月5日

レッスンでは、クロイツェルのエチュードハ長調を使って、10通り 以上のボーイング奏法の習得および強化。ヤンポリスキー編集版が お薦め。夕方、フィルハーモニーのコンサートを聞きに行った。

11月6日

日本人留学生の高橋君とオペラ「蝶々夫人」を観に行った。劇場 で札幌の声楽家の藤田道子女史と知り合う。ノボシビルスク・グ リンカ音楽院の名誉教授で、時々ノボシビルスクに来るそうだ。 今回は1週間のノボシビルスク訪問とのこと。付き添っていた英語 通訳者のナターシャさんとも知り合いになり、自由時間の散歩や 買い物にお付き合いしたければ遠慮なくどうぞ、と誘ってくれた。

11月7日

ノボシビルスクのグリンカ音楽院には、1992年 日本音楽センターが設立された。毎年日本(主に姉妹都市札幌) から声楽家やお琴の先生がノボシビルスクを訪れ、ここの音楽院の 日本歌曲または琴を履修しているロシア人の学生にレッスンをする。 しかし、ロシアのキーワードは、「お金がない」。日本人の音楽家 達がここで日本歌曲やお琴のマスターコースを開いても、音楽院側 は謝礼やホテル代、交通費(国際線の飛行機代)を支払う能力がな い。(外国人留学生からはたっぷり授業料と称して外貨を搾取して いるくせに…)したがって、こうやって日本から来る人は、自分の ポケットマネーをはたいて、無料でレッスンをしに来るわけだから、 よほどボランティア精神旺盛でロシアに惚れ込んでしまっている人か、 国際交流のいう名のもとに何か貢献したいという献身的な人か、だ と思う。そんなことはさておき、昼間の自由時間に藤田先生と一緒 に“ミラノ・ピザ”に行った。日本にいたら絶対ご一緒できないと 思われるような人とピザを食べて、コーラを飲み、おしゃべりを楽 しんだ。一歩世界に飛び出すと、いろんな日本人に出会うチャンス が増えるようだ。

11月15日

音楽院での日本人のマスターコースも終わり、普通の生活に戻って、 1週間が過ぎた。この日は、安見ちゃんに誘われて、ノボシビルス ク大学の日本語を勉強している学生グループの集まりに顔を見せた。 彼らは、大学の東洋クラブの会員で、日露学生交流会(東京)の 日本人の学生達と交流しており、交換ホームスティで日本に数回 行っているようだ。だから、彼らの家には、私にとっては懐かし い海苔やふりかけといった日本の食材があり、おにぎりや焼きそ ばを作って食べた。割り箸「おてもと」が出てきて、全員に配ら れたときには、妙に感動してしまった。

11月16日

日曜日は、嵐の様な毎日の合間の休息日。たいてい平日できない 食料の調達や買い物をする。午後からまたレーナの両親の所に野 菜とジャガイモをもらいに行った。レーナのママが、「ボルシチ を作りなさい」と言って、いつもの様に気前よくスビョークラを 分けてくれた。本当にこの気遣いは有り難い。ロシアの主食は、 パンとジャガイモ。あらゆる料理にジャガイモが加えられる。 ジャガイモをゆがいて、つぶして、牛乳とバターで混ぜ合わせた ピュレー(マッシュポテトのこと)やジャガイモ入りピロシキ、 ポテトフライなど。サラダにもゆでたジャガイモが加えられる。 もちろんシー(キャベツ入りスープ)やウハー(魚スープ)、 ボルシチにもジャガイモは欠かせない。ボルシチは、赤かぶ(ス ビョークラ)をゆがいて、煮込んだ野菜スープのことだが、日本 ではなぜかその赤かぶがあまり栽培されておらず、あってもまれ で、大概缶詰めで売られている。

11月17日

教育大学で4コマ授業をした後、夕方 6時から音楽院でヴァイオ リンのレッスンがあった。働くと疲れる。そして、学業。二足 の草鞋(わらじ)はなんて大変なのでしょう!ちなみに教育大学 の給料は、はじめの1ヶ月は100ドル弱だったが、次の月からな ぜか半分になってしまった。同僚の人の給料の額を聞いて、びっ くり。20ドルや30ドル程度の給料でどうやって暮らしていけるの だろう? ロシアでは教師と医者の給料は、すずめの涙程である。 日本に比べると物価が安くて生活費が余りかからないが、ロシア では、お金が稼げない。頑張っても商売にならない。

11月19日

レッスンでは、ヴィニヤフスキーのエチュードニ長調を課題に出 される。一通り基礎のプロセスが終わったので、次から次へと雨 の様に課題が降ってくる。ヴィニヤフスキーのエチュード以外に もドントの“24のカプリース”op.35の中から1,3,5,6,8,20。 指づかいと弓順をレッスン中に確認した後、2回目あるいは3回 目のレッスンでは、もう暗譜で弾くことを要求されるので、テキ ストを覚えるのに本当に苦労した。

11月20日

私の誕生日の時に一緒にレストランへ行ったベトナム人のチン の演奏会があった。大学院の卒業試験らしい。チンはバッハと モーツァルトのヴァイオリンとビオラのための協奏曲、ブラー ムスの協奏曲2,3楽章を演奏した。開演に遅れてバッハは聞き 逃したが、モーツァルトは音色が柔らかく軽やかで、いかにも モーツァルトという雰囲気が出ていた。ブラームスは音程が定 まらず、イマイチだった。チンはこの日、大学院の前期試験に パスした。

11月21日

11時からソルフェージュの授業に出て、授業の後、急いで家へ 帰って練習。ここのところグボーズディフ先生はこれでもかー! というくらい立て続けに課題を出す。昨日のレッスンで、ベラ チーニのソナタをさらってくるように言われ、早速楽譜を入手、 コピー。そして寮の部屋で楽器を持って、ひたすら楽譜とにら めっこ。

11月23日

すごい課題の量なので、週末はスヴェタの実家にお風呂に入り に行く以外は、練習浸け。先生に習い始めて2ヶ月目。門下生 のお母さんが言っていた通り、はじめは音階やボーイングやシ ュラディックばかりでつまらなかたけど、曲が弾けるようにな ると、やはり面白い。

11月24日

教育大学の授業で、テキストを読んだり、練習問題をする合間 に、「百万本のバラ」の日本語の歌詩を訳して、カラオケで学 生に歌わせた。3,4,5年生の授業で試してみたが、一番乗って きたのは、一番乗りの悪かった5年生の男の子達で、リズムに合 わせて、楽しそうに歌ってくれた。意外な学生たちの一面を見た 後で、また教科書を開いて、読む練習を始めると、いつもと違っ た元気のいい声が教室に響いた(ちゃんとテキストの内容が理解 できていたかは別問題)。ちょっとやりにくかった学生達との距 離が、狭まったような気がして、嬉しかった。仕事でも何でもう まく行っている時は、気が楽。きっと自分が楽しいと感じられる 時は、相手もそう思ってくれていると思う。仕事の後、16時45分 から音楽院でヴァイオリンのレッスンを受けて、帰宅。夕食、練 習で、また一日が終わる。

11月25日

11時から和声の授業を受ける。寮に帰って練習をするのだが、隣 人のイーラと1歳になるイエバがよく私の部屋に遊びに来る。どう やらイーラは、娘のイエバにヴァイオリンを聞かせたいらしい。 イーラは、音楽院の寮に住んでいるが、音楽院の学生でもなく、 音楽家でもない。イーラの旦那のヴァロージャが警察官で、我々 のセクションの用心棒になるから、という寮長さんの独断で、 彼らは安い音楽院の寮の一部屋を賃貸している。日本では、大学 寮や社宅には関係者以外は住めないのが原則だが、音楽院の寮で はそういう原則とか規則はあってないようなもの。上の人がOK を出せば、どうにでもなるようだ。

11月26日

午前中は寮で練習。4時45分からレッスン。レッスンでは、右手 首の動きとボーイングを先生に丹念に矯正される。弓は握らない。 柔らかくつかんで、腕の重さを弓の木の部分に置くような感じ。 右手の親指の力を抜く。頭では理解できも、何年も弾いていた 弾き方から、違う弾き方に変えるのは、とても難しい。今まで の癖を取り除くのに、大変な時間と労力がかかる。少し油断す るとまた以前の定着した悪癖がにょきっと顔を出すからだ。

11月29日

日本人バレリーナの鈴木未央ちゃんの所に遊びに行く。未央ち ゃんは、二つ年下だが、ノボシビルスク在住歴が長く、ロシア での生活においては先輩で、ちまた事情をよく知っている。未 央ちゃんは、高校一年の一学期まで札幌の学校に通い、ここの バレエ学校に入学、卒業、ノボシビルスク国立バレエ団研修生 を経て、同団に就職という希有の経歴の持ち主。話を聞きながら、 未央ちゃんは15歳でロシアに来て、きっと人には言えない苦労を 一杯してきたんだろうなぁと感心した。若い日本人が頑張ってい る姿を目の当たりにすると、私も鼓舞される。

12月1日

教育大学で働いて、夕方6時からレッスンがあった。ベラチーニ のソナタを弾く。ヴァイオリンは弾くものだが、声楽家が歌う ように、ヴァイオリン弾きはヴァイオリンで歌わなければなら ない。私は、この“歌う”ということが苦手で、気分によって まちまち。どちらかというとテクニックを見せるほうが得意だ。 左指はよく動く。後でオリガ・バザノヴァ女史に出会い、私の 脳波記録を取って実証されたことだが、ポテンシャルな名人芸を 披露する芸術的能力はあるが、私は小さい頃からそれを引き出す 訓練をしなかったので、脳の大変深い所にその能力が潜在したま まになっている。レッスンでも、最初からは歌えなくて、先生に 注意されて、3回、4回と弾き出すと、なんとなくそれらしきも のに近づく。頭で理解できても、実行するのはとても難しい。 自己顕示欲はしっかりあるくせに、私の心理状況は、“人前で 弾くなんて、自分は下手だし、恥ずかしい”といった本当に幼 稚なもので、先生には「ヴァイオリンを持ったら、謙虚さは捨 てろ!」といつも何度も注意されていた。

12月2日

衣服(ズボンとパンツ)がいきなり外でずり落ちる夢を見た。 びっくりして目が覚めた。数日前、未央ちゃんの家に遊びに行っ た時、夢が何を暗示・意味するかというような本があって、気に なるからメモしておいて、後で聞こうと思っていたが、聞きそび れた。誰か夢に詳しい人、教えて下さい。

12月3日

知り合いになったオーリャ(当時フィルハーモニーのヴァイオリ ニスト)が、「日本人のソリストが来たから、聞きにおいで!」 と呼んでくれた。演奏会は子供のためのコンサートで、フィルハ ーモニーの大ホールで正午きっかりに始まった。ノボシビルスク フィルは12月末に初の日本公演をひかえていて、その演目の一つ のショスタコービッチのヴァイオリン協奏曲第1番を弾く仁村英治 氏が、オケとリハーサルを兼ねて合わせる為に、はるばるノボシ ビルスクに来たという訳だった。高森マネージャーと一緒にリハ ーサルを聞く。「仁村さん、なんかやりにくそう…。」リハーサ ル後、控え室に挨拶に行くと、仁村氏曰く、「オケのピッチ、440 きってるよねぇ。(*参照)」そう、指揮のカッツ先生は、オケが高音域で響く時に音がキンキンするのを非常に嫌い、低めにいつもチューニングしていた。(オーリャ談)それは、フィルハーモニーのホールの音響効果がとても悪く、悪いホールでいかに上手にオケを響かせるか、という所に原因があるそうだ。巷の話だが、オケの団員達は、テクニックも音楽性も兼ね備えた二村氏に、“スーパー・パナソニック”というあだ名をつけた。実は,私は、恥ずかしながら、ショスタコービッチのヴァイオリン協奏曲を、この時、生まれて初めて聞いた。とても難しい曲である。
* :1859年パリにおいて、一点イ音(ラの音)のピッチが440Hz と定められ、これがチューニング時の基準音(国際高度)となった。 しかし、その後、華麗な音響が世人の好みに合う様になり、実際の 演奏には、この国際高度より高いピッチ(442Hz)が使われている。

12月6日

意外とたくさんのノボシビルスク出身のロシア女性が、日本人と 結婚して、日本に住んでいる。勿論、残された両親や兄弟がいて、 娘或いは姉妹が日本人と結婚した、となると、他の日本人との交友 も自ずと芽生えてくる。そんなロシア人の一人、タマーラさんの所 に、未央ちゃんと当時はまだ未央ちゃんの旦那ではなく彼氏だった ビタリー(バレエダンサー)と安見ちゃんと4人で集まることになっ た。タマーラさんは、世話焼きの良いママで、とてもおいしい料理 を作ってくれる。たいていロシア料理は油やマヨネーズでコテコテ しているが、タマーラさんの料理はどちらかというとあっさり形で 日本人の口に合う。土曜日でレッスンも仕事も入っていなかったの で、久しぶりにみんなと日本語でおしゃべりをして、羽を伸ばした。 ビタリーは、とてもハンサムな好青年で、そんな彼を持つ未央ちゃ んが羨ましい限り。後で安見ちゃんと「未央はいい人を見つけたよ ね〜」と言いっぱなしだった。

12月7日

スヴェタの所にお風呂に入りに行く。いつも昼御飯を食べさせても らい、一人暮らしの私にはとても有り難い。週に一回家庭を感じれ るひととき。普段忙しい時は、適当にさっさと御飯を作って食べて、 練習するのだが、休日ぐらいはゆっくり美味しい家庭料理が食べ たいと思う。手鍋一つの生活で、手の込んだ料理を作ろうと思っ ても、一人分だと、面倒くさい。材料費の方が高くついて、時間 もかかる。それに、なぜか作った料理を一人で食べても美味しく ないのである。(腕が悪いというわけではないのだが…)日本だ とここで外食、ということになるのだろうが、ここでは気軽に入 れるようなレストランやファーストフード店がまだなかった。

12月8日

先生がダウンした。韓国出張から帰ってきて、ハードな毎日で疲 れが出たのだろう。 教育大学で働いた後、寮に帰って、ゆっくり昼寝ができるなんて、 なんて幸せ!いつも月曜日は仕事とレッスンが入っていたので、 体力的に大変だった。この日は、教育大から帰ってきて、疲れて だらだらしてあまり練習が出来なかった。仕事の後にレッスンが 入っていると、どんなに疲れていても気はしゃんとしていたのに、 不思議なことに、レッスンがないとヴァイオリンのケースを開け ようともせず、怠けてしまった…。

12月9日

午前中に和声の授業を受けて、寮に帰ってきてヴァイオリンの練習。

12月10日

先生が回復して、レッスンをしてくれた。例のエチュードとソ ナタを暗譜して弾いた。が、 音が悪いと怒鳴られる。力が入りすぎているからなのだろう…。 ヴァイオリンだけでなく、私生活でも、私は日本にいた頃からかな り力が入っていたような気がする。それが、演奏面、特に出ている ようだ。性格に問題があるのか、大学受験失敗が原因なのか。私は、 挫折や苦悩の中で、人とは違うという孤独と不安を抱えて、いつも 人生の出口を探していた。「もっと楽にいけばいいのに」と人に言 われ、自分でもそう思っても、それがなかなか出来ない性格だから 仕方がない。いったん意を決して日本を離れたのだから、逃げずに 真っ正面から努力をして、問題を克服していく以外に、道はない。

12月13日

レッスンで課題に出されていた7つのエチュードをすべて弾いた。 勘違いして間違えたりしてしまった。全部のエチュードを先生の前 で通して弾いてみると、どこが出来ていないか、自覚できる。そして、 今現在の自分の実力を思い知らされる。「先生は、無理だったら課題 に出さない」とあっさり言うので、こっちはその先生の期待を裏切ら ない様に頑張らなければ、と思う。

12月15日

早朝、教育大学に行く時、バス停で人だかりが出来、みんなが押し合 い圧し合いして、14番の小型バスに乗り込むのに、一苦労。だから、 いつもより1時間早く寮を出て、大学の教員控え室で練習することを 思い付いた。朝、誰もいない部屋でエチュードを弾き出す。なんてす がすがしいんだろう。このまま授業がなければいいのに、と思ってし まう。8時15分過ぎ頃から、廊下がざわつき出して、先生方が職員 室に入ってくると、もう止めないとまずい。教材をかき集めて、一通 り目を通し、3年生が待つ教室に向かう。学生達は私のヴァイオリン を聞いたのか、なんか秘密でも握ったかのように、にやにやしている。 「朝バスに乗るのに大変だから早く来ました」と言うと、彼らも8時 にはいつも大学に来ていると言う。3年生は私のお気に入りのクラスで、 いつも時間通りに始まり、宿題もしっかりやってくるので、とてもやり やすかった。仕事の後、レッスンがあり、ベラチーニのソナタとドント のエチュード5,20を弾いた。先生は厳しく、どんな細かいことでも見 逃さず、要求してくる。普段は優しいが、レッスン中は鬼のようだ。 (とてもこわい)

12月16日

一週間前から、フィルハーモニーが初の日本公演に行っている。東京、 新潟、松本などをまわるそうだ。オケで働いているオーリャが日本に いっている間、飼い猫の“モーツァルト”を預かっている。猫と住む のは初めての事だった。真っ白のオス猫で、年をとっているので、落 ち着いていて、手のかからない猫だった。だか、排泄の始末や餌やり など何かと大変だ。おしっこをしない機械の犬や猫がよく売れる、と いうのがなんとなく分かるような気がした。

12月17日

10時15分からレッスンがあった。先生のレッスンは、45分(ロシアで は1コマ=45分)できっかり終わる。何人も弟子がいるから、だらだら とはやっていられない訳だ。だけど、その短い45分間で、たくさんの 事を要求してくるから、一つももらさないように、と全神経を集中さ せる。保護者(お母さん)とレッスンに通うチビッコ達の場合は、マ マがしっかりメモ帳に先生の注意を書き込んでいる。密かに、そんな 熱心なママを持ち、将来が楽しみなチビッコを羨ましく思った。

12月19日

4時からレッスンがあった。私は、グボーズディフ先生に弟子入りで きて、とても運が良かったと思う。何と言っても、レッスンの量と要 求が多く、人柄が素晴らしい。これは、どんな習い事でも、先生選び の際には、とても重要な要素だと思う。

12月22日

教育大学で働いた後、3時30分からレッスンがあり、5時から“作曲家 の家”という所で、ミニ・コンサートがあるというから行ってみた。 シベリア地域の作曲家連盟があり、定期的に作品の発表や演奏会が行 われているそうだ。グランドピアノが置いてある広い部屋で、音楽院 の作曲科の生徒や指導者が自分の作品を発表した。アットホームなコ ンサートだ。最後に、作曲科の先生で、お琴を弾いているミハイル・ バグダーノフ氏が、日本に行った時に入手したCDの中から『三十三間 堂』(*参照)という作品をかけて、日本の作曲家の作品を鑑賞した。 作品を聞く前に、バグダーノフ氏に頼まれた高橋君がCDに付いていた 解説をロシア語に翻訳して、ロシア人のために説明を添えた。この 『三十三間堂』は、荘厳な出だしの後、日本のお寺には必須の静寂、展開、クライマックス…、となかなか手強い現代曲だ。私は、三十三間堂に行ったことがあったから、その時の感動を思い出しながら聞けたが、ロシア人達は曲の情景が思い付かず、ちょっと戸惑いの色を隠せない、という感じだった。こういうコンサートも、面白いと思った。
* :京都市東山区にある寺、柱間が33ある、堂内には一千以上の観 音像がまつられている。

12月23日

朝、昼と練習して、夕方から音楽院の大ホールで行われたロシアの民族 楽器ドムラとバヤンの演奏会を聞きに行った。1997年に母とモスクワ旅 行をした時、バラライカを買って(そんなに高くなく気軽に買える)、 押し入れの肥やしにしてしまったが、ドムラやバヤンをロシアの民族 楽器と意識して聞くのは始めてだった。後で分かったことだが、私は、 この時、始めてドムラ奏者アンドレイの演奏を聞いた。とても音楽的で、 人を退屈させない演奏をするので、いつまでも記憶に残っていた。

12月24日

寮の隣に住んでいるコーラス指揮科1年生のヤーナが、学生オケの演奏 会でヘンデルのオラトリオを演奏するというので、聞きに行った。ヤー ナは最前列のアルトで歌っていた。私の誕生日の時に一緒にレストラン へ行った美人のナターシャも2ndヴァイオリン後方で弾いていた。私は以 前オケで弾いていたので、懐かしくなって、また弾きたくなってきた。 カトリック教徒にとっては、クリスマス・イブの日だが、ロシアのクリ スマスは1月7日で、新年の前に「メリークリスマス!」というのは良く ないらしい。

12月25日

今年最後の教育大学で授業。3年生の女の子達が美味しい“ラファエロ” のチョコレートをプレゼントしてくれた。ロシアでは9月に新学期が始 まり、12月の終わりまでが前期、前期試験は正月明けの1月中に行われ る。試験といっても、日本のような筆記試験とは異なり、口頭試問の試 験の方が圧倒的に多く、“ザチョット”と“エグザーミン”(試験)の 二種類がある。研究社の露和辞典には“ザチョット”=演習などの成果 を試すために教師が試験に先立ち学生個人に対して行う面接テスト、と 書いてある。しかし、実際の所、“ザチョット”があれば“エグザーミン ”は行われないし、“エグザーミン”ならば“ザチョット”は行われない。 どちらか一つで、いずれも5段階評価。“ザチョット”は評価点付きの場 合もあるし、なしの場合もある。私は研究社の辞書にだまされて、5年生 の“ザチョット”と“エグザーミン”の日程を掲示板に張りつけた。“ザ チョット”の日、初めて5年生が全員揃って、びっくりした。1回も授業 に出てこなかった不届き物もいた。「子供(赤ん坊)がいて、自分の母親 も働いているし、預ける人がいないから、大学に通えなかった」という女 の子も何人かいた。漢字テストをし、「私の旅行」というテーマの発表を 日本語でさせたが、“テキトー”に出席していた男の子達より、子供がい て授業に通えなかった女の子達の方が文法もよく理解できて、よく出来る ので、またまたびっくり。評価を下すのに少しためらったが、「彼らの人 生、日本語でつまずいて…、というより、気持ちよく“ザチョット”を通 過させて、“エグザーミン”を受けさせてあげよう」と気前良く全員合格 ということにした。ところが、1月明けて、“エグザーミン”の日、誰も来 なかったのだ。私は、漢字や文法の総合テストを用意し、郵便局で自前で コピーして、張り切っていたので、ショックだった。「これは、もしかし て試験ボイコットかも…」と思い、講座長の所に相談に行った。講座長もびっくりして、すぐに5年生に電話してくれた。「私たちはもう“ザチョット”に合格したから、“エグザーミン”は受けなくていいはず」という答えが返ってきた。「掲示板には、“エグザーミン”の日程も書いてあっておかしいなと思ったけど、それは追試のことだと思った」と言う。“がっく〜ん”って感じ。 講座長は、その時始めて新任日本人教師の私に、ロシアでの試験のやり方 を説明してくれた。異文化の中で、“何もかも行き当たりばったり!”の 状態であった。

12月27日

今年最後のレッスンがあった。先生は、いつもより厳しく指摘してくるが、 レッスンが終わったら、「よいお年を!」といってにこっと笑ってくれた。 時折見せる笑顔が素敵でダンディーな先生であった。

12月31日

大晦日。スヴェタの実家で正月を迎えることにした。ロシアでは、お正 月に欠かせないものがある。それは、シャンパンともみの木(ヨールカ)。 もみの木は本物を家の中に持ち込み、鉢に固定し、球状の飾りをつるし、 小さなサンタクロースの人形や動物を飾る。金や派手なリボンを補足的に 添える。クリスマスツリーの飾り方は各国によって違うようだ。もみの木 を家に飾ると、木のいい香が部屋中に漂い、さわやかな気分になる。猫や 犬も喜んでツリーにぶら下がっている飾りで遊ぶ(壊してしまうこともある)。 ママは料理を作り、皆は大掃除、そして家族が順番にお風呂に入り、一年 の汚れを洗い落とす。初めてのロシアでの正月。気分はうきうきしていた。 10時ごろから料理で埋め尽くされたテーブルにつき、旧年に乾杯をして、 前菜のサラダから食べ始めた。11時50分頃から大統領のエリツィンの国 民へのお祝い演説。エリツィン氏は以前よりふけて見え、アル中である のが画面から見て取れた。こんな人が大統領で国がちゃんと治められる のか?と思わざるを得ない。11時59分になると秒読みが始まる。そして 12時。“ス ノービム ゴーダム”と言って、シャンパンで乾杯。あちこ ちで“ウラー”と歓声が上がる。花火も打ち上げられる。新しい一年が 始まった。しばらく席に付いて、ワインを飲みながら食事を続け、プレ ゼント(パダーラック)を交換する。日本のお年玉に匹敵するだろうか。 そして、新年のテレビ番組(主に歌番組)を見て、3時ごろに片付けて、 休んだ。若者達は深夜に集って、中央公園やレーニン広場を散歩する そうだ。どの民族も新年は明るく楽しく迎える。

1998年1月1日

ロシアのお正月は日本のお正月と少し異なる。昨日の晩からスヴェタの実家に泊 まっていた。ロシアの人は、美味しい料理を食べ、ワインやウオッカを飲んで、お しゃべりに明け暮れる。踊ったりする人もいるが、私たちは踊らなかった。私は、寝 不足を解消するために、ソファーの上でゴロゴロしていた。初詣に行って、おせち料 理とお雑煮を食べ、お年玉をもらって…という日本のお正月を懐かしく思った。

1月2日

寮に戻ってきた。昨夜、寮の地下室では、ディスコが行われ、イーラは踊ってき た、と言っていた。私は、正月気分も抜けて、練習を始めた。ちょっと楽器に触らな かったら、恋人に会いたい思いが募るかのように、ヴァイオリンが弾きたくなってく る。何もせずボーッと過ごすことが嫌いな私。典型的な日本人だと苦笑した。

1月3日

ブロン先生がノボシビルスクにやって来た。ブロン先生は、以前この音楽院で教鞭を 執っており、何人もの素晴らしいヴァイオリニストを育て上げた才能のある教育者・ 音楽家である。現在は、ドイツのリューベックの音楽院で教えている。グリンカ音楽 院では、ブロン先生を歓迎して、連夜、演奏会が催された。今夜は、我が師匠グボー ズディフ門下の演奏会で、ラウリアート(コンクール入賞者のこと)はすべて出演し た。7歳の韓国人の弟子から学生まで、総勢何人だっただろうか?演奏者が多すぎて 聞くのに疲れた。ベトナム人の門下生ズュイがとりで演奏会は終わった。皆上手に弾 いた、と思ったが、帰りのタクシーの中でズュイは、「先生は、ニチボー(何でもな い)と言っていたよ。先生が(生徒の演奏に)満足することは稀だからね」とブツブ ツ言っていた。私は、弟子にも厳しく、自分にも厳しい先生だな、と思った。

1月4日

初めてブロン先生の演奏を聞いた。先生は、ピアニストのイリーナ・ビノグラード ワさんとシューベルトやヴィニャフスキーの小品とフランクのソナタを演奏した。二 人とも息がピッタリで、なんて上手な人達なのだろうと思った。この頃は、先生は演 奏活動にも十分力を入れていたようで、音程もテクニックも定まっていた。才能のあ る音楽家だと思った。

1月5日

午前から昼にかけて、音楽院の小ホールでブロン先生のマスターコースがあった。 ブロン先生の言っていることは、とても的を得ていて、どんな曲でもたいてい暗譜で 弾いてみせるので、これはすごいことだと思った。受講生が限られた時間内でどんど ん上手になっていくのが目の当たりにできた。ブロン先生はテクニックを教授するの が上手く、小さな子供たちにとっては“いい特効薬”だ。夜は、マリーナ・クージン 先生の門下生の演奏会だった。一部は、門下生のソロの演奏、二部は“輝く弓”とい うヴァイオリン・アンサンブルだった。ロシアの民謡のアレンジやメドレーを演奏し ていた。「一人一人舞台にあげようと思ったら大変だから、イッペンに舞台にあげら れないかしら、と考えた所、このアンサンブルを思い立った」というおおちゃくなマ リーナ先生らしいアイデアは、とても好評だった。

1月6日

毎日のようにブロン先生のマスターコースに通った。聞いているだけで勉強にな る。グボーズディフ先生も他のヴァイオリンの先生も聞きに来ていた。ブロン先生 は、外見で私が日本人であることを知り、わざと私に知っている片言の日本語を披露 して、上機嫌だった。“子供のような”先生である。

1月7日

ブロン先生のセミナーコースや演奏会は地元のテレビでも特集ニュースとして報道 され、音楽院中がうきうきしている感じだった。それだけ周囲にエネルギーを発して いる人なのだろう。世界をまたにかけて活躍している人と話すだけで、不思議な力が 湧き出てくる。ヴァイオリンを弾いても、楽に弾けてしまう。うまくなった気分にさ せられる。不思議なパワーの持ち主だ。これぞ“ブロン効果”。そして、この日は、 ロシアのクリスマスだった。ロシアでもクリスマスに七面鳥を食べる習慣がある。こ の日も音楽院で演奏会があったから、食事はテキトウに済ませた。ああ、悲しいクリ スマスだこと…。

1月8日

ブロン先生のマスターコースは、この年が始めてだったらしい。とても高く評価さ れ、毎年この時期にマスターコースが行われることになった。ブロン先生にとって、 ノボシビルスクは、音楽教育活動の発信地で、“第二の故郷”と思っているようだ。 楽しい一週間だった。

1月9日

音楽院では、前期試験の“ザチョット”の週で、自習室は座る場所がないくらい混 雑している。私の場合、準備学部だから、試験はなく、年度末に(春先)入学試験が あると、言われていた。門下生の韓国人留学生キム・イル・ヤン君(一年生)も、私 と同じ曲を弾いていた。どうやら彼は本科の一年生だからもうすぐ試験があるらし い。私は、前期は試験がないけれど、気を抜かず、練習した。

1月10日

初レッスンの日。先生は、自分のクラスの演奏会も無事に終わって、ブロン先生の マスターコースや正月の休みをゆっくり楽しんで過ごしたようで、顔色も気分もよ い。が、レッスン中の厳しさは相変わらずだった。

1月11日

スヴェタの弟コースチャの誕生日だった。スヴェタの実家に行った。

1月12日

大学では、前期試験開始。故に、授業がない。つまり、仕事がない。月曜日だが、 ゆっくり朝寝をした。幸せ…。

1月16日

ソルフェージュも和声も先へ進んで順調だった。音楽院では、音楽史などの教科の 試験が終わり、1月中旬からはほとんど実技のテストのみ。同じベラチーニのソナタ を弾いているイル・ヤンは、日に日に腕を上げて、仕上げの段階に入っていた。正直 言って、試験がなくてちょぴり退屈だった。この音楽院のヴァイオリンのレベルは高 いから、変に人前で下手に弾けないし…。私の課題は、肩があがって、腕が硬直する 昔からの“癖”を完全に直すことだった。

1月19日

レッスンがあり、先生は、「春の入学試験のために何かヴァイオリン協奏曲を選曲 しないといけない」と言い出し、フランスの作曲家サン=サーンスのヴァイオリン協 奏曲第3番を弾くことになった。ヴァイオリンを何年もやっているのに、サン=サー ンスの協奏曲第3番は初めてだった。学生の時はオーケストラで楽譜を見て弾いてい たので、いざソロの曲を暗譜で弾くとなると、なかなか音符が覚えられない。音と指 づかいとポジションとボーイング。全部頭に叩き込まないといけない。だが、不思議 なことに、ある一定の練習量をこなすと、楽譜を見ずに弾けるようになってくる。記 憶力は、頭にも指の筋肉にもあるようだ。

1月21日

小さなお友達イエバの2歳の誕生日だった。子供の成長は早い!ママのイーラとパ パのボーバ達と御馳走を食べて、お祝いした。

1月22日

シベリアでの初めての冬。“寒い寒い”と脅かされていたが、住んでみるとそうで もなかった。窓は二重窓で、町のセントラルヒーティングのおかげで、部屋の中は意 外と暖かい。Tシャツ一枚で過ごせる。外に出る時は、キャベツのように衣類を着込 んで出なければならない。マイナス20度くらいだと、“ちょっと寒いかなぁ”という 感じ。マイナス28度を越えると、本当に寒くて、凍えてしまう。マイナス30度を越え ると、鼻の中(鼻水)が凍る感じで、風が顔面に当たって、顔がヒリヒリして痛い。 外から建物の中に入ると、すぐその温度差で顔が真っ赤になる。ヴァイオリンもケー スから出すとひんやりしている。しばらくはチューニングしても、音程が定まらな い。人間もヴァイオリンも生物なのだ。

1月23日

私のソルフェージュと和声の授業を受け持ってくれているのは、元ヴァイオリニス トで、現在音楽院学生課課長のヤーコブ・ファイン先生だった。白髪の気の優しい先 生で、その当時は学生課にコンピューターがなかったので(次の年から設置され た)、ファイン先生と秘書は、事務的な事を全部書面文書で処理していた。その仕事 の量と面倒くささは想像が付く。ファイン先生は、週2回の私の授業を、その山積み になった仕事から一時的に離れる口実にして、気分転換をしていたようだ。自分のモ スクワ音楽院時代の話やいろんな音楽家の四方山話をよくしてくれた。

1月25日

前期試験が終わって、この時期は冬休みだが、勤勉なグボーズディフ先生は休みを 取ろうとしなかった。音楽院も寮も、ガラガラの状態。皆、試験の苦しみから開放さ れて、休暇を利用して実家に帰っているようだ。私も気分転換を図り、アカデムガラ ドクの千葉さんの所に泊りに行った。いろんな話で盛り上がる。「直子ちゃん、いい 人いないの〜?」「日本にはいるのですけど…、やはりここで欲しいですよね〜」 「バグダーノフさんなんか、どう?」「えっ、それじゃ浮気ではないですか!?」 「…(笑い)」と、ここで話は終わったが、実はロシア人は、浮気や不倫は “全然 平気”と言う人が多いようだ。友達同士でもキスしてしまうし、ロシア人は、恋愛に 関して、自由奔放なところがある。日本人はシャイだから、いい年した男の人が一人 でいることはよくある話だが、ロシア人はある年齢になると、男も女も相手を見つけ てさっさと結婚してしまう(その代わり離婚率も高いようだが)。日本の女性で結婚 するより働くほうが楽しいという人がいるが、ロシアではお給料が低いから、旦那の 給料だけでは生活できず、女性も働かざるを得ない。結婚しても、働くし、家事も育 児もこなす。そんな不可避的運命が、ロシア人女性を強くたくましくする。

1月28日

レッスンでエチュードを全部弾いた。ドントop.35の1,3,5,6,8,20番のエチュード では、重音はすぐ全部の音が響くように、ポジション移動の際に左手の力を抜き滑る ように、音程、三度の重音音階の長三度と短三度が指盤上ではどうなるか、幅狭三度 か幅広三度に分析して練習することなど、注意された。大半の問題は、音程が定まら ないことだった。

2月1日

イーラの誕生日だった。当時付き合っていた彼の誕生日と重なっていたので、イー ラに便乗して、一緒にお祝いすることにした。ご馳走とケーキを作って、ワインを空 けた。寮には国際電話がかけられる電話がないので、私達は、唯一の手段である文通 でなんとか遠距離恋愛を維持していた。

2月2日

母からの手紙:『音楽は確かに年齢が影響します。それを承知で、なお音楽をやり たいなら、人の何倍もの練習と努力、そして人間性でカバーすることでしょう。好き なら出来る、不思議ですが。直子がどんな結論を出すのか楽しみです。音楽の勉強を 続けにロシアに再び行くというのか、それとも、やめるのか。直子はまだ24歳です。 これから、まだ60年も生きるのですから、慌てて決めることはないでしょう。私は、 22歳で教師になり、25歳でスモンになり、29歳で教師を辞め、大学院に進み、結局35 歳で塾のおばさんになりました。塾を辞めたら、おばあさんの家を作りたいと思って います。直子はまだ若いから、焦らないで、したいことをし尽くして、自分の心を満 足させて、周りの人に尽くして下さい。でも無理をしてはいけません。頭で考えてす るのではなく、自然体ですることです。人は、自分の為に生きるというけれど、人は 人に尽くすことが出来て幸せになれるのですよ。少々疲れました。今日はこの辺 で。』

2月3日

レッスンでは、サン=サーンスの協奏曲を弾いた。弓の持ち方を注意された。右小 指は丸くしておく。弾ける所と弾けない所があるので、弾けていない所を取り出して 重点的に練習しなければならない。細かい音符の所でも開放弦を使った音程強化法を 効果的に取り入れた。オクターブの重音や六度音程は、開放弦を利用しながらの練習 を怠らないように注意された。この忍耐の要る練習が後で実を結ぶのだ。

2月6日

レッスンがあり、エチュードを弾いた。ドントの1番は、五度の重音の音程は定 まってきたが、四度音程がいまひとつ。デタシェで弾く3番は、アクセントをもっと 強調して、フレージングをもう少しはっきり表現して歌う。5番は、十度などの難し い所は弾けたが、簡単な所が全くだめ、音程が定まらない。20番は、ポジション移動 の時に指を和らげて力を入れない、また音程が悪い。ヴァイオリンは、ギターと違っ てフレット(*)がないから、音程をとるのがとても難しい。1ミリでもずれると音 が変わる。故に、ピアノと違った“音を創る楽しさ”があるが、100発100中にするに は大変である。開放弦や隣の音を重音で鳴らして、音を磨く作業をしなければならな い(ロシア語では“チースチッチ”=@汚れを落とすAジャガイモなどをむくB何か を磨いてきれいにするという意味)。根気の要る作業である。
*:マンドリン・ギターなどの弦楽器の棹についている勘所の横桁のこと。

2月8日

日曜日なのに先生はレッスンをしてくれた。本当に良く働く先生だ、と感心してし まう。元のボーイングでアップ、ダウンの方向に変える時、勢いあまって次の音を突 いてしまう。またクロイツェルのお決まりのエチュードに戻り、元弓10センチくらい でチマチマ弾く練習をさせられた。サン=サーンスの協奏曲では、フォルテの音が鳴 らないから、弦の上に右手を置いて、押すように、と言われた。これが思ったより難 しく、右手を上手に置けて、弓が動かせれば問題はないが、右手を置いたとたんに、 腕が硬直して、弓を動かそうとすると右親指が上に上にと逆らうように動き出す。頭 で分かっても、実際にできるかどうかは???である。なんて分からず屋の腕なの だ、と地団駄踏んでも仕方がない。そうやって長年弾いてきたのだから、それを白紙 に戻して一からやり直しと言うのも、そう簡単にできることではない。でも、私に直 そうと言う気持ちがあって、直そうと努力しているから、先生は懸命に注意してくれ る訳だ。“言われているが花”ということかな〜。

2月9日

短い冬休みも終わり、後期が始まった。教育大学での授業の日だった。前日の晩、 張り切って遅くまで準備をしていたから、朝起きるのが辛かった。学生達は長い休み の後“だら〜ん”としてしまっていた。皆の反応が鈍かった。教育大学への往復。久 しぶりだったから、身体的な疲れも倍に感じられた。昨日レッスンがあったから、今 日はなかった。ホッ!

2月11日

チョット体調が悪い時や女性の場合だと月に1回はしんどい時期がある。しかし、 グボーズディフ先生は容赦しない。「いつも正しい音程、美しい音で弾かなければな らない!」これは先生の口癖だった。こんな先生についていたら、だらぁ〜とした ペースでは生活できない。先生は毎回いい刺激と叱責を与えてくれる。しかし、私の “音程”はいつまでも足踏み状態で、それには先生も閉口していた。どうしたものか …。

2月18日

レッスンで協奏曲を弾く。全体にわたって、音が硬く、割れていると怒られる。エ チュードの方は毎日の積み重ねが功を奏して、良くなってきている。“本当の実力” とは、どんな状況でも、常にできる能力のことを指す。私は要領の良い性格だから、 レッスン中に指摘されて、その場でさっと直せる。しかし、それは本当の実力とは言 わない。毎日こつこつ積み上げて、その成果が実る時、どんな状況にあっても確実に 技や音程を決められる時、“真の実力”が現われるのだ。

2月20日

レッスンでヴィニャフスキーのエチュードを弾いた。音程の怪しい所があるが、い い音が出ている、と誉められた。先生は、めったに誉めない人なので、誉められると とても嬉しい。9月末から先生に習い始めて、この段階で以前の悪い“癖”はほとん ど消えつつあった。シュラデックの練習を弾かされたが、10月の頃と比べると指の動 きと音の質が断然違うことに気づいた。ヴァイオリンの持つ本当の音色を知った。私 はそれだけで幸せだった。ロシアに来た甲斐があった。

2月22日

一日おきにレッスンが入るようになった。大変だ。練習が間に合わない…。朝、音 楽院に行く時、いつもより寒いと感じた。鼻の中が凍るような感じで、息がしにく かった。中央郵便局の電光温度計を見ると、マイナス34℃だった。いつものように 320号教室に入ると、先生は「どうだ、シベリアの寒波は?今日は寒いだろう」とに こにこしながら言った。「寒くて息ができません」と答えると、「暖かくして風邪を ひかないようにしなさい」とまじめにアドバイスをしてくれた。

2月23日

ロシアには、女性の日(3月8日)と男性の日がある。この日は、守護者の祝日と称 し、男性を祝う日だが、休日ではない。教育大学で働く日だった。2講目と3講目の間 の昼休みに、講座の講師達が集まって、ケーキやお菓子やピロシキなどを食べた。日 本にはない祝日で、珍しいと思った。

2月25日

ソルフェージュの授業に聞き取りをした。ファイン先生がピアノを弾いて、制限時 間内にその音符をすべて五線譜に書き取らなければならなかった。二声の18小節程度 のものは難なく書けるようになっていた。この日、レッスンもあり、クロイツェルの エチュードを復習した。基礎固めは何事においても大事なこと。9月から始めた腕の 矯正を含め、もう一度一から復習させられた。音がいい音に変わり出したことに自分 でも感心していた。

3月1日

日本では節分が冬の終わりで次の日から春の始まる、とみなされているが、ロシア ではこの日が春の1日目とみなされている。レッスンがあり、ドントのエチュードを 弾いた。左の小指が硬直していること以外は、特にこれといった注意もなく、無事に 終わった。最近、先生はよく褒めてくれるようになった。う〜ん、進歩だ!

3月2日

教育大学での仕事の日。北原白秋の「アメンボの歌」を3年生と一緒に読んだ。ス ヴェタと二人のアンナはいつも良くがんばっている。なんとか彼らを日本に行かせて あげたい、と密かに思い始めていた。ノボシビルスク国立教育大学は、北海道教育大 学と交流があり、文部省の奨学金を受けて、留学することが可能だった。講座長か ら、今年は学部2名と大学院1名の3名の枠があることを知らされた。「誰が一番有力 か?」と聞かれて、私はめぼしい生徒の名前を言った。びっくりしたのは、学部長の 息子が2年生で日本語を勉強しており、息子を日本に送りたいと、学部長直々の申し 出があった事だ。が、「まだ文法も少ししか知らないし、早すぎる。来年まで待った ほうが良い」とキッパリ断った。私達は、皆に平等にチャンスを与える為に、早速、 週末にシベリア北海道センターで、「私の夢」という題で、選抜コンクールをするこ とにし、希望者を募った。

3月4日

レッスンがあった。ドントのエチュードとサン=サーンスのコンチェルトを弾い た。左の3の指を押さえる時に4の指が硬直しないように注意された。音程と音色のこ とについては相変わらずいろいろ言われ、重量のある音を出すことを要求された。次 回、エチュードのテストをすると予告された。

3月5日

昼間、胸騒ぎがした。何か悪い事が起きたような感じがした。人の勘というのは、 当たるもので、いつもお世話になっているスヴェタの実家に泥棒が入った。スヴェタ が、3月21日に札幌で結婚式を挙げる予定だった。その時期に、スヴェタの両親は札 幌へ行く。そのことをどこかから知った悪い人が金目のもの目当てで、留守中に入り 口からアパートに侵入。テリーというコリー犬がいたが、生肉でつられ、猿轡をかぶ せられ、2匹の猫と一緒にバルコニーに追いやられ、内側から鍵を閉められ、締め出 され、棚や引き出しを荒らされ、幾ばくかのお金が盗まれ、冷蔵庫からペリメニの袋 まで持っていかれたらしい。幸い、日本までの飛行機代とロシアで買った結婚指輪 は、パパの職場に保管してあったので無事だった。ママは、「盗られたお金はたいし た金額ではない。テリーと猫達が殺されなかったことが不幸中の幸い。」と胸をなで 下ろしながら、言っていた。警察に届けて、このことがあって以来、この家では、警 備保障警報器を取り付けた。ロシアでは、泥棒や盗難は日常茶飯事で、本当に気分を 害される。

3月6日

レッスンがあった。去年から先生の言われてきた事を全部できるように…と気合い を入れてレッスンに臨んだ。全エチュードを初めから終わりまで止まらず全部弾い た。先生は静かに「十分だ!」と言って、合格点をくれた。ウラー!(万歳!)“塵 も積もれば山となる”のだ。入学試験で弾くエチュードを二つだけ選んで、これから はコンチェルトを重点的にやっていくことになった。

3月8日

シベリア北海道センターで、留学者選抜コンクールが行われた。審査員にセンター の第1秘書で、日本語の上手なイリーナ・プーリックさんを招待し、私と、教育大学 のもう一人の日本語教師イリーナ・マジンスカヤの3人で審査した。学生達は、順番 に「私の夢」というテーマで、スピーチした後で、審査員からの質問に答えた。3年 生、4年生、5年生の積極的な女の子達は皆チャレンジした。「日本で日本語を学ん で、将来、ノボシビルスクの学校で日本語を教えたい」と言ったリューダと、3年生 で実力はまだまだ足りないけど、発音がきれいで、根性があり、日本人に好印象を与 えそうなスヴェタと、浮世絵についての卒論を書いたばかりのアーニャの3人を留学 生候補に選んだ。コンクールでは、ついている人と、ついていない人がいる。まさに 運である。気が強く、わがままな生徒は、日本に行っても、人間関係で問題の種にな る。私は、日本人に可愛がられそうな素直な性格の生徒を選んだ。それは、何といっ ても最終的には“人柄が物を言う”ので、それは日本語の能力よりも大切な要素だと 思ったからだ。

3月12日

教育大で問題が生じた。もう一人の日本語教師のイーラが、札幌に大学院生として 行きたいと言い出したからだ。イーラは1年間北海道教育大に留学し、去年ノボシビ ルスクに戻ってきた。つい最近年下の人と結婚したばかりだった。新婚生活がスター トし、イーラはとても幸せそうだった。大学院の留学生の枠が1つあったので、勿 論、私はイーラに行きたいかどうか聞いた。彼女は、「恋人と1年離れ離れで、今 やっと一緒になれたばかりなので、これから1年半また離れ離れに暮らすのは嫌だ」 と断った。この気持ちは、遠距離恋愛中の私には痛いほどよく分かった。それで、私 達は選抜コンクールで、5年生の浮世絵に書かれた文字を研究しているアーニャを選 んだのだが、イーラの気が変わって、彼女はアーニャと直接話をして、「譲っても らった」と言った。私はびっくりして、アーニャに電話をかけると、アーニャは 「イーラに奪われた」と泣きじゃくっていた。二人の話を聞いていると、頭がおかし くなりそうだった。明らかに二人は喧嘩状態にあった。講座長と相談した結果、別の 教育大卒業生で、小学校で日本語を教えているカーチャを代わりに送ることに決め た。去年の秋、寮まで車で送ってくれたワーニャの彼女ということで、私は、カー チャのことを知っていた。意外な偶然で、その日、夜遅くまでかかって、私達は大急 ぎで締め切りの迫った書類を書き上げた。

3月16日

スヴェタのパパとママが札幌に発った。私は、彼らの留守の約1ヶ月間、大学1年生 のコースチャと一緒に住むことを頼まれていた。コースチャは、野菜嫌いの偏食で、 何を作っても、「オエェ〜」っと言って食べてくれない。私もロシアの食材での料理 の仕方がまだ分からず、オーブンで半生のジャガイモと鶏肉が出来上がってしまっ て、お粗末なものだった。コースチャに、「直子は料理ができない」と言われる度 に、「本当は上手に作れるのに、ロシアだからさぁ…」と言い訳をしていた。

3月18日

レッスンはコンスタントにあり、だんだん上手になっていっているのが目に見えて 分かる。問題の音程も定まってきた。

3月21日

札幌でスヴェタ結婚式が行われた。相手は北大博士課程のボリビア出身の留学生ゴ ンザロ氏。私達は、ノボシビルスクの家でホームパーティーを催した。先日、教育大 の留学生選抜コンクールで選ばれたリューダと彼氏のイーゴリと、安見ちゃんが来 た。“プロフ”というウクライナ風ピラフを作ったが、後で水を足しすぎて、お米が ベトベトに仕上がって、大失敗。またコースチャに「直子は料理が下手だから、直子 には料理をさせない方がいい」と言われてしまい、赤面状態。目分量で作るからいつ も失敗するのだった。かといって、いい料理の本なんて、まだ店頭に並んでいなかっ たし…。料理に関しては、不成功の連続だった。

3月25日

レッスンがあり、サン=サーンスのコンチェルトのピアノ合わせがあった。ピアノ と合わせると、惑わされてしまい、いっぱいミスをした。不十分な所を家に帰って復 習した。

3月27日

日本に行っているスヴェタの両親は、3日ほど私の大阪の実家に泊まった。ノボシ ビルスクで私がお世話になっているから、ということで、武原家の皆は彼らにできる 限りのことをしてくれたようだ。あまり社交的でない父も仕事を休んで、彼らに大阪 の町を案内してくれた。ノボシビルスクで、半分羨ましい気持ちで練習する私だっ た。

3月30日

レッスンがあり、ピアノと合わせた。ピアニストはベテランで、とても上手に伴奏 をしてくれた。先生は、「すごく良くなったから、この調子で!」と褒めてくれた。

4月1日

エイプリルフール。ロシアでもあるようだ。寮母さんの11才になるスラーバという 息子は、何とか私をだまそうと必死だった。「火事だ!」とか「爆弾が仕掛けられ た!」とか、息を切らして、叫びながら私の部屋に駆け込んで来ては、「な〜ん ちゃって」で終わるのだった。単なる悪ふざけをしているだけだった。悪がきという のはどこでも一緒(?!)。このエイプリルフールという伝統自体、馬鹿げているのか も…。

4月8日

グボーズディフ先生は、レッスン中に、「来週中に入学試験をするつもりだ」と 言った。もうだいぶ曲も仕上がったし、どんどん先に進む為に早いこと入学試験を終 わらそうという魂胆だった。ロシアの試験の日程は、日本の厳格なスケジュールと 違って、かなり自由で融通が利く。奨学金をもらって無料で勉強しているロシア人の 学生以外の外国人留学生は、個人のペースに合わせて日程を選ぶことができた。

4月13日

教育大学で日本語の授業をした後、一路音楽院へ。先生は試験前だから、しっかり レッスンをしてくれた。2ヶ月前は音程や腕の癖が取れなくて悩んでいたが、音程も 定まってきたし、腕も硬直しないようになった。ヴァイオリンをやり直す為にここに 来て良かったと感じられるようになっていた。

4月16日

昼の1時から302号室の教室で入学試験が行われた。黒のブラウスがなかったので、 イーラに借りた。試験官は、ビオラのマッシェンコ先生だった。最初に韓国人留学生 のイル・ヤン君がメンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルトを弾いた。彼は1年 生後期の試験だったようだ。その後で、私がエチュード2曲とサン=サーンスのヴァ イオリンコンチェルトを弾いた。教室の真ん中に立った時、頭の中が真っ白になっ て、何を弾けばいいのか忘れてしまい、大パニックに陥った。が、冷静に目を閉じ て、頭の中でヴャニヤフスキーのエチュードの冒頭のフレーズを歌って、勢いよく フォルテで弾き出した。初めの10秒間ぐらいは緊張で手が震えた。ビブラートは左手 でかけるものだが、緊張して右手の弓が振動することを、“ビビラート”という。通 常のレッスンでは全然かからなかったのに、本番では思いがけずその“ビビラート” がかかっていた。間違ったり、ミスもほとんどなく、全部弾き終えた。結果は、優 (5)だった。先生は、私が短期間でがんばって奏法の癖を直したことを褒めてく れ、この調子で音楽院で5年間修行を積むと、5年後にはとても高いレベルに到達でき るだろう、と言ってくれた。とても嬉しかった。次の課題に、パガニーニのカプリー ス24とチャイコフスキーの瞑想曲とヴャニヤフスキーの華麗なるポロネーズ第2番 をもらった。

4月17日

毎週金曜日の1時から日本音楽を研究している助教授のマリーナ・ドゥブロフスカ ヤさんが、日本音楽史の講義をしていたので、ちょっと聞きに行った。日本音楽の歴 史なら大体知っているし、それをロシア語で聞いて、ヒアリングのトレーニングをし ようと思い付いたからだった。来年からロシア人と同じ授業に出席して、ノートを取 らなければならない。そのリハーサルのつもりだった。マリーナ先生は、飛鳥・奈良 時代の音楽史の講義をした。雅楽(日本の音楽)・唐楽(中国の音楽)・狛楽(韓国 の音楽)・度羅楽(タイの音楽)・渤海楽(渤海国の音楽)の分類や宮廷音楽家の名 前、雅楽の楽器の名称などを説明した。よく知っているので、舌を巻いてしまった。 とても面白いので、これから毎週通うことにした。

4月21日

専門の試験は合格したが、ソルフェージュと和声の入学試験が残っていた。週に2 回、ファイン先生の所に通い、聞き取りをしたり、和声の問題を解いたりして、入試 に備えていた。和声は、冬休みにロシア語の和声の教科書を1冊丸ごと日本語に訳し た時点で、分かるようになった。もちろん、日本では、ここまで深くやらないと思わ れるようなことも出てきていたが、私は和声の理論を数学の公式のように捉えてい た。実際に作品分析の段階になると、まだまだ知識が足りないと痛感したが、作品分 析は試験の科目ではないので、単なる実践的応用として通過した。

4月24日

日本音楽の講義に出席した。この日は平安時代の音楽史だった。御神楽(宮中で行 われた神事歌舞)・催馬楽(雅楽の一種)や平安中期に流行った朗詠や今様、日本の ペンタトニック音階や平拍子の形成について、マリーナ先生は喋り捲った。日本人の 名前に関しては怪しい所がなきにしもあらずだったが、彼女の日本音楽についての知 識の量とその愛着には脱帽した。密かに私よりよく知っていた。異国に居ながら、外 国人に自国の音楽文化史を習うなんて、思ってもみなかった。マリーナ先生はそれで も謙著な人で、いちいち私に合っているかどうか確かめるので、うかうかしていられ なかった。わからなかった言葉は、家に帰って、急いで「新音楽楽語辞典」で調べ た。

4月27日

教育大で日本語の授業をした。9月の時点で学生は皆どんぐりの背比べだったの に、この時期には,できる生徒と落ちこぼれの生徒の差がはっきり出ていた。3年生と 後期から始まった1年生は成長株だった。4年生は日本行きが決まったリューダ以外 は、日本語を勉強する目的を失ってしまったかのように沈没してしまっていた。2年 生はまとまりがなく、授業が進まない。何人か以外は落第点(2)状態だった。1回 も授業に出てこず、顔を見たこともない学生もいた。この日は4時から講座の学芸発 表会が大講堂であり、4年生のマーシャに頼まれて、ヴァイオリンの演奏を披露し た。タンゴのメロディーを弾いて、拍手喝采を浴びた。会場は満員で、詩を読んだ り、寸劇をしたり、ゲームをしたり、皆楽しそうだった。私は、レッスンが入ってい たので、自分の番が済んだら、すぐ音楽院へ向かった。

5月1日

メーデーで祝日だった。テレビではモスクワの“赤の広場”での軍隊のパレードが 放送された。ノボシビルスクの“赤の通り”でも地元の軍事訓練学校のパレードが披 露されたらしい。センター街のレーニン広場は、歩行者天国になって、すごい人だっ た。

5月5日

シベリア北海道センターで“子供の日”のお祭り行事が行われた。音楽院の琴奏者 バグダーノフ氏と宮城道雄の「春の海」を演奏した。私達の演奏は好評で、地元のテ レビでも放送された。ロシア人のバグダーノフ氏が日本の伝統的楽器を弾いて、日本 人の私が西洋のヴァイオリンを奏でる所から、“良い文化交流の象徴”と称された。

5月8日

ソルフェージュと和声の入学試験があった。ファイン先生は親切な人で、ソル フェージュの聞き取りは一回やったことのあるメロディーだった。だから、もちろん 満点が取れ、和声の口頭試問もそんなに難しい問題ではなく、楽勝だった。5点満点 をくれた。すべての入学試験に合格して、晴れて本科への入学が認められた。

5月9日

戦勝記念日。53年前、ドイツが降伏し、第二時世界大戦が終わった。ロシアでは、 どんな祝日よりもこの日が一番明るく、貴いらしい。ソ連は独ソ戦争で勝ったもの の、大量の犠牲者を出した。各家庭の誰か親戚がこの戦争で亡くなっている、と言っ ても過言ではない。この日、戦勝記念公園の火は赤々と燃え、各都市で祝典が行わ れ、一般の人々は戦争で亡くなった人のお墓参りをするそうだ。そして、レーニン広 場には出店が出て、夜、花火が打ち上げられた。大阪のPLの花火に比べると“月と すっぽん”だが、日本では考えられない祝日で、日本は敗戦国なので、この祝日には 少し戸惑いと違和感があった。

5月11日

レッスンがあった。課題に出された曲は全部覚え、音程を磨く段階にあった。パガ ニーニのカプリースやポロネーズは、なかなか手強く、まだゆっくりのテンポで弾い ていた。テクニックは、アルペジオ・音階・和音・フラジオレット・とばしなど、項 目別に分けて練習するように言われた。

5月14日

父からの手紙:『元気のようで何よりです。まずは合格おめでとう。これまで努力し たことが、結果として合格となり良かったと思います。さて、引き続きヴァイオリン の勉強を続けたいとのことですが、直子自身のことですので、私達に異論はありませ ん。自分のやりたい目標を目指して頑張ることを大事にしていってほしいと思いま す。ただ、学費や生活費がいると思いますが、どう考えていますか?昨年でわかるよ うに、自分でアルバイして、全額をまかなうことは困難だと思います。親の援助無し には到底続けることはできないでしょう。早めにちゃんと依頼するようにしなさ い。』
親の理解なしでは、この留学は実現しなかっただろう。素直に感謝しよ うっと。

5月15日

マリーナ先生の日本音楽史の講義に出た。鎌倉時代の音楽史についてだった。平曲 の出現や琵琶法師の辺りや奈良時代にインドから中国を経由して伝わった声明が複雑 化し、天台宗や真言宗などの宗教と結びついて、平曲・謡曲・浄瑠璃などに影響を与 えた、ということは、歴史に強かったので覚えていた。人間の記憶力と言うのもあな どれない。

5月17日

音楽院で第2回国際ヤングヴァイオリニストコンクールが始まった。日本人の審査 員と参加者が来るということで、私は絶好の通訳として駆り出された。続々と世界各 国から審査員や参加者が到着した。私はグボーズディフ先生と審査員の岩淵龍太郎先 生を空港まで迎えに行くことになった。モスクワからの飛行機は朝早く到着する。 「明日の深夜4時に寮まで音楽院の車が迎えに行くから、寮の前で待ち合わせ」とい うことになっていた。日本人の感覚では、一日は朝から始まり、朝→昼→晩→深夜と いう順番だが、ロシア人は、深夜が最初にくる。深夜→朝→昼→晩の順なのだ。私は 何を勘違いしたのか、岩淵先生が到着するのは月曜日の未明なのに、日本人的感覚 で、てっきり火曜日の未明と解釈してしまっていた。

5月18日

月曜日だったので、教育大で働いて、まっすぐ帰宅。御飯を食べて、昼寝をして、 深夜の出迎えに備えた。5月といってもシベリアの朝夕はまだまだ冷え込んでいたの で、温かい格好をして、早朝4時に寮の前で音楽院の迎えの車を待っていた。4時15分 になってもそれらしき車は来ない。タクシーを拾って、一人で空港へ行こうかと思っ たが、それも危険だし、思い止まった。4時30分になっても先生を乗せた車は来な かった。胸騒ぎがして、電話をかけてみることにした。朝4時半の電話に先生一家は さぞかしびっくりしたことだろう…。ちょっとの間電話が鳴った後、先生が受話器を 取った。一瞬なんで先生が家にいるの?と不思議に思ったが、「どうしたんですか? 車が来ないし…」と聞いてみた。すると先生はちょっと考えたあと、「もう(岩淵先 生を)迎えに行ったよ」と答えた。その時、私は1日勘違いしていたことに始めて気 がついた。ショック〜!そして、こんな時間に先生に電話をかけて、睡眠の邪魔をし てしまったことが恥ずかしくなり、部屋に戻って、ベッドに横になっても、眠られな かった。次の日、音楽院の廊下で眠たそうな先生に会って、「すみませんでした」と 謝った。「勘違いしていたのか、いいよ」と言って、許してくれた。少しほっとし た。早朝4時半に電話をかけた生徒は、今までもこれからも私一人だろう…。

5月19日

岩淵先生に初めてお会いした。モスクワでシェレメーチェボ空港Tから国内線のシェ レメーチェボUへ移動の際に、“やみタクシー”に遭い、運転手がトランクを持って 早足で去っていこうとするのを追って、段差で転びかけ、足をけがしてしまったらし い。おまけに200ドルを払わされ、「本当についていなかった」と落胆されていた。 モスクワは危険な場所だ。(モスクワでの空港移動の際は、必ず知り合いやインツー リストを通じて出迎えを手配しておいた方がいいです!!)夕方からコンクールの開 会式とくじ引き、審査員の先生による開会コンサートが行われた。ジュニアグループ とシニアグループの二つに分かれ、日本からはジュニアに3人、シニアに1人、参加者 がいた。参加者達は全員、音楽院から徒歩10分の所にあるノボシビルスクで一番いい と言われているシベリアホテルに滞在していた。

5月20日

朝10時から音楽院の大ホールでジュニアグループの第1次予選が始まった。ハンス リップという英国人のブロン先生の弟子が一番手だった。とても音楽的に弾くが、音 程がかなり怪しかった。様子を見に来た崎谷直人君の高田先生は、「直人君の方が全 然上手だわ!」と言って、余裕だった。東京音大付属の印田千裕ちゃんが6番手で弾 いた。パガニーニのカプリースの24は会場の聴衆が息を呑むほど完璧の出来だっ た。日本人の楽器はいい楽器なので、音楽院のホールできれいに響いていた。カザフ スタンや韓国人の参加者もいた。コンクールが行われている間、弦楽学部の授業はほ とんど休講で、弦楽学部の学生達はリハーサル室からホールへの誘導係やリハーサル 室の鍵の管理係などを、交代制で遂行していた。英語のできる学生は外国から来た参 加者の付き添い通訳として活躍し、私は日本人付き添い通訳をやった。

5月21日

ジュニアグループの第1次審査の二日目。日本人が二人、東京音大付属高校2年の 女の子と桐朋音楽教室の小学校6年生の崎谷直人君が演奏した。崎谷君はとても素晴 らしい演奏をし、会場の拍手が止まなかった。崎谷君の後に弾いたロシアのミハイル ・シマニャン君も負けないくらい観衆を魅了し、第2次審査からこの二人の演奏の後 は、聴衆の拍手合戦のようになった。ジュニアグループの全員の演奏が終わって、第 2次審査通過者が発表された。印田千裕ちゃんと崎谷直人君の二人が通過した。通過 できなかったもう一人の日本人の女の子は「何で私だけ通らなかったの…」と半分泣 きそうで、納得できないようだった。悔しい気持ちは本当によく分かる。でも、コン クールなどの勝負事は、厳しいもの。必ず勝つ者がいて、負ける者がいる。負けた り、うまくいかなかった時は、原因を良く考え、内省して、次につなげればいい。コ ンクールに負けたから、その人が下手な演奏をしたとは限らない(!)。審査員に強 力な支持者がいなければ、コンクールに勝つ事は難しい。ノボシビルスクの国際ヤン グヴァイオリンコンクールも別称“ブロンコンクール”と呼ばれている。1位なる人 は、どんなに不成功な演奏をしても、コンクールの前からブロン門下と想定される。 実際、その通りになってしまう。「そんなの不公平じゃん!」という人がいるかもし れない。だが、ロシア語で、“そんなことをするのは、あなたが初めてではないし、 最後でもない”という言いまわしがあるのだが、自分がブロン先生の立場だったらど うするだろうか? 自分の弟子を優位にするだろうか、それとも逆に厳しく評価を下 すだろうか…。コンクールには、“公正”という言葉は存在しない。私はそのことを 知った。

5月22日

10時からシニアグループの第1時審査が始まった。シニアグループは実際に来た人 が少なかった。1ヶ月後に控えたモスクワチャイコフスキーコンクールと併願してい る人が何人かいて、その人達が来なかったから、全部で10人程度だった。日本人の高 校3年生の女の子は無事に通過した。日本から来た3人の女の子達は、今回、奥さんが 日本人で日本に住んでいるペーチャという付き添い通訳とピアノ伴奏者の斎木ゆりさ んの5人で仲良くノボシビルスク入りをしていた。ホテルに様子を見に行った時、第 2次に通過した2人は次に向けて練習していた。一人一人別々の部屋だったのだが、 通過しなかった女の子は持ってきた濃赤のドレスをたたみながら、「1次で落ちるな んて…」と落ち込んでいた。他の友達の2人は通過したから、その悔しさを本当の意 味で分かってくれる人も分かち合える人も周りにいない…。皆それぞれどこかで辛い 思いや苦渋を味わわされる。でも、それは神様が与えてくれた試練だと思って、乗り 越えた時、一回り大きくなった自分に出会えるはずだ。

5月23日

ジュニアグループの第2次審査が始まった。第2次審査の課題曲として、故寺原伸夫 氏の「ロマンス」が取り上げられた。寺原氏はブロン先生の親友で、このコンクール の審査員としてくるはずだったが、1ヶ月前に病気で亡くなった。氏はモスクワ音楽 院留学中にハチャトゥリアンに作曲を学び、ブロン先生と同期生だった。ブロン先生 は、寺原氏に、12才で来日したレーピンの為に何か小品を作曲して欲しいと頼み、こ の「ロマンス」が出来上がった。ラフマニノフのロマンスに似ており、参加者はその 甘い哀愁漂うメロディーをしっかり歌った。日本人作曲家の作品がはるか遠いノボシ ビルスクの国際コンクールで取り上げられ、演奏されたことは画期的なことだった。 「ロマンス」は地元のロシア人にも気に入られ、そのメロディーがあちこちで口ずさ まれるようになった。印田さんも直人君もたいしたミスもなく、手堅く演奏し、最終 の第3次審査まで残った。岩淵先生が、シベリアホテルで昼食をご馳走してくれた。 モスクワでけがした足はまだ痛んでいるようだった。先生とゆっくりお話ができて、 知らないことをいっぱい教えてもらった。岩淵先生は京都に住んでおられるので、共 通の知り合いがいたりして、話がとても盛り上がった。

5月24日

シニアグループの日本人の女の子は第2次審査で落ちた。この原因は、おそらく モーツァルトのコンチェルトの解釈や演奏のやり方に未熟な点があった、ということ だと思う。大概、ロシアの子供は大人になるのが早い。日本の子供は大学生になって も、子供のような人が多いが、ロシアでは違う。ロシアの男の子も女の子も年頃とい うのが16才前後で、しっかりしてきて、色気が出て来て、着る服も大人っぽいものに 変わってくる。この日本人の女の子は、真っ白な“子供のような”デザインのワン ピースを着て演奏した。私は、「シニアグループなのに、子供っぽいなぁ…」という 印象を受けた。そして、演奏面でも、楽器の音はいいけど、解釈が幼稚、と思わせる ような所が何箇所かあった。きっとそれが審査にも悪い方に響いたのだと思った。

5月25日

ジュニアグループの第3次通過者のオーケストラとのリハーサルの日だった。月曜 日だったので、教育大学に行っていた。リハーサルと仕事がちょうど重なってしまっ て、印田さんの付き添い通訳をしてあげられなかったのだが、最終審査に残れなかっ た2人のお友達が付き添っていてくれたようだ。これを聞いて、私はほっとした。高 校生の彼女たちは嫌な中間テストシーズンで、あまり学校も休めないし、勉強もある し…という訳で、2次で落ちた2人と通訳のペーチャとピアニストの斎木さんは一足先 に帰ることになった。印田さんだけ残ることになって、私が彼女の正式な付添人と なった。コンクール組織委員会の配慮で、私もシベリアホテルに泊まれることにな り、食事も付けてくれた。ラッキ〜! 印田さんが練習している間、久しぶりにゆっ くりお風呂に入ることができて、感激した。寮のお湯が止められていたので、こんな に有り難いことはなかった。コンクールの期間、ただ働きだったが、この特典は私を 十二分に喜ばせてくれた。

5月26日

早朝、高校生達の一行はモスクワ経由で日本に発った。ペーチャはモスクワの実家 で待機し、数日後、印田さんをモスクワで出迎え、彼女と一緒に日本に帰ることに なっていた。シニアグループのオーケストラ合わせがあった。

5月27日

いよいよジュニアグループの最終審査。私はてっきり、印田さんの番は、一昨日の リハーサルの時間と同じと思い込んでしまっていた。もし、朝オリガさんが電話をく れなかったら、私達は本番に遅刻していただろう…。危うい所を救われた。午前中の 最後に印田さんがヴャニヤフスキーのヴァイオリンコンチェルト第2番を弾いた。午 後から、人気ナンバーワンの地元出身のミハイル君と直人君が弾いた。会場の拍手が 鳴り止まず、二人とも5回も6回も出たり入ったりした。まるで拍手合戦のようだっ た。

5月28日

シニアグループの最終審査だった。シニアになると、チャイコフスキーやパガニー ニのコンチェルトなど、難曲が次々に演奏されたが、結構音程も外れていたし、皆そ んなにたいしたことはなかった。ジュニアの方が、才能ある若手の競演といった感じ で面白かった。そして、夕方に結果発表があって、ジュニアグループでは、直人君は ミハイル君と同立1位、ブロン門下のイギリス人のハンスリップちゃんも1位になっ た。 1位が3人もいるコンクールなんて、絶対おかしい(!)。2位はグボーズディフ 門下が占め、3位に印田さんが入賞した。シニアグループでは、高田先生曰く、「音 が大きいだけで、たいして上手でもなかった」フランス人の美人さんが1位になっ た。彼女はブロン門下だった。2位にグボーズディフ門下の女の子が入賞した。個人 的な意見だが、結局、コンクールの結果は、参加者の演奏の結果よりも、審査員の力 の方が物を言うようだ。

5月29日

ブロン先生に頼まれて、審査員ミーティングの時、岩淵先生の発言の通訳をした。 日本人の話し方の特徴は、回りくどくあいまいである。通訳にとっては非常にやりに くい。実は、ブロン先生は、受賞者の賞を増やす為に、審査員の面前で、岩淵先生に 「ジュニアで1位になった直人君とハンスリップちゃんによる寺原氏追悼の為の演奏 会をユーラシア協会に働きかけて行う」という旨のことを発言・提案して欲しかっ た。寺原氏はユーラシア協会の理事を務めておられた方なので、これは現実的には不 可能ではない話なのだが、まだはっきり決まった訳ではなく、あくまでもブロン先生 の提案。だから、岩淵先生は、「むこうとも話をしてみないと分からないし、あんま り余計なことは言いたくないのだが…」といった調子で、何を訳していいのやら良く 分からない。事情を知っている私は、余計なことまで訳してしまい、すごく恥ずかし い失敗をしでかしてしまった。悪いのはブロン先生なのだが、人助けだからといっ て、二度と通訳なんかやるまい(!)と思った。飛行機のチケットの変更がうまくい かなかったので、岩淵先生は予定通り明日の早朝にモスクワに発つことになった。ア エロフロートはサービス対応が悪く、なかなか融通の利かない航空会社だった。(プ ンプン!!)

5月30日

入賞者のガラコンサートだった。入賞者の人数が多かったので、2位以上の入賞者 のみ演奏会に出演した。だから、3位だった印田さんは、私と町を散歩したり、寮に 遊びにきたり、お土産を買いにいったりして、練習やリハーサルに縛られることな く、リラックスしていた。夕方4時から表彰式があって、その後、ガラコンサートが あった。直人君とシマニャン君は相変わらず拍手合戦を引き起こしていたが、シニア で1位になったフランス人の女の子はドレスと容姿がきれいなだけで、たいしたイン パクトを与えず、「えっ、こんな演奏で1位?」という感じだった。7時過ぎからシベ リアホテルの2階の広間で打ち上げパーティーが行われた。私も印田さんと出席し た。審査員も参加者も皆、長丁場のコンクールから開放され、お酒が入り上機嫌、先 生同士の交流や生徒同士の交流も芽生えていた。

5月31日

早朝、皆揃って、モスクワへ発った。空港まで送りに行った。とても忙しい10日間 だったが、とても楽しかった。コンクールが終わってしまって、心の中に楽しい思い 出とちょっぴり寂しい余韻が残った。

6月1日

バレリーナの未央ちゃんの結婚式だった。札幌から未央ちゃんの御両親がかけつけ てきた。バレエ学校時代の同級生ビタリーと数年間の同棲生活の後、今日“ゴールイ ン!”した。ロシアの結婚式に出席するのは初めてだった。私達は、ザックスという 結婚登録所に行き、皆が見守る中、未央ちゃんとビタリーは結婚合意書にサインを し、めでたく夫婦になった。それまでにも新郎新婦の劇場の同僚友達たちが面白い企 画やゲーム、例えば、部屋の鍵が埋め込まれているキュウリの丸かぶりなどをし、 やっている方は大変そうだったが、見ている方はとても楽しかった。披露宴はオビ川 のほとりのホテル“オビ” で行われた。会場では出席者一人一人が花を持って、大 きなパンと塩が用意され、ロシア式に新郎新婦を迎えた。親戚や両親の挨拶などは日 本の披露宴と同じだった。違う所は、皆腹ごしらえを済ますと、踊り出すことだっ た。太った中年の女性も大きな体をふりふり、音楽に合わせて踊るのだ。これは一見 の価値があった(笑)。ロシア人は踊り好きの民族だといえる。ウォッカの一気飲み やゲームもあって、とてもアットホームな披露宴だった。ロシアの結婚式の伝統的イ ベントは“花嫁が盗まれて花婿が買い取る”こと。私は未央ちゃんを連れ出す役を頼 まれ、まんまと花嫁を盗み出すことに成功した。会場でビタリーはお金をたくさん積 み上げ、盗賊のリーダーと交渉して、花嫁を買い戻した。めでたし、めでたし! 私 達はお腹いっぱい食べ、11時まで踊り明かした。楽しい結婚式だった。

6月2日

教育大学で“ザチョット”をした。4年生には「旅行」というテーマでスピーチを させた。3年生は皆優秀で、言うことがなかった。1年生には会話や質問を少しして、 ひらがなで平家物語の冒頭部分「ぎおんしょうじゃのかねのこえ…」を読ませたが、 皆短期間でひらがなを良く覚え、すらすらつっかえずに読んだ。意味はまだ理解でき る段階ではなかったが、「いずれはあなたたちが歴史の授業で勉強するであろう至極 の文学作品の冒頭だ」というと、興味を持って、夏休みにロシア語でぜひ読んでみた いという学生も何人かいた。2年生は授業も大変だったが、“ザチョット”も大変 で、歴然とした差が生徒の間であった。落第点の学生もいたが、彼らにとって日本語 はどうでもいい訳で、私も適当にあしらうことにした。「もう教育大学には来ないか ら追試を受けたいなら、直接私の寮まで来なさい」と言い残して帰った。この日が私 の教育大学での仕事納めの日となった。

6月3日

コンクールがあり、未央ちゃんの結婚式があり、教育大学でザチョットをし、全然 自分の練習ができていなかったので、朝から肝をすえて、ヴァイオリンの練習をし た。2時間ぐらい音階やシュラディックばかりを弾いて、その後、パガニーニのカプ リース24とチャイコフスキーの瞑想曲とヴャニヤフスキーの華麗なるポロネーズを 重箱の底を突付くように細かく練習した。十分練習ができたので、自分でも満足し て、夜、先生に電話をかけて、レッスンにまた通うことにした。先生はコンクール以 来、私がレッスンに現われないので、不機嫌で、少し怒られたが、事情を話せば分 かってくれた。

6月5日

レッスンがあった。音色はとても良くなったのだが、テクニックや細かい所がまだ うまくいかなかった。音程が悪い所はビブラートなしで練習するように言われた。 チャイコフスキーの瞑想曲では上昇の音階やクライマックスの部分の高いポジション のビブラートが足りないと注意され、ポロネーズでは運弓法のことを細かく言われ た。

6月7日

スヴェタのパパの誕生日だった。お祝いに行った。

6月8日

レッスンがあった。グボーズディフ先生は日本人のようによく働くが、非常に質素 な暮らしをしている。ロシアの古きよきインテリ達は皆、基本的に貧しい生活を送っ ている。日本では医者・教師の給料は平均的に高いが、こちらでは逆。ロシアの医者 ・教師の給料は、他の職業、例えばビジネスマンなどに比べると断然少ない。もし、 グボーズディフ先生が日本やヨーロッパで働いたら、今ごろ大金持になっているので はないか、と考えてみた。生まれ変わるとしたら、どこで生まれたいか?ロシアで生 まれたいだろうか?おそらく“ノー!”だ。だって、普通には暮らしていけないもん …。ロシアの良い所は認めつつも、やはりいくら働いても全然お金にならないので、 ロシアで暮らしていくのは大変だ。かつて友達のオーリャはロシアに生まれたことを 嘆いていたことがあった。外国語を勉強して海外に脱出するロシア人が大変多いの は、そういった事がネックになっている。

6月10日

落ち着きを取り戻して、また練習に打ち込む毎日だった。そして、先生は1日おき にレッスンをしてくれた。曲の方もだんだん良くなっていた。

6月17日

入学試験の後、チャイコフスキーの瞑想曲とヴャニヤフスキーの華麗なるポロネー ズとパガニーニのカプリース24を弾いていたが、今日合格点をもらった。2日後に 日本に帰るので、先生は夏休みの宿題でブルッフのヴァイオリン協奏曲をくれた。先 生の楽譜を借りて、コピーした。

6月19日

安見ちゃんと千葉さんと日本に発った。これから札幌に留学するイーラも一緒だっ た。ノボシビルスクから日本までの直行便がないので、ハバロフスク→新潟というお 決まりのルートだった。19日の夜遅くノボシビルスクを発って、ハバロフスクについ た時は、時差の関係もあって、次の日の10時を過ぎていた。私達は順番にお手洗いで 洗顔を済ませ、2階のカフェで遅い朝御飯を食べた。約4時間雑談をしながら、そのカ フェで時間をつぶした。飛行機の搭乗チェックの際に、私のヴァイオリンが問題に なった。彼らは、税関申告書に楽器の持ち込みの記入がないから、「没収する」と言 い出した。「えっ!」ピンチ…。さらに楽器のパスポートがないから、私のものかど うかも疑われた。絶句…。私は音楽院の学生証を見せ、1年間音楽院でヴァイオリン の勉強をし、ヴァイオリンは日本から持ってきたもので、知らなかったことだから、 今回は勘弁して欲しい、と涙目で哀願した。あまりにも大袈裟にやったので(密かに 私は芝居がうまかった)、むこうも折れて、「じゃあ、今回だけは見逃してあげる」 と言って、見逃してくれた。よかった…。
ロシア出入国の際の楽器の取り扱いについて:楽器のパスポートがあればいい。年期 の入っている楽器は骨董品・美術コレクションとして扱われるから、要注意。パス ポートが無い場合は、ヴァイオリンと弓の写真を持っておくこと。税関申告書には必 ず記入すること。場合によっては、持ち出し許可書が必要になってくる。その場合 は、ロシア国家文化省文化遺産保存局で必要書類を作成する。
【留学1年目のまとめ】
初めての海外長期生活。ロシア語が上達した。ヴァイオリンは、はじめの基礎から やり直した為、先に進めたとは言い難いが、音の質がとてもよくなった。腕の力も抜 け、楽器が良く鳴るようになった。来年からは、もっといろんな曲をたくさん弾いて いきたい。寮が快適ではないので、住む所を少し考え直さなければ、あと5年も耐え 切れないだろうと思った。留学自体は楽しかったのだが、それが本当に将来の仕事に 結びつくかどうか心配で、結果的には音楽院に入学できたが、いつも「いつ留学を辞 めようか」と心の底では思っていた。


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